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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「ディア・ドクター」
れっきとした医師であるはずの相馬だけが、伊野の嘘が見抜けませんでした。このことからも、医療業界と言うのは、経験がものを言う世界だとわかります。伊能の嘘によって、僻地医療への夢と希望が砕かれた相馬。しかし伊能の元で学んだ彼の言葉には、患者側への提言も含まれます。「東京の病院では、患者の逆恨みや苦情で追い詰められていたのに、ここでは医師への感謝と敬意に満ちていて、本来のあるべき姿がある。医者としてのやりがいを感じるんです。」この言葉は、良き医師を育てるのは、患者の責任でもあるのだと思いました。

自分の父親の本当の仕事を、かづ子以外には語らなかった伊野。父親の仕事が彼にコンプレックスを持たせ、彼に嘘をつかせた起因であったと思います。どんなに優秀な大学を出ていたとて、父親の仕事を彼が口にすれば、なーんだと、相手は伊野をみくびり軽く侮蔑する、そんなことが多々あったことは、想像に難くありません。そのことで父の仕事に憧れ、憎む伊野がいたはずです。

「次々投げてくる弾」を的確に打ち返すことは、伊野に陶酔感をもたらすと同時に、常に逃げ出したい、とてつもない緊張感をもたらしたはず。我慢出来ず、時々冗談交じりに伊野が吐露する「真実」。それは多分、逃げ出したい気持ちが数段勝っていたと思わせます。それが出来なかったのは、長らくこの地が無医村であったためです。斎門の語った言葉が全てでしょう。例え嘘から始まったことでも、伊野なりの誠意と責任があるのです。そして村全体で、伊野の嘘を真実にしてしまったのだという、刑事の言葉も真理です。しかし、誰がそのことで村民を責める権利があるのでしょうか?

かづ子の娘であり医師であるりつ子(井川遙)。無医村である故郷を知るのに、自分の親でさえほったらかしの彼女。姉たちは陰で詰りますが、その事に医師であるりつ子が、心を痛めないはずはありません。しかしどうしようもないほど、都会の医師たちは多忙なのです。多分心身ともにすり減った日々を送るであろう彼女は、「あなたは伊野を訴えることも出来ます」という刑事の言葉に、「村の人に訴えられるのは、私の方かもわかりません」と、自嘲気味に答えます。地方出身のたくさんの医師の、内心の忸怩たる思いを、監督は彼女で表現したのだと思います。そして「彼(伊野)が、どういう風に母を診る気であったのか、知りたい」という彼女の言葉は、今のままの医療ではいけないのだという、医師側からの危機感も感じます。

西川監督の作家性でもある、常にスクリーンから漂う緊張感。しかしこの作品からは、一瞬気を抜けるユーモアもふんだんにありました。例えば老衰で亡くなる寸前の老人(高橋昌也)を往診するシーン。亡くなる事を前提に話を進める家族を尻目に、蘇生の準備をする相馬。それを遮って、「よう頑張った」と、伊野が老人の「遺体」を抱きしめ、心から労った後に起きた「奇跡」。そのユーモアで表現した部分こそ、監督が医師と患者との本当のあるべき姿を提言していたのかと、今感じています。かづ子との関係もしかりです。

今の医療を取り巻く環境は細分化され、本当に難しく問題が山積みです。しかし軸になるのは、病気を治したい患者と医療者側の、一丸となった強い気持ちであるのは、今も昔も変わりはないはず。片方に偏らず、両方にしっかり目くばせを効かせた作品で、とても考えさせられることがたくさんありました。病気は誰でもなるもの、医師には敬意を持ち、かつ奥する事無く何でも相談できる対等な環境を作らねばと、患者側でもある私は、痛感した作品です。

06月28日(日)
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