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2006年06月06日(火)
大学

私が通った大学は、小さい地方大学ながら、文系に関して総合大学だった。
教育学部国語学科に在籍していたが、教授陣もカラフルで、漢文学、言語学、国文学(近世)国文学(中世)国文学(現代)教育学、書道と、一通りのジャンルで専門を分け合っていた。
他にも興味のおもむくままに英文学、ヘブライズム(聖書)、憲法、哲学と、単位で遊ぶことができた。
もちろん必須のつまらないものが隙間を埋め、私はほとんど出席しない不良学生だったのだが。

最近岡野玲子のコミック『陰陽師』を彼女から借りて読んでいて、おもしろい。ほんとにおもしろい。
陰陽道は古く中国から伝わったものが起源である。
大学の漢文学の授業で習ったことが端々で思い出される。中国の最初期の文学は、ほとんどがオカルトである。わざわざ文字を残すなんてことをするのは国を司る立場のものだけで、しかも政治イコール祭祀だったのだ。帝は天の子であり、天のおうかがいですべてが決まる。なにしろ文字(象形文字)がうまれたきっかけも、亀の甲羅に焼けた火箸をつきたてて占いを行ったその形を記録するところから始まっている。

古代中国の二大文学『詩経』『楚辞』のうち『楚辞』を主に勉強した。それを教授が読み解いていくのだが、あくまでも教授の持論であり、一般の通説とはことなる解釈だ。それが面白い。
教科書を学ぶのではなく、教科書をつくる仕事。教科書を相対化する視点をもたせる作業だった。
もちろん教授の持論が完全に正解かどうかは分からない。
だが、それを正解と思わせる論拠を積み重ねるのが論文を書くという仕事だし、それこそが教授のメインの仕事である。授業とはその成果をこぼしてみせて適当にレポートを書かせる二次的な仕事だ。
卒論指導なんてまさに雑用だろう。

大学は、楽しかった。もっと勉強しとけばよかったと、もったいない気持ちもあるが、まず、完全燃焼した学生時代だったと言える。留年したが。恋をして酒を飲み麻雀にはまり、授業をさぼって寝ていた。
幸せだった。

ちなみに私は現在でも、京都御所のどっかに陰陽家が控えていて、子産みのまじないなんかやってるんじゃないかと夢想している。



2007年01月25日(木)
文芸とは

ビジネス書、宗教書、教養書を読んでいる。小説はほとんど読まない。最近の人の書いたものなどほとんどヒマつぶしのようなものだ。それでいいし、それが目的なのかもしれないが。しかし、たまに破壊力のある小説もある。文学というのは、倫理や道徳ではない。本を読んでも、世に言う善良な大人には育たないだろう。ビジネス書のように割り切った正解のようなものでスパッといかない、宗教書のような倫理でスパッといかない、人間のどうしようもないごちゃごちゃぐにゃぐにゃを描くのが文学だ。理屈じゃない。(別に、ビジネス書や宗教書に分類されるものに文学がないわけじゃありません。)

しかし、内容何書いても、その書きぶりが好いならば、それで文芸と言える。『「文学」じゃなくて「文芸」なんだよ、みんなが普段「文学」と言ってるものって。』なんてセリフを、昔オレは吐いた。文の芸。『小説は歩行、詩は舞踏』なんてセリフを、昔オレじゃない人が吐いた。小説も舞い方ってのがあるし、詩だって、いい詩は、はしゃいだ書きぶりでも、その実落ち着いてる。しっかり歩みを持ってるし、型が様になってる。短歌や俳句じゃない現代自由詩は、言ってみれば、その一回っきりの、定型を新たにつくる作業だ。一回っきりの舞いの手の動き指の所作が、様になってれば、キマってれば、俺は感心する。

基本的に、昔の偉人のほうが偉い。俺電卓使えるけど、ピタゴラスの定理考えつかない。



2007年03月24日(土)
堀江

堀江貴史の「儲け方入門」を今更だけど読んでいる。図書館で物色していたら目に入ったのだ。僕は堀江を100%肯定はもちろんしないが、100%否定もしない。結構まともなことも言っている。彼の主張のいいところだけを拾えば、自分にとってプラスに活用できると思う。これって何も堀江についてだけのことじゃない。何から何まで、外からくる情報って自分の取捨選択と一体のものだ。
発掘あるある大辞典だって、5%に虚偽があったとするととたんに全否定されてしまってるけど、95%は事実だったんでしょ。信用性の問題から番組中止はやむをえないことだけども。

昔ラジオで、「俺は明るいだけってのは信じないし、暗いだけってのも信じない」というセリフを聞いて、そうだよなぁと感動したって話を以前もどこかで書いた気がするが、堀江やあるあるを批判して、じゃあ自分は真っ白な人間かと言われて、はいと言える人間がいるものだろうか。彼らは黒の部分が公的に悪だっただけだ。(それはもちろん悪いのだけど)



2007年03月25日(日)
彩り

ただ目の前に並べられた仕事を手際よくこなしてく
コーヒーを相棒にして
いいさ 誰が褒めるでもないけど
小さなプライドをこの胸に勲章みたいに付けて
 
僕のした単純作業がこの世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に
少ないけど 赤 黄色 緑

なんてことのない作業がこの世界を回り回って
何処の誰かも知らない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に増やしていく 水色 オレンジ

なんてことのない作業が回り回り回り回って
今僕の目の前の人の笑い声を作ってゆく
そんな確かな生き甲斐が日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 頬が染まる 温かなピンク
増やしていく きれいな彩り

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ミスチルの『彩り』の抜粋ですが。
いい曲だなぁと。



2007年04月11日(水)
セクシーボイスアンドロボアンド黒田三郎

今日始まったドラマ「セクシーボイスアンドロボ」を見た。松山ケンイチは好きな役者だし、大後寿々花も若手実力派という感じ(まだ14歳だが)。キャストがすごくいい。で、見てみたら、やっぱり面白かった。笑えるし、しみじみ泣ける。それにしても、まさかドラマのなかで黒田三郎の詩が出てくるとは思わなかった。びっくりした。

黒田三郎・・・戦後の詩人。詩誌『荒地』の同人。カタく、重っ苦しい荒地の中にあって、恋愛や生活のなかの平明な叙情をとらえた詩風は親しみやすい。しかし、深刻な時代の中を生きる鋭敏な感性は、単なる明るさにとどまるものではない。時代の重さは彼の心をも十分にひたしている。また、身近な題材を採ろうともその技量は確かであり、かたっ苦しい詩しか書かないような他の同人からも認められていた。あと、大酒飲み。NHKの職員で職場では詩人ということを内緒にしていた。娘とのやりとりを描いた『小さなユリと』の詩群がほほえましい。代表作は、一応『紙風船』ということになっている。

さて、ドラマのなかで引用されていたのは、『ただ過ぎ去るために』と題された7連の詩のなかの第5連の一部である。あまり「ザ・黒田三郎」というタイプの詩ではなく、渋いチョイスだが、あらためて読んでみると、しみじみである。そして、やはりリズムがビシッビシッと振り落とされた竹刀のように、キマっている。


    お前には不意に明日が見える
    明後日が・・・・・                   ※みょうごにち
    十年先が
    脱ぎ捨てられたシャツの形で
    食べ残されたパンの形で


その他にも、カットのところどころに、詩的な印象を受けた。脚本家は木皿泉。『すいか』や『野ブタをプロデュース』の脚本を書いた人らしい。おもしろい。あと3ヶ月楽しめる。ちょっとメッセージが直接的すぎるかな、と思うところもあったけど、伝えたい対象がいるのだろうな。

私たちはどうしようもなく、世界とかかわっている。


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    ただ過ぎ去るために


       1.

    給料日を過ぎて
    十日もすると
    貧しい給料生活者の考えのことごとくは
    次の給料日に集中してゆく
    カレンダーの小ぎれいな紙を乱暴にめくりとる
    あと十九日 あと十八日と
    それを
    ただめくりさえすれば
    すべてがよくなるかのように

    あれからもう十年になる!
    引揚船の油塗れの甲板に
    はだしで立ち
    あかず水平線の雲をながめながら
    僕は考えたものだった
    「あと二週間もすれば
    子どもの頃歩いた故郷の道を
    もう一度歩くことができる」と

    あれからもう一年になる!
    雑木林の梢が青い芽をふく頃
    左の肺を半分切り取られた僕は
    病院のベッドの上で考えたものだった
    「あと二ヶ月もすれば
    草いきれにむせかえる裏山の小道を
    もう一度自由に歩くことができる」と

    歳月は
    ただ
    過ぎ去るために
    あるかのように


       2.

    お前は思い出さないか
    あの五分間を
    五分かっきりの
    最後の
    面会時間
    言わなければならぬことは何ひとつ言えず
    ポケットに手をつっ込んでは
    また手を出し
    取り返しのつかなくなるのを
    ただ
    そのことだけを
    総身に感じながら
    みすみす過ぎ去るに任せた
    あの五分間を
    粗末な板壁のさむざむとした木理
    半ば開かれた小さなガラス窓
    葉のないポプラの梢
    その上に美しく
    無意味に浮かんでいる白い雲
    すべてが
    平然と
    無慈悲に
    落着きはらっているなかで
    そのとき
    生暖かい風のように
    時間がお前のなかを流れた


       3.

    パチンコ屋の人混みのなかから
    汚れた手をして
    しずかな夜の町に出るとき
    その生暖かい風が僕のなかを流れる
    薄い給料袋と空の弁当箱をかばんにいれて
    駅前の広場を大またに横切るとき
    その生暖かい風が僕のなかを流れる

    「過ぎ去ってしまってからでないと
    それが何であるかわからない何か
    それが何であったかわかったときには
    もはや失われてしまった何か」

    いや そうではない それだけではない
    「それが何であるかわかっていても
    みすみす過ぎ去るに任せる外はない何か」


       4.

    小さな不安
    指先にささったバラのトゲのように小さな
    小さな不安
    夜遅く自分の部屋に帰って来て
    お前はつぶやく
    「何ひとつ変わっていない
    何ひとつ」

    畳の上には
    朝、でがけに脱ぎ捨てたシャツが
    脱ぎ捨てたままの形で
    食卓の上には
    朝、食べ残したパンが
    食べ残したままの形で
    壁には
    汚れた寝衣が醜くぶら下がっている

    妻と子に
    晴着を着せ
    ささやかな土産をもたせ
    何年ぶりかで故郷へ遊びにやって
    三日目


       5.

    お前には不意に明日が見える
    明後日が・・・・・
    十年先が
    脱ぎ捨てられたシャツの形で
    食べ残されたパンの形で

    お前のささやかな家はまだ建たない
    お前の妻の手は荒れたままだ
    お前の娘の学資は乏しいまま
    小さな夢は小さな夢のままで
    お前のなかに

    そのままの形で
    醜くぶら下がっている
    色あせながら
    半ばくずれかけながら・・・・・


       6.

    今日も
    もっともらしい顔をしてお前は
    通勤電車の座席に坐り
    朝の新聞をひらく
    「死の灰におののく日本国民」
    お前もそのひとり
    「政治的暴力に支配される民衆」
    お前もそのひとり

    「明日のことは誰にもわかりはしない」
    お前を不安と恐怖のどん底につき落す
    危険のまっただなかにいて
    それでもお前は
    何食わぬ顔をして新聞をとじる
    名も知らぬ右や左の乗客と同じように
    叫び声をあげる者はひとりもいない
    他人に足をふまれるか
    財布をスリにすられるか
    しないかぎり たれも
    もっともらしい顔をして
    座席に坐っている
    つり皮にぶら下がっている
    新聞をひらく 新聞をよむ 新聞をとじる


       7.

    生暖かい風のように流れるもの!

    閉ざされた心の空部屋のなかで
    それは限りなくひろがってゆく

    言わねばならぬことは何ひとつ言えず
    みすみす過ぎるに任せた
    あの五分間!
    五分は一時間となり
    一日となりひと月となり
    一年となり
    限りなくそれはひろがってゆく

    みすみす過ぎ去るに任せられている
    途方もなく重大な何か
    何か

    僕の眼に大映しになってせまってくる
    汚れた寝衣
    壁に醜くぶら下がっているもの
    僕が脱ぎ 僕がまた身にまとうもの



2007年05月24日(木)
ライアーゲーム 正直は最善の策

土曜の夜にフジ系でやってる「LIAR GAME」というドラマを見ています。もともと妻がコミックで持っていて、「おもしろいね、今度『カイジ』も読んでみてよ」などという話をしていた矢先、ドラマ化ということになった。限定ジャンケンの頃の『賭博黙示録カイジ』+『デスノート』といった感じか。

僕は、もちろん嘘もつきますが、どっちかっていうと正直なほうだと思います。嘘をつかなきゃならないようなときは、言葉少なでいたほうがボロがでません。
いつだったか後輩の女の子から、「人のことが信じられない」というような相談を受けたことがあるのですが、信じる!信じない!というような重大な場面など日常生活でそれほどないのではと思った僕は、しあわせ者なのでしょうか。淡き水のような交わりで日々の大部分を過ごしております。人の言葉には核のまわりにいろんな付属品や装飾がついていますから、それが良かったり悪かったりなのでしょう。「いつもお世話になっております」と言われて、「お世話してないですけど」では世の中なりたちません。

女の子の「あ、それかわいい〜」というような会話を聞くに付け、うっすーいジュース、コップの底面に残ったオレンジジュースに水足して割ったあとのほのかな香りの残るみかん水、のような薄さを感じるのは、いじわるなのでしょうか。無論、こんな感想は正直に女性には言いません。ま、男の会話も大差ない気がしますが。

正直に言う。嘘つかなきゃいけないような言いづらいことは、黙る。

モノを捨てるのがうまい人ってのは、どんどん捨てて、たまに必要なものまで捨ててしまうリスクと、捨てなくていらないものが溜まってしまうデメリットでは後者のほうが大きいことを知っていて、割り切ってるからだということを聞いた。僕も、割り切って正直を選択するようにしている。「あぁ、正直の前にバカが付いてるよ」と反省することもあるのですが。しかしこれは選択であり、戦略。そしてそれによって損することがあってもいい、という覚悟。身と心が軽いってのはまあいいもんだ。今日も妻のみそ汁がうまかったので、「うめぇ!」とでかい声を出してしまった。



2007年06月07日(木)
ゲドを読む。

という小冊子が、6月6日に配布開始となりました。私の店でも配ってます。全国のローソン、書店等においてるようです。無料です。公式サイトはココ。http://club.buenavista.jp/ghibli/special/ged/about.jsp

ゲドだけあって岩波が編集に協力してくれたそうで、文庫本と同じサイズになっています。(『ゲド戦記』全6巻は岩波書店より発行)これを読んでみると、予想以上に中身が濃い。中沢新一や河合隼雄のゲド戦記論が載ってて愉しいです。まあ、つまらなくても損はしません。無料ですから。数量限定らしいので、早い者勝ちですよ。

ところで私のゲド戦記の思い出といえば、姉が読み、兄が読み、私も読んだら、むずかしくてよくわからなかった、というものです。まだ小学校低学年でしたからねー。出会うのが早すぎた。それと、後年ドラマを見ていたら、病気の男の子がベッドで第一部を読んでいて、「ぼく、終わりを読むまで、生きていられるかな」みたいなことを言って、お父さんに「馬鹿なことを言うんじゃない」と叱られていた場面がなぜか記憶に残っています。当時は第三部で終わりかと思っていたのですが、後に続編が発表され、さらに廉価版のソフトカバー版も発売されました。岩波書店、書店員にとってはやっかいな出版社のひとつです。全点買い切り、交渉の余地なし。とはいっても私の本棚にはいくつかの岩波文庫が場所を占めています。「バガヴァッド・ギーター」「デミアン」「ツァラトゥストラはこう言った」「ルバイヤート」・・・。ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」「モモ」もぜひ本棚の一員に加えたいと思うのですが、もう私は時をのがしてしまったのかもしれません。くやしいが財産持ってるぜ岩波。