ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年06月22日(水) 難病

僕は難しい病気に対してアドバイスする事がある。
何年も医者通いをしても改善しない人、原因不明と言われた人、ずうっと薬を飲み続けなくてはならないといわれた人、成人病、慢性病・・・・
ある人は「あらゆる治療法を試してみましたが改善しませんでした。」と言った。
そういう時に僕は考える。本当にあらゆるなのだろうか?と。そこで、こちらから逆に尋ねてみる。例えばアトピー性皮膚炎と診断されている人には、「皮膚を構成している要素に付いて考えてみましたか?そのいろいろな治療法は、どのような場合に、どのような効果を現すと説明されましたか?」などだ。
そうすると、その人は、そんな質問などされた事が無い、皮膚を構成している要素に付いても考えた事が無い。アトピーに良いと言われたからいろいろな方法をやってみたのだと答える事が多い。
「それならば、やってみる価値のある事がまだ有ると思いますよ。例えば細胞膜の原料が何かについて誰か教えてくれましたか?」「いや、教えて貰った事は有りません。」「では、細胞膜の原料が不足していたら丈夫な皮膚を作る事ができると思いますか?肌もまた細胞から出来ているんですよね。そして、その原料が肌に運ばれる為に必要な事がどういう事かと考えてみましたか?」「いや、考えた事は有りません。アトピーに良いといわれる事はいろいろやって見たんですが・・・」「それならば、今までやってみなかった事を基本的な部分から考え直してみるという事をやってみましょう。」
僕は体を構成するものについてとその疾患に関係のありそうな事を質問してみるのだが、患者はそのような基礎的な事に付いて殆ど教えて貰っていない事が殆どだ。一つの疾患について総合的に考えるという事については、この闇鍋で、次の記事に書いてある。
「体をビルに例えると」
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/month?id=99310&pg=200405
「エンコした理由」
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=99310&pg=20050411体を構成する物質(栄養素など)が不足していたりバランスが悪い状態で、体が成立するだろうか?鉄骨が足りないビルやガラスの無い自動車など考えられるだろうか?もし体がそのような状態だったら、その体はどのような状態なのだと考えられるだろうか?
僕は医学部で使う教科書や専門書にも目を通してみる。
死ぬまで薬を飲み続けなくてはならないと言われる事が多い高血圧、脳の時限爆弾と言われ手術を勧められる脳動脈瘤・・・メニエル・先天性好中球減少症・癲癇・統合失調症・・・・
そうした治りにくい病気と言われているものの説明で、その病的な部分に付いては論じていても、それ以外の部分に付いては殆ど論じられる事は無く、原因不明であったり、原因が分からないのに何故か治療法が書かれている場合は、対症療法に過ぎないものが殆どだ。
しかし、原因というのは分からないとしても、無いという訳ではない。
僕はいろいろ質問してみる。便の状態について、食生活について、病院でやった治療法について、検査の数値について、使っている薬について・・・
それらを手掛かりにして全体の調子を改善する方法を提案する。
それを実践すると、全体の調子が改善すると共に、難病も改善という事は結構ある。難病の症状だけを見ていれば改善されないものでも、血流が改善されたり、腸内細菌叢が改善されたりする事によって各内臓や組織が元気を取り戻すと難病の原因となっていたものも取り除かれるように思える。
例えば、内耳リンパ水腫(メニエル病)の場合、現在最も有効と考えられているのは内耳リンパ水腫を除去するための利尿剤の内服なのだが、利尿剤の他にも減塩・自律神経の調整・SOD・血流改善などが役立つとも言われている。ならば、食生活の改善を心掛けるなら利尿剤の内服よりももっと役に立つという事は容易に想像出来るように思う。
事実、掲示板仲間の父親はメニエルと診断されたのがうちのサイトの食生活の組み立て方を指導する事で現在は発症しなくなったという報告を貰っている。
掲示板の常連(またはロム専門ファンも含めて)ならば病院で改善出来なかった疾患が改善されたという報告を目にした事があるのではないかと思う。
難病と言っても絶望するには及ばない。体の基本を考え、論理的に追って行くなら、改善の余地は有るのだと言いたい。


2005年06月15日(水) 不信

私たちの社会を考える上で非常に大切であると考える事がある。
それは、人間が、人類が信頼に値するものか?という事だ。
「人間不信」という言葉があり、そういう状態になった人は鬱症状を表したり、引き篭もったり自殺したりする。それだけではない、信じられない人間たちに復習しようという企てをする場合もある。詐欺という犯罪もそうだし、戦争にしても相手に対する信頼があるとするなら起こるだろうか?
犯罪でなくても、不信の兆候は至る所に目にする事が出来る。選挙の投票率が低いのは何故だろう。政治に対する不信があるのではないか。「どうせ私の一票なんてなんにもならない、政治は変わらない。」
国会での話し合いは知恵を出し合うのではなく、足の引っ張り合いをしているように見える。

果たして、人間とは信頼できないものなのだろうか?

それを考えるに当って、誕生当初の事を考える事が有益であると思う。
人間が母親の胎内から出て来た時、新生児の母親に対する態度はどうだろうか?不信の態度を表明するだろうか?母親は新生児に不信の態度を表明するだろうか?母親の状況が特に悪い場合は新生児に対して残虐な事をする可能性もあるけど、通常は新生児は母親に不信の念など抱かず、母親の胸で信頼しきって眠り、母親も無条件に守ろうとする。

初めに信頼ありき。

どのような人も人生を最初は信頼から始めたのだ。
それを、人間が信じられなくなるとしたら、その信じられなくなる思いに先立って、信じている事が裏切られるという辛い体験が存在する。
辛い体験が強力である程、体験の数が多い程不信の側に針は振れる。そうなると人生の最初に信頼から始めた事など忘れてしまう。いや、そんな辛い体験など無くても、大抵の人は忘れているだろう。
たまには思い出してみよう。
初めに信頼ありき。自分の記憶の中では薄れてしまっているとしても、赤子を抱く母親と子供の表情を見るなら、納得出来るだろう。
初めに信頼ありき!


2005年06月12日(日) どう生きる?

最近知り合ったアメリカ帰りの人からのメールへのレス。

HELLO!

>それよりいなっちさんはこれから人生どうしていきたいのですか? 
こういう事を聞かれる事も滅多に無いので、もう少し書いてみよう。
僕は今迄やってきた通り組織の中で働くというのはあまり好まない。でも、僕自身を生かしてくれそうな組織があるというならまた話は違ってくるけどね。

ライフワーク“Oh My God !!”総合健康情報サイトに先立って僕は同じタイトルの宗教書を書いている。ネタはキリスト教だ。しかし、僕はクリスチャンと言う訳じゃない。
もしイエスがこの地上に再び降り立ち、教会でイエスの名の下に語られる事を聞くならどのように感じるだろうか?という事がそのタイトル名に込められている。
その本では「信仰」「宗教」という言葉の意味から問い直している。
私たちは大気を信じて息を吸い、大地を信じて一歩を歩みだす。あまりにも基本的であるからこそ信じている事にさえ気付かない。それが本質的な信仰だ。誰かが「処女から生まれた」とか「三日後に甦った」と言ったとして、それを信じるにはかなりの無理がある。それを信じる事を勧めるのは、同時に無理をも勧めてしまう事になる。それがパウロ以来行われてきた事だ。イエスはそういう事を信じなさいとは言っていない、人を理解し、病人を助け、小鳥の生き方や作物の生長を例えにして生きる事や世界のあり方について語っている・・・・・
サイトの方でも同じ事をしているような気がするね。
例えば、「乳酸菌歯磨き」の記事がある。それに先立って、合成洗剤入りの歯磨きを疑問を感じる事無く大抵の人が使っているという現状がある。僕はその事に関して“Oh My God !!(なんという事だ!!)”という気持ちを持っている。多くの人が気付いていない真実に気付いた感覚。その事については書いていないけれど、その現状よりもよいと思われる方法を提示するのは、気付いた人の役目だという思いが有るんだよ。
本質的な信仰。大地や大気に対する信頼。好奇心の源。興味ある世界。探究した人には明かされる世界。そして、ふと気付いてしまう。多くの人が○○だと思っていたのは△△でしかないのだ!
だから、僕がやっているアトピーや高血圧や食生活の研究というのは僕の一部に過ぎないんで、そのひとつのトピックの専門家として生きて行こうとは思わないんだよ。飯の種として使う事はあっても。
「闇鍋」を読んでいるかな?「闇鍋」には健康情報ネタの他にも教育や司法についての感想なども書いてあるよ。出来たら、あなたには読んでもらいたいと思っているよ。
大地を信頼し、大気を信頼し、地球という神の庭でダンゴムシやすみれと戯れているのがいなっちなんだよ。そのいなっちは“Oh My God !!”というサイトを作ったり、石鹸伝道人をしたり、宗教について語ったり、精神障害者と付き合ったり、アンデスの5000Mに咲くサボテンの花を見たいと願ったり、シャーマンのような事もしていたり、お掃除おじさんだったり・・・・・・するのさ。
只今やっている健康情報普及人という側面では生きているうちに日本中にこの程度の情報が広まるのを見届けたいという願いも有るね。
馬鹿馬鹿しい医療費が減って、もっと健康な人が増え、楽しく生きられる社会をこの目で見たいと、その中で暮らしたいと思うよ。

いなっち


2005年06月09日(木) DNAの望み

DNAの望みについては既に書いているけれど、もう少し発展させてみようと思う。
DNAの望みの本質は生き続けたい・成長したいという言葉でも表現出来ると思う。
その本質に繋がるものは全てDNAは肯定する。また、指し示す。
体の成分・エネルギーの元が必要であれば空腹を感じさせる。食べたいと望むのは自分でもあるし、自分のDNAが望んでいるという表現も可能だ。
しかし、何をどのように食べるのかというレベルではDNAの関与は少なくなる。
DNAが体の必要なものや害になるものを全て判別出来るとしたら食中毒など起こり得ない。しかし、実際に食中毒は起こるのだから、DNAの判別出来ないレベルのものは存在する。体が水を欲しがっているなら水や飲み物を摂ろうと望むのはDNAのレベルでもあろうが、水道の水を飲もうか缶コーヒーにしようかというレベルではDNAのレベルを超えている。大体、DNAの骨格があらかた決定した時点では水道も無ければ缶コーヒーも存在しないのだから。それでも体は反応する。水道水にも缶コーヒーにも。意識のレベルでは気付けないような反応は体の中で行われている。
私たちが意識せずとも心臓は動き、他の内臓も働く。赤血球は栄養を運び、白血球の内顆粒球は侵入した細菌をやっつけ、リンパ球はウィルスや不要な細胞を破壊する。呼吸は自律的でもあるが、わずかに自分の意思も関与させる事が出来る。
それらは大部分がDNAに依って設計されたものが働いているのだ。
毎日の雑事に忙殺され、生きるのがイヤになったと感じる時でさえ、おなかはすく。その時に、DNAは「生きろ」とささやいていると解釈する事も可能だ。
DNAの望みは意識出来るよりももっと深いところで働いている。


2005年06月02日(木) 望まぬ結果

望み・・・3で、「あなたの今はあなたの望みと選択の結果なのだ。」と書いた。
しかし、望んでいた事に対して意識的でなかったり、選択した行為そのものがどのような働きをするかについて理解しているとは限らない為に、往々にして結果としてある今を肯定出来ないという場合も多い。
例えば「優秀な子に育って欲しい」という願い、小さい頃から塾に通わせ、家では「勉強しろ」と言うのは、余りにもよくある情景の様に思われるけれど、それで優秀な子が育つだろうか?
児童虐待の親は「言う事を聞かないから折檻した」と口を揃えたように言うのだが、殴れば言う事を聞くようになるのだろうか?「言う事を聞くように」とは望んだが、警察の取調べを受ける事は望んだはずが無い。しかし、我が子を殴るという行為を選んだ事によっては「聞き分けの良い子」という望みは達成できず、望まない警察の取り調べという結果を招いている。
僕自身望まぬ結果を招いた経験がある。それは誰かが間違いに気付かずに語った場合によく起こった。僕はついその事を教えてあげたくなってしまうのだ。そうすると、僕に言われた人は「ああ、そうだったんですか。気が付きませんでした。教えてくれて有難う!」という場合があるにしても、そうでない場合も多かったのだ。
「俺に恥をかかせやがって」と思う人も居る。いい加減な相槌など嫌いな性格も災いした。敵でも味方でもなかった人が、僕が口を挟んだお蔭で敵になってしまうという事が起こった。自分の正しさを曲げる訳にも行かず、「間違っているのは向こうだ!」「何故正しい事を主張したのにこんな目に遇わなくてはならないのか」と悩んだ。しかし、その相手が平然とまちがった事を言えるのはそれなりの理由が有り、それをジャッジ出来る人もまた稀なので、周囲にとっても正当な意見がどちらかも判断出来ないのだ。
今は分かる。正しさを主張する前に言われた人の気持ちを考えるべきなのだ。どのような言い方ならその人が受け容れる事が出来るだろうか?という配慮が必要なのだ。一つの正しさに拘っているとやり方の未熟に気付かなくなる。主張する事柄の正しさは、どんなやり方で主張しようとも良いと言うわけではない。むしろ、正しいと思う事を主張するなら、その主張を受け容れて貰いたいと望むなら、望まぬ結果を招かない為に最大の配慮が必要なのだという事を、こうして涙と共に学んだのだ。
望まぬ結果を招かない為には、望んだ事を成就させる為の方法に付いても吟味する必要がある。その吟味が無いなら、人生に裏切られたと感じる事になりかねない。


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