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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「イージーライダー」(布施ラインシネマ ワンコインフェスティバル)
二人とも同じに思えた子供時代と違い、今回はキャラもくっきり。思慮深そうで口数少ないクールなワイアットは、協調性も社会性もある程度身についているようです。ビリーの方はやんちゃで明るく、無軌道な野生児のような雰囲気が、幼い感じもするけど若々しくもあります。大家族の元で食事を世話になる時、お祈りの前にビリーが箸をつけたのが印象的でした。みんながお祈りの用意をしてるのにです。これは彼が早くから家を出たか、もしかしたらストリートチルドレンのように育ったからではないかと感じさせました。
対するワイアットは、出会った弁護士(ジャック・ニコルソン)に「インテリって?」と問われ、「いい人だ」と答えたシーンが印象的。確かナイスガイと聞こえました。これは必ずしも=でないはずですが、皮肉だったのか羨望だったのか。知的な印象も与えるワイアットだったので、含みが感じられます。
ヒッピーたちのコミューンは、今の年齢の私が見ると、奇妙な反社会性より純粋さを感じさせます。でも見通しも甘く、きっとその内散り散りになるんだろうなという予感が。実際にこういうコミューンにいた人たちの、その後が知りたくなりました。
あちこちで長い髪、バイク=無法者のイメージで露骨に差別される彼ら。ベトナム戦争のことには一言も触れませんが、この戦争のせいで、当時のアメリカ人の志向が分裂したのが、この作品の背景にはあるのでしょう。田舎に行けば行くほど脅迫的なほど保守的になるのが怖いです。白人の彼らですらそうなのですから、黒人を始めとする有色人種、ヒスパニック、障害者などは人間扱いされなかったのでしょうね。今は良い時代になったなと、素直に思います。今観ると何も偏見の対象になるような見かけではない彼らなので 40年近く前の時代の思想も感じることが出来ます。
しかし弁護士の語る「自由を説く者より、自由を生きる者は、世間から恐れられる」というのは、今の時代も脈々と続いているんじゃないかと思います。自由という定義は時代によって微妙に変遷していくだろうし、現にワイアットとビリーの自由も違うものです。お金が入れば自分のしたいように出来ると思っていたビリー。彼の自由はお金のある人間は、どんな行動も非難されない、それが自由だと思っていたのでしょう。お金があっても自由は得られないと言うワイアット。彼の自由は心の解放だったのでしょう。もっと言うと世の中から解放されないことの苦悩から、脱せない自分からの解放でしょうか?世間を憎むビリー、自分を憎むワイアットということかな?ワイアットのその感情は、娼婦たちとの混沌としたシーンで表わしていたような気がします。
衝撃的なラストは、彼らが麻薬の売人だったということが前提にある気がします。無軌道者には相応しい気がして私的には納得でした。
「イージーライダー」と言えばステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」ですが、オープングでバイクで馳走する二人は今観ても本当にかっこ良く、当時スクリーンで観てバイクの免許を取った人は多数だったと思います。かっこ良いと言えば、私は当時ピーターが大好きだったんですが、あまりにアンソニー・エドワーズと雰囲気が似ていることにびっくり!異性の趣味って変わるもんじゃないんですね(実感)。


映画が終了して、「全然わからんかった」という夫。「寝てても良かったんやで。あの弁護士さんな、ジャック・ニコルソンの若い時やで。あの演技であちこち賞もらって、認められたんやで。」「全然わからんかったわ。そうか、なかなかハンサムやし、芝居も上手いと思っててん。」
夫「あれがレクター博士やったんか」
私「違う!」
夫によると夫婦とは、神様が相性の合わない者同士を引き合わせ、魂の修行をさせるものなのだとか。いつまで続く修行の道ぞ。次回に続く(嘘)。
08月26日(日)
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