ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491774hit]

■明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか
 気温は低いが日差しはまあまあ、このくらいの気候が私には一番しのぎやすい。睡眠も充分取っているので、朝も何とか起きられる。このまま雨が降らずにいてくれりゃあ万々歳なんだが。

 明日はバレンタインデイであるが、若者は起源たる殉教者バレンタインのことも知らず、「なんで女の方から男の方にコクらないかんと?」みたいな他愛無い文句を垂れていたりする。
 私なんぞはワケシリ顔で「あんなもん日本のチョコレート会社の策略だよ」なんてヒネたことを言うもんだから、若者から「夢がない」などと叩かれてしまうのである。もちろん、その仕立てられた「夢」とやらに乗っかってくれる連中がいないことには製菓会社の屋台骨は崩れてしまうし、ひいては景気の不振にもつながりかねないわけだから、世の女性が「うふ〜ん、あの人、私のこと振り向いてくれるかしら? ドキドキ」なんて腐れた頭を悩ませていることについて、いささかの文句をつけるつもりもない。押井守じゃないが「人間は虚構にのみ生きる価値を見出す」ものであるから。
 何にせよ、この程度の虚構にうかうか乗せられるってこたあ、誰ぞの言い草じゃないが平和な証拠である。もちろん、頭の中が平和なだけであって、こういう連中ほど、悪辣な為政者の手にかかれば自由自在に洗脳されて醜(しこ)の御楯と化し、「大君の辺にこそ死なめ」と死んでいくのである。……生まれた時代によっては私もその一員だったかな。
 でもハタチになろうってのに未だにサンタをマジで信じてるやつがいるのが日本人の現状だと言ったら(ウソではないぞ)、日本の為政者は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。多分その「事実」から目を背けるんだろうな。

 女房から一日早くバレンタインチョコをもらう。ビニールカップにチョコを流しこんで、その中にフルタのチョコエッグのペット動物コレクションを仕込んでいる。芸が細かいんだか雑なんだか分らんな(^_^;)。
 先日よしひと嬢からもチョコをもらったので今年の収穫は多分この二個で打ち止めである。まあ妻帯者なんだからこれで満足せねばな……ってこのトシになってまだ何か期待しているのか。

 『國文学』の3月号、四方田犬彦が川端康成と映画の関係について紹介している。文学者と映画の関係、今やその間はいびつに乖離していて、活字と映像は別物、と解釈するのはごく当たり前、という感じの論評も多く目にするようになったが、かつての日本において、この二者は極めて近しい関係にあった。と言うか、文芸活動の一手法として映画が捉えられていた時代が結構長かったのである。
 四方田氏も指摘しているとおり、谷崎潤一郎がハリウッド喜劇の翻案的な『アマチュア倶楽部』を脚本執筆、制作したのを皮切りに(主演女優に手をつける第1号ともなったが)、大正から昭和初期に映画に関わった文学者を挙げていけば相当な数に上ることは間違いない。
 川端康成が五所平之助と組んだ『狂った一頁』、もう二十年来見たいと思いつつ未だに機会を得られないが、『カリガリ博士』などドイツ表現主義の影響下にある相当シュールな代物だと言うことは耳にしていた。実際、川端康成は、映画化された『伊豆の踊子』などのイメージから、純愛ロマンの作家と勘違いされている向きがあるが、立派な変態小説家である。……だから『伊豆の踊子』の原作じっくり読んでみなさいってば。教科書なんかじゃヤバイ表現相当カットしてるけど、明らかにあの学生、十四歳の踊子に肉欲感じてんだから。
 四方田氏、数ある『踊子』映画化の中で西河克己監督、山口百恵主演版が唯一、賎業としての踊子を描いている、と評価している。慧眼だなあ。昭和49年、私があの映画を始めて見たとき(11歳だよ……)、鮮明に記憶に残ったのは、ラストシーン、学生と別れた踊子がお座敷で酔客に抱きつかれ、顔を顰めるストップモーションであった。無論、その後踊子は、体を売る生活に入っていくのである。当時、ウチの親は「『伊豆の踊子』ならいいよ」、とおそらく田中絹代版を連想したのであろう、私が見に行くことをいとも簡単に許可したが、そんなインモラルな映画だったとは夢にも思ってなかったに違いない。つくづく親の無教養に感謝する次第である。

[5]続きを読む

02月13日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る