2002年12月19日(木)  クリスマス・ファンタジー2002


■夕方6時から、東京ディズニーランドのスペシャルイベント「クリスマス・ファンタジー」へ。ワールドバザールのイルミネーションをくぐりぬける間にクリスマス気分は高まるばかり。ショーウィンドウのディスプレイもクリスマス色。まずはシンデレラ城のまわりをひとめぐり。大好物のチュロス(ストロベリー味はなくなっていて、シナモン味を買う)をかじりながらキャッスルショーを観る。盛り上がってきたところで雨が降り出し、途中で終わってしまい残念。白を基調にした衣装がかわいかった。「ミクロアドベンチャー」を初体験(これが予想外の面白さ。迫り来るヘビや足の下を駆け抜けるネズミにギャーギャー騒ぐ)し、シューティングギャラリーで射撃の才能ゼロを自覚(200円で15発。一発も当たらず)し、行列につられて並んだターキーかぶりながらEパレ(正式名は東京ディズニーランド エレクトリカルパレード ドリームライツ)にうっとり。あの音楽を聴くだけで胸が高鳴る。何度見てもEパレは最高。「プーさんのハニーハント」が30分待ちになっていたので列についたら20分ほどで乗れてラッキー。終わって出てくると空には花火。お得意先ということで視察を兼ねて行ったのだけど、仕事のことなんて忘れさせてしまう魔法が東京ディズニーランドにはあるのだった。10時前にパークを後にしてしまったけれど、4時間弱でこんなに思いきり遊べる場所はなかなかないなあーと、あらためてその「楽しませ力」に感心。平日夜6時からならアフター6パスポート(2800円)がおすすめ。

2001年12月19日(水)  害虫


2002年12月16日(月)  シナリオ作家協会の忘年会

シナリオ作家協会に入って9か月。会合やパーティーの案内は何度か送られてきたが、毎回平日ということもあって参加する機会を逃していた。今夜の忘年会ではじめて行事デビューとなったが、受付を終えてまわりを見渡しても知っている人はいない。正確にはメディアでお見かけてしている大先生方は顔を見るとわかるのだが、いきなり「今年入会した者です」と挨拶に行くのも変な話。森岡利行さんが来られるはずだが到着が遅れている。

この場にいる人で、かろうじて知り合いと呼べるのは、協会に入るよう誘ってくれた勝目貴久氏しかいない。勝目氏は友人の叔父さんで、三年前に彼女の披露宴でお会いしたときに「シナリオを書いているなら僕が理事をしている協会に入りなさい」と声をかけてくださった。当時は入会資格がなかった(劇場公開作品または2時間ドラマを1作品以上書いていないと入れない)のだが、ようやく入会できた今は時間が経ち過ぎて勝目氏の顔がわからない。いろんな方に「勝目氏ですか」と聞いて、笑われたり、「心外な!(僕はもっと若いですよー)」と言われたりして、やっと探し当て、ご挨拶する。

乾杯に続いて菊島賞(協会員の投票で決まる、今年最も活躍した脚本家をたたえる賞)の授与式。今年の受賞者は『KT』の荒井晴彦氏。「シナリオは書き直される運命にあるし、自分の思い通りの形にならないことが多い。その悔しさを知っている仲間に選ばれるこの賞が欲しかった」といったことを挨拶された。乾杯の音頭といい表彰状の文面といいスピーチといい、言葉を生業にしている集団だけあって、どれも気がきいている。

森岡さんが到着し、シナリオ学校の教え子、千葉美鈴さんを紹介される。『路地裏の優しい猫』フォトブックのキャプションを書く際の参考に、千葉さんの書いた台詞を見せてもらったのだが、女の子の感情がヴィヴィッドに伝わり、言葉選びのセンスにも感心した。その褒め言葉を森岡さんから伝え聞いて、「もっと書こうって勇気をもらったんです」と千葉さん。書くことが楽しくてたまらないという感じ。来年はコンクールにも挑戦するとのことなので、『月刊ドラマ』や『月刊シナリオ』で彼女の名前を探す楽しみができた。

この二誌の編集長さんにもお会いする。月刊シナリオに掲載されたおかげで、脚本家は無名ながらパコの知名度は高かった。『女学生の友』や先日放送された『よど号ハイジャック事件』の脚本を書かれた加藤正人さんは、「パコダテ人、知ってる!前田監督と十文字映画祭でお会いしました」と爽やかに言ってくださった。全員に当たる抽選大会で当たったのはグアムのTシャツ。DVDプレーヤーやパン焼き機を当てて会費の元を取る計画は失敗。

2001年12月16日(日)  こだま


2002年12月15日(日)  Weihnachtsgeschenk

■毎年「今年もクリスマスが来たなあ」と気づかせてくれるのは、12月の初旬に忘れず届けられる国際小包。ドイツに住むAnnettからで、中には、ひとつひとつクリスマス仕様に包装されたプレゼント(Weihnachtsgeschenk)がぎっしり。「食べるもの」「身につけるもの」「クリスマスのもの」に大きく分けられるが、今年の「食べるもの」はひと冬越せそうなチョコレート攻撃、「身につけるもの」はシャンプー、パジャマ、Tシャツと、手編みのナイトシューズ、「クリスマスのもの」はオルゴール(音楽に合わせて人形がくるくるとスケートするのが愛らしい)とポプリつきキャンドル立てとクリスマス柄メッシュ地のカバーをかぶせた小物入れ。恒例の「仰天雑誌」は入っていなかった。

■日本からのプレゼントは毎年遅れがちで、今年もまだ揃えてもいない。「たけのこの里」や「ポッキー」のような見た目もかわいいチョコレート菓子が好評。Annettの町が東ドイツだった頃、いちばん喜ばれたのはインスタントコーヒーだったけど、今はおいしいコーヒーが手に入るようになったようなので送っていない。


2002年12月12日(木)  ヰタ・マキ公演『戦場がメリークリスマス』

■ヰタ・マキ公演『戦場がメリークリスマス』を見る。ヰタ・マキことヰタ・マキニカソスという演劇ユニットがあることを今まで知らなかったので、公演を見るのもはじめてだった。知らせてくれたのは出演者の宮村陽子(写真)。大学時代にライバル校のチアリーダーだった彼女は、西宮球場や宝が池競技場でも光っていて、注目と憧れを集めていた。華やかなイメージからわたしが一方的に『キャロル』と呼ぶ彼女は、チアリーダーの指導員を経て舞台女優の道に進んだ。天職だ。劇団MOTHERを経て現在はフリーとして活躍する彼女は、あちこちの劇団の公演に客演している。キャロルの芝居を見るたび、いい刺激とパワーをもらっているのだが、今回の客演ではちょっぴりセクシーな一面も披露してくれ、このままでは置いてけぼりを食らう一方だ!と危機感さえ抱かせるほど素敵だった。ピタピタミニのチューブドレスをまとって踊る姿は、ボディラインもダンスのキレも現役時代のまま、いやむしろ磨きがかかっていると言っていいくらい。見られている張り合いが彼女自身のハリになっているように見える。肩も太股もしばらく出してないなあとわが身を振り返り、落差に驚愕。かぶれてる場合とちゃうで。■ヰタ・マキ、かなり面白かった。歌ありダンスありギャグありでわたし好み。いいお芝居に当たると、トクしたみたいで気分がいい。役者さんは達者だし、台詞はよく練られているし、話の転がり方が意表を突いていて最後までドキドキし通しだったのだけど……惜しまれるのはラスト。ちょっと物足りなかった。もうひとひねりで化けそうなんだけど。


2002年12月11日(水)  Make a Wish

会社の100周年事業として各国(外資系なので世界のあちこちに会社がある)で何か社会の役に立つことをやろうという話になり、日本ではメイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンのPR活動を支援することになった。メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンは、アメリカで生まれ、世界32か国で10万人以上の難病の子どもたちの夢をかなえてきた非営利ボランティア団体、Make a Wishの日本支部。その事務局長の大野さんを迎えた説明会に、今日出席した。これまでも存在はなんとなく知っていたものの、実際に活動されている人の言葉は力強く、心を打った。「夢を見る力は、生きる力。長い闘病生活で夢を見ることさえ忘れている子どもたちに、もう一度夢を見てもらい、その夢をかなえることで、生きる力を励ましたい」と日々奔走されているが、その活動は病気の進行という「時間の壁」と限られた予算という「お金の壁」との闘いでもあるようだ。「活動は三輪車のようなもの。夢をかなえる前輪、資金調達と広報という二つの後輪。この三つの車輪がかみあわないとうまく進めない」と大野さん。難病と闘う子どもたちとその家族が、一人でも多く、一日でも早くメイク・ア・ウィッシュに出会うためにも、ひとつでも多くの夢を実現させるためにも、この団体を広く知ってもらい、理解と共感を呼びかけることが大事、と訴えられた。

しんと静まり返って説明に耳を傾ける社員の間から、鼻をすすり上げる音が聞こえてきた。夢を見るというあまりにピュアな行為の大切さに気づかされ、心が揺さぶられる。夢を実現した子どもの一人、呼吸器をつけている少年の映像が、自分の子ども時代を思い出させた。幼稚園の年少組まで、ぜんそくに悩まされていた。幸い、発作が止むと元気に走り回っていたし、空気のきれいな町に引っ越すと嘘のように治ってしまったので、さほど重い症状ではなかったのだろう。それでも、小さな体(今でも小さいけれど)に受け止めるには十分な重荷だった。風邪で咳き込むのは大人になった今でも苦しいけれど、当時はひとつ咳するたびに体が反り返った。息が苦しいのは生きるのが苦しいこと。時間とともに辛い記憶は薄れてしまったけれど、うまく呼吸ができなくて「このまま死んでしまうんじゃないか」と怖かったこと、祖母が背中をさすりながら「かわいそうになあ。代わってあげられたら、ええのになあ」と言ったことなどは覚えている。咳が止まらないときに思ったのは「早く楽になりたい」ということだった。その気持ちは生きたいというベクトルと逆のほうを向いている。発作が長引いていたら、ぜんそくが治らなかったら、今のように前向きな考え方をできていただろうか。呼吸器をつけた少年は、わたしが体験したのとは比べようもない試練と闘い続けている。そのような状態で夢や希望を持ち続けることは並大抵ではないだろうと想像する。同じ夢をかなえるにも、健康な体の子どもの何倍も大きなエネルギーが必要になるだろう。けれど、どんな子どもにも夢を見る権利があるし、それをかなえるチャンスがなくてはならない。そんな人として当たり前のことを当たり前にできる社会を目指して活動しているのが、メイク・ア・ウィッシュという団体なのだと理解した。

アメリカで暮らした一年間、「善意」はもっと身近なところでやりとりされていた。教会の存在も大きいのだろう。日本では、ややもすると、慈善は偽善と誤解され、ボランティアというと堅苦しさを感じてしまうことが多い。だけど、本当は「shareしたい」という気持ちを、できる範囲で示すだけのことなのかもしれない。わたしにも何かできることはないだろうかとメイク・ア・ウィッシュのサイトをのぞいてみると、使用済みテレカを集める、マイレージを寄付するなど個人でできる協力が見つかった。その中に「リンク協力」とある。まずはこのカフェを使って後輪のひとつを後押しすることから始めてみようと思っている。

2001年12月11日(火)  『ハッシュ!』 1本の傘 2本のスポイト


2002年12月10日(火)  美人計画

■先週金曜日に『爽美林』のお試しボトル(450円)が届き、煮沸水で30倍に薄めて化粧水として使っている。爽美林は茶色い木酢液を蒸留した高濃度・高純度液。色は透明だが、無臭とはいかず、利用者が口をそろえる「特有の匂い」がある。硫黄のような臭さだとイヤだなあと思っていたら、意外と悪い匂いじゃない。よく言えばベーコンなどを燻すチップの匂い。原材料は「くぬぎ・なら」となっているので、似ても不思議はない。ただ、不思議な匂いであることは間違いなく、ダンナは「変な匂い」とはっきり言う。会社ではあまり人に顔を近づけないようにしているが、電車に乗っていると、気のせいか近くの乗客が鼻をひくひくさせているように見える。傍迷惑かもしれないが、これでわがカブレラ君が引退してくれれば万々歳。爽美林効果かどうかは断定できないけれど、腫れはだいぶましになった。爽美林の情報をくれたのは、前田監督。「肌がかぶれて誰とも会いたくないねん」と電話でボヤいたところ、「そらぁ美人台無しやなあ。カカカ」と笑いながら「宣伝メール来てたから転送したる」と教えてくれたのだった。というわけで、勝手に美人計画を始動。爽美林と並行して、月曜日に届いた森下仁丹のビフィーナも試している。レモン味で飲みやすいので無理なく続けられそう。送られた無料サンプル3包だけでは効果はよくわからないので、結局は1箱注文することに。うまい具合に千円割引ハガキが同封されている。商売上手、と思ったら森下仁丹は大阪の会社だった。


2002年12月09日(月)  ドカ雪

■昨夜の天気予報では「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるが積もらない」と言っていたのに、朝起きると外は雪化粧。東京の人は雪に慣れていないので会社も大騒ぎ。電車が止まって会議に遅れる、バイク便が出ない(そりゃ危ない)から入稿できない、「布団を出る気がしない」という出社拒否社員も現れ、てんやわんや。すぐ近くの編集スタジオまで歩くのにいつもの倍の時間がかかってしまう。それでも会社の窓のくもりガラス越しに広がる銀世界(写真だと灰色がかってるけど)は何とも言えない雰囲気があって、トクした気分。


2002年12月04日(水)  カブレラ

■肌が弱いので年中トラブルに見舞われているが、前代未聞のすごいことが起きてしまった。週末から右側の頬の辺りかゆくなっていたなと思ったら、ブツブツが出現し、あれよあれよという間に顔の右半分を占拠してしまったのだ。いつもの肌荒れではなく、どうやらかぶれてしまったらしい。土曜日に年賀状用の写真を撮ったとき、慣れない厚化粧をしたせいだ。使った頬紅は三年前に買った無添加のもの。腐っていたに違いない。物を捨てずに取っておくから、こういうことになる。それにしても、困った困った。赤みやかゆみには慣れっこになっているが、今回のは凹凸があるのでタチが悪い。ファンデーションで隠すと、月面のクレーターのようである。我ながら怖い。気持ち悪い。月曜、火曜とたまたま有休を取っていたのだが、届けを出してなくても会社を休んでいるところだった。さすがに三日も休むわけにもいかず、今日は出社したのだが、同僚が何も言わないのが、かえって居心地悪い。「どうしたの、その顔?」と聞かれたら、「カブレラ」とボケをかますつもりだったのに。誰も突っ込めないほどひどいのかと思うと、余計に気が滅入る。ようやく夕方になってデザイナーのFさんが軽い口調で「どしたの?」と声をかけてきた。たちまち一緒にいた人たちが「そうそう、どうしたんだよ」と聞いてきて、やっぱりみんな気にしているのに気を遣って黙っていたんだなあとわかる。「手で触っちゃダメだよ」「君はそもそも肌質を改善したほうがいい」などと親身にアドバイス攻めに遭い、やっとわがカブレラは市民権を得る。「腸をきれいにすると肌もきれいになるよ」と言うK氏にビフィーナをすすめられる。森下仁丹のホームページに行ってみると、ちょうど無料サンプルキャンペーンをやっていたので申し込む。会社に行くときは憂鬱だったけど、行ってみると収穫があるものだ。


2002年11月30日(土)  大阪のおっちゃんはようしゃべる

■大阪の実家に帰る。パコダテ人大阪公開ぶり。夕食後から中学校時代の女友だち、ひーちゃん、みきちゃん、げんたが家に来てくれる。パティシエの勉強をしているげんたは、ブッシュドノエルを作ってきてくれた。中学校時代の昔話に花を咲かせる‥‥はずだったが、後からやってきたひーちゃんのおっちゃんが一気に話題の中心に。わたしも友だちづきあいをさせてもらっているこのおっちゃんは、けっこう大きな病院の理事長で、医者であり経営者なのだが、『白い巨塔』を読んだばかりで興味津々のわたしがいろいろ聞いたら待っていましたとばかりにしゃべりだし、止まらなくなった。「今まではひと部屋8人とかの大部屋があったけど、あれがひと部屋4人までに制限されるんや」などと医療現場でいま起きていることを話しながら愚痴ったり、「どう思う?」と意見を求めたり、すっかり「よくわかる病院経営」みたいになった。うちの両親も「生徒」に加わり、気がつけば午前4時。「あんたはネタが聞けておもろかったやろうけど、あとの三人はもっと自分らの話、したかったんとちゃうやろか」と母。まあ、こういう同窓会もありってことで。

2001年11月30日(金)  函館映画祭1 キーワード:ふたたび


2002年11月26日(火)  健康法

■いい年して注射が怖いので、健康診断は憂鬱なのだが、『白い巨塔』を読んだばかりなので、今日はめずらしく軽い足取りで病院に乗り込む。いつかは病院ものを書くかもしれないし、少なくとも病院のシーンを扱うぐらいはありそうだ。こういう機会にしっかり見ておこう。「あら、面白いシャツね」という看護婦さんの言葉に和む。短い出会いでも、いや短い出会いだからこそ温かい言葉がありがたい。部署の違う同世代の同僚二人と順番が続いていたので、ベンチで並んで待ちながら「終わったら、病院の近くでお昼を食べよう」と話す。『星の王子様』をモチーフにしたレストランへ。普段あまり話さない人たちなので、話題が新鮮。■夜は西麻布のカサ・デル・ハポンという隠れ家のようなレストランで食事会。脚本家二人(大物と小物=わたし)、記者二人、お医者さんという五人で、組み合わせの妙なのか話が尽きず、そこにいるだけで幸せな時間だった。「ストレス」 「過労」「健康不安」などの言葉も飛び出し、「お互い忙しい身なので体には気をつけないと」といたわり合う。おいしいものを食べて好きなことを話すのが、わたしには何よりの健康法。

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