ディリー?闇鍋アラカルト
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2002年08月30日(金) 芥川龍之介・・・2

芥川の後期の作品だけ全集の三分の一を読んだという事は、物語的要素の少ない作品を読んだという事だ。それだけ芥川が語りたい事が前面に押し出されているような気がする。
事実、芥川は谷崎潤一郎との文学論争で、文学にとって最も大切なのは、筋ではなく詩の心であるというような事を語っている。
そして、野獣を一匹飼って居なくてはならないとも書いている。
芥川にとってエンターテインメントというのは重要な事ではなかった。
僕が後期の作品を読み始めてからこの部分を読んだ。最初から意図して後期の作品を読んだわけではない。
そして、谷崎との文学論争によって自分の文学に対する姿勢が芥川と同調している事を知った。

もし芥川が芥川賞というものを知る事があるとするなら、彼は決して認めるような事はするまい。芥川賞は筋のある小説に与えられているからである。
芥川の作品を最初から年代順に並べていくなら、筋のある物語から始まって、次第に物語的要素が少なくなっていく事に気付けるはずである。つまり、芥川賞は芥川が捨てようとしたものに与えられているとみなす事が出来る。


2002年08月27日(火) 芥川龍之介・・・1

 いなっちが文学者をテーマに文章を書くということはあまり無い。
 現在では小説やいわゆる文学を読む事が殆どなくなってしまった。
 それでも、芥川賞作家程度の文は書けるように思っていた。
 文学賞に応募しようかなと思った事も実はあるのだ。
 そう考えたのは、文を書いてお金に換えるには賞を貰うのが手っ取り早いかなと考えたからだ。ところが、審査員や読者受けする事より、書きたい内容しか書こうと思わないという性分なのでどうも文学賞にも向いていなそうなのだ。

 芥川龍之介の文を読んだのは子供の頃、「杜子春」「蜘蛛の糸」が最初だったように思う。童話のような感覚で読んだのだと思う。
 杜子春が地獄で、両親が鬼の責めに苦しむ場面を見て、思わず声を出してしまう場面は今も心に残っている。
 中学校の教科書には「トロッコ」が載っていた。
 トロッコを押してはるばると一人で帰るにはあまりに遠い道を帰らねばならぬ羽目になった良平少年。おとなになった良平が今でもその事を思い出すのは、作者の龍之介にとって、あの暗い夜道が続いているという感覚があるのかも知れない。
それは今の僕自身にも感じられる事でもある。僕自身という尺度でも、人類という尺度でも・・・・
 高校の教科書には「枯野抄」が載っていた。
「枯野抄」に描かれる芭蕉の死を見取る弟子たちの心・・・それは夏目漱石の死に際しての龍之介たちの心が元になっているだろう。このような事を僕は他に読んだ事が無かった。深い印象を持った。
 実は、高校時代に父親の急死にあうという体験をしたのでそうした心の状態というのも近いものを感じたのだ。どちらが先かは今は覚えていない。
 高校3年の時には芥川全集全9巻の後期の作品を3冊読んだ。


2002年08月21日(水) 田舎・・・もう一つの用事

 前回の闇鍋に書いたように、今回田舎に行ったのはお見舞いの用事があったからだけれども、もう一つの用事があった。
 それは中学時代の音楽教師でもある親戚の○○さんの奥さんがお亡くなりになったのだ。葬式には参加出来ないけれど、8月には顔を出すと伝えてあった。
 その人が親戚一族に連なる日、そう結婚当日、幼い僕は袴をはいて和装していた。結婚披露宴では子供が花束を新郎新婦に渡すセレモニーが多いが、その時僕がその役目だったのだ。
 その時の写真は記憶にあるが、もうその時の事を思い出せなくなってしまっている。長い時が経過している。
 次のメールはご逝去を母から電話で知らされて、送ったメールだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 こんにちは。

 いつもは「Hello!]って感じなんだけど、きょうはあらたまって書きますね。

 ・・・さんの死をお悔やみ申し上げます。
 ご愁傷様でした。

 僕にとって肉親が死ぬ体験は高校の時、2年の時に父が死に、3年の時に祖母が死んでいます。
 僕にとって、高校時代の死の体験が大きな影響が有ったと思います。今尚影響を及ぼしています。
 当時僕は学校に通って授業やクラブ活動に大きな意義を感じられませんでした。こんな事の為に時間を使うのが嫌でした。周囲からすると成績もよくクラブ活動も熱心にやっているように見えたと思います。
 祖母が寝たっきりで、家庭が大変なのに、こんなつまらない事の為に時間を使っていて良いのか?自分が求めてもいないつまらない事を聞かされる(授業の事)よりも働いた方が良いのではないか?僕が学校に行く為にはそれを支える人がいるという事で、僕にはそれが負担だったのです。しかもその人は力尽きて急死してしまいました。僕のせいではないかという思いがありました。
 中卒で大工をしている元同級生をたまらなく羨ましく思えたものです。
 自分の人生は自分で責任を持ちたい。誰の負担にもならないで生きたい。
 この時期、こういう僕の思いを率直に家族と話し合ってはいません。
 17やそこらで高校も卒業しないで自立するなど、いわゆる当たり前の価値観からすると無謀にしか見えないでしょう。僕自身それが出来るという自信もあるわけはなく、周囲は大学に行くことを期待していたのですから。昆虫が好きだし研究者として生きるなら大学は必要です。しかし、毎日の授業・放課後の能率の悪い練習にも嫌気がさしていました。
 また、昆虫の他にも新たな興味を感じるものにも遇っています。
 父は突然死にました。
 父は「俺は子供たちに残してやれるものは何もないけど、教育だけは残してやろうと思っている。」と言ってました。しかし、僕は父が考える教育そのものが僕にとって時間の無駄だと思っていたのです。
 そういう事を話しうこともなく父は逝ってしまいました。尤も父が生きていたにしろ、そういう事を話し合えたかは疑問ですが。
 自分の意志が高校や大学の教育の中に無いのは明らかなのに、この意志を表現するのにまだまだ長い月日が必要でした。そして意志を表明した時には十分な意志の疎通をお互いに出来た訳でも有りません。従って、僕は東京でやくざな仕事をしている変わり者として10年以上を過ごす事になります。僕が多少は意志を伝えられたと感じるようになるには、兄弟たちも心理学を学ぶようになってからです。
その心理学を伝えたのは僕ですから、東京で水商売をやっていても、全身全霊やくざな訳ではないという事も感じて貰えたと思います。
 さて、自分の話ばかりを書いているようですが、僕が○○さんを初めとする家族の皆さんに今回の事を語る為には、このような事を欠かせないのです。
 現在の事から、過去の事に話を戻します。
 父の死の意味。それは自分にとって、「死はいつ訪れるか分からないもの」という事です。明日かも知れない。50年先かも知れない。
もし、30日後に自分の死があるとしたら、自分はどのように生きるのだろうか?こういう問いかけをするのは生きる事の質を高めるように思います。この世に生きている意味は何だろう?自分は何を学び、何をするために、何を伝える為に生きているのだろう?
 父は「教育だけは残してやろう」と言い、僕はその教育そのものの価値を感じる事が出来ないで居ました。今の僕なら「学校教育なんて教育の抜け殻だよ。人が学ぶ為にはもっと大切な事が有るんだ。それは、お互いに率直に語り合えて、しかも相手に対する思いやりも忘れない事。知りたいという意欲の方が与えられる形の学校教育よりも本質的である事。親父はそんな事の為に無理して働かなくても良かったんだよ。」
 というような事を伝えるかも知れません。そういう事を率直に話し合えたなら、父の早過ぎる死もなかったのかも知れません。しかし、そういう会話など無く父は逝ってしまいました。幼かった僕は自分の責任だと考えましたが、これはそんな思い込みの中に生きていた父にも責任があります。あの当時の私たちはお互いに十分意志を通じ合う事がどんな事かが分かっていなかったのです。
僕が父に語りたい事はこのような事なのですが、では、死んだ父が僕たちに伝えたい事は何でしょう?
 沢山悲しんで欲しいという事でしょうか?それとも落胆して欲しいという事でしょうか?
 また、家庭の状況が大変なままなのに、それを妻や子供たちに押し付ける形でこの世を去った事でしょうか?
 こういう事は永遠に具体的に知る事は出来ませんが、臨死体験者の研究が明らかにしてくれる事もあります。臨死体験者は、死を恐れなくなり、生を充実して生きるようになる傾向が強いのです。死と間近に遭遇する事により、生の意味を強烈に感じるのです。父の性格からしても、死を間近に感じた人の傾向からしても、私たちがメソメソし、落胆するのを望むとは思えません。父は死んだら畑の肥料でも良いと語ったりした人ですから、葬儀の形もあのような形である事を望みはしないでしょう。
 寺に埋葬されるよりは、八甲田の土となり(注/父は地方の山岳会の会長経験者)命日ともなれば「親父を偲ぶ八甲田ハイキング」でもした方が嬉しいのかも知れません。
 では、・・・さんは残された人に何を望みたいのでしょうか?・・・さんは意志を十分伝えて旅立ったのでしょうか?父のように突然の死ではありませんから、伝える時間はあったと思います。しかし、多くの家庭で、死に際しては、死を見つめ十分にお互いの気持ちを語り合うという事が少ないように思います。この点は気になる所です。
ともあれ、肉親の死は大きな学びの機会となります。

 僕が今のような生き方をしているのも、ホームページでの毎日の書き込みも、高校時代の体験が影響を持っていると思います。
 僕はお金の為にも会社の為にも働きたいと思いませんでした。世間で持て囃される出世の意味を早い時期に見限ってしまったんですね。いつ死ぬかも知れない自分の命をそのような事の為に多くの時間を割きたいと思わなかったのです。それは突然に死んでしまった父の死の教訓です。
 お金や会社や国の為であるよりは人類の為に、生命の為に、目の前に一人の為に、自分の為に。
 生命を意識するようになったのは、昆虫少年だった事とも関係が有るでしょう。{父の名}さん。僕は昆虫学者にはならなかったけれど、あなたが好きだった虫や自然への好奇心は、今、僕の中ではこうした形で息づいているんですよ。あなたが刺したこぎんのネクタイを○○さんにあげてにこにこしていた表情は、きっと僕がコーヒーの焙煎を教えたり、作った石鹸を手渡したりしている時の表情とも似ているんじゃないかと思います。
 ホームページをちらっと覗いているくらいじゃ分かりませんが、手作り石鹸が掲示板の常連たちにドンドン広まっています。手荒れしてた人たちの改善の喜びの声が、僕の生きる喜びになります。このような波が河川の汚染を少しずつでも改善出来るかも知れません。
 河川を追われた昆虫や生物たちが再び戻ってくる為にも少しは役立てるかも知れません。
 多くのサラリーマンたちが考える事は河川や地球の循環系よりも、給料であり、業績でしょう。それが人類にどのような意味を齎すかまで考える人は少数派であろうと思います。
 僕は現在一日4時間しか働いていませんから自分の時間をより多く持つ事が出来ます。
 はた目には社会の底辺に居ながら、それを殆ど気にしないで、日々の喜びを感じて生きて行けるのはこのような事情なのです。
 そしてこれは、高校時代の体験が影響を及ぼしている事も分かってもらえるのではないかと思っています。
 この体験からの学びはそちらにも通じる何かがあるのではないかと思っています。そして、・・・さんの死という体験から何かを学び取って欲しいというのが僕のメッセージです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 実際に田舎で○○さんと会った時には痛手から立ち直っていないように見えました。兄が言うには「今は浸りたい時期なんじゃないかな」という事でした。そうかも知れません。
 グルジアヨーグルトをプレゼントして、石鹸を送る約束をして来ました。
 役に立てたらいいなと思いながら・・・・・・


2002年08月18日(日) 田舎で・・・その3

3年ぶりくらいで友人にKさんに会った。
この人は僕と同い年。高校時代の生物部で一緒だった人だ。
僕は昆虫班の班長、彼は植物班の班長。
昆虫少年だった僕が植物に目を向けるようになったのは彼の影響があると思う。
高山植物が好きなのも共通している。
僕は関東に住むようになり、彼は地元弘前で弘前公園の管理をするようになった。
道は分かれたが、弘前に行くことがあったら植物の話をしに公園にも寄ったものだった。
幾星霜かが過ぎ、彼は公園の桜の管理で「その人あり」と知られるようになった。「サクラを救え(文藝春秋社)」にも彼の名は登場し、NHKの人間マップにも登場した。その番組で高校時代の暗門の滝の生物調査の写真が出たのだそうだが、僕も写っていたらしい。その番組を見たのはハイキング仲間で、八甲田に一緒に行ったNさんだった。そしてこの時彼に車で送ってもらったのだった。
「サクラを救え」という本のタイトルはソメイヨシノが園芸品種できちんと管理しないと寿命が短い事から、つまり、日本の桜の名所の殆どがソメイヨシノで管理が行き届かず寿命目前という状態だからだ。ソメイヨシノの寿命は60年程と一般には言われている。
弘前公園には樹齢120年という日本最高齢のソメイヨシノがある。どれだけ弘前公園の管理が優れているかが、その事に表われている。日本全国の桜の名所の管理人が彼を尋ねて行ったものだった。

その彼がくも膜下出血で倒れたのは2000年4月の事だった。
彼は右半身不随。言葉もスラスラ出て来ない。それでも概念は彼の頭の中にある。それを表現しようとして表現出来ずにもどかしい彼の表情が痛々しい。
僕は食生活についてのアドバイスと家庭で出来るリハビリのやり方を実際にやって見せた。やる前と後とでは多少可動範囲が変わったように思う。継続して続けたらどこまで改善可能だろうか?
日本のサクラの未来の為にも、希望を失わずにいて欲しいと思う。


2002年08月16日(金) 田舎で・・・その2

 いなっちは農法に関しては自然農法的発想をしている。
究極的形としては、その土地にあったものだけを栽培すれば農薬も肥料も使わなくて済む。
 きのうの闇鍋に書いたヤブカンゾウやアカザは農作物というカテゴリーで考える人はいないし、食べられる野草という本には載っていても、実際に山菜として山に摘みに行く人もいないし、利用する人も殆どいない。
 実際に自然農法野菜や有機農法野菜を検索しても、アカザやヤブカンゾウが載っている事は殆どない。作物というカテゴリーにこのような雑草を含める発想が殆どないのだろう。
 究極的形態としての自然農法には、このような元々その土地に雑草として生えているものを利用する発想の転換が必要だと感じている。


2002年08月15日(木) 田舎で・・・その1

田舎に行って来た。
兄の所に泊って、農園の手伝いを少しして、墓参り(普段は行きません)にも行って、くも膜下出血で療養中の友人のお見舞いをして、手作り石鹸を少しばら撒いて来た。
弘前は11日連続の雨。
兄の所にはパソコンがないのでタダでパソコン使用出来る所まで雨の中合羽を着て自転車でえーんやこーら・・・・

闇鍋の為に書いた下書きを、IDを打ち込んでパスワードを打ち込んで、送信・・・駄目だあ。やはり他所からは出来ないんだね。
掲示板も僕がいないのに皆さん書き込んでくれて嬉しい。僕もレスを付ける。

農園では大豆についていたイモムシを大量虐殺ぶちぶち××××・・・
日本では殆ど栽培されていない黒目豆を見た。
りんごは去年のようにCクラスが沢山という事にはならない模様。
自家用野菜は農薬を撒かないので虫さんが沢山。
除草剤も使わないので雑草も沢山。

所で、雑草の中には食べられるものも結構あるので、しかもそれが知られていない事が多いので、いなっちがそれをアドバイス。農園の中に生えていたのでは、アカザ・ツユクサ・スベリヒユ。路傍に生えていたのではオニユリ・ヤブカンゾウ。
アカザはまだ固くなっていない先っちょを摘んで、茹でて胡麻和え、ツユクサはやはり柔らかめの所を摘んでおひたし、スベリヒユはちょっと癖があるのでやはり胡麻和え、ヤブカンゾウは蕾を茹でておひたし。
ヤブカンゾウは日光ハイキングの時にも摘んで、一緒に行ったぴろさんにも好評だったが、やはりここでも好評!
アメ横で買う金針菜の仲間だけど、摘んで茹でてすぐ食べる方が新鮮なだけおいしい!
綺麗な花が咲くオニユリは3倍体なので花は咲けども種がつかない。
では何で増えるのか?球根も増えるけど、これはムカゴが沢山葉腋に付く。ムカゴを良く見ると球根と同じ形状をしている。根の出ているものもある。
これを適当に播いておくと、2年後には花が咲いて、球根も食べごろなサイズになるはず・・・・ジャガイモみたいに1年で10倍以上というわけには行かないけど、農薬もいらず、花も楽しめて肥料もいらないし勝手に育ってくれるから自然農法的作物?雑草?と言えるんじゃないかな?
好評のヤブカンゾウもほっといても丈夫だし、毎年勝手に生えてくるし、種でも株分けでも殖やせるし、蕾のおひたしだけじゃなく、若い葉もおひたしで食べられるので便利な野菜だと思うんだけどね。僕ならこれを津軽名産に育てるのも良いと思うんだけどな。ニッコウキスゲの仲間だけど、ヤブカンゾウと言ってもイメージが湧かないと思うのでツガルウマスゲなんて商品名はどうかな?


2002年08月10日(土) 勝ち・負け

 最近某掲示板で「あたしって負け組?」と書いていた人に「勝組・負け組の発想では幸せな人間関係を作りにくい」と書いた。
 この数年マスコミで勝組・負け組的視点の報道が多いような気がする。不景気で会社を巡る状況が悪いので、この状況の中で勝ち残るのはどこか?といった報道になる。また、ペイオフで危ない(=負け組)銀行はどこか?といった具合ね。このような情報も確かに大切なのだろうけれど、どうも空しいなあ。
 本来、生産や生活には勝ちも負けも殆どないよね。
 石鹸を台所で作っている時、誰かに勝つために作っているのではない。売っている石鹸よりも使い心地の良いものが作れて、沢山の喜んでくれる人がいるから作っているだけの話だ。
 これを無理に勝ち負けという視点に当てはめてみると、石鹸の使い心地では僕の石鹸の勝ち、長持ちという点では市販の石鹸の勝ち、利潤を上げるという点では市販の石鹸の勝ち、資源の有効利用という点では僕の石鹸の勝ち・・・という事になるけれど、自分で使ったりプレゼントしたりという条件では倉庫に一年以上保管する必要もないので保存性で市販の石鹸に負けていることは何の問題もない。また、この記事を書いている時点では商売の為に作っているんじゃないから、利潤という点で考える必要もない。
 会社という利益追求の組織にとっては利潤の視点というのは非常に大きい事になるので、肌に良いとか環境に悪影響を及ぼさないというのが二の次になりやすいと思う。その結果利潤を沢山上げられる商品が当然作られる事になる。勝組の条件として販売戦略が優れている事や、とりあえず良く売れるというものを提供するという事が大切になる。けれども、とりあえず良く売れるものと言った所でそんなに大した性能であるとは限らないのだ。
 逆に考えるなら、利益を追求する事によって置き去りにされるものや社会に与える負担というのが相当あるものと考えられる。
 
うちのサイトの仲間には石鹸を自分で作る人が多いけれど、それは安上がりで気持ちの良い生活を送るのに役立ち、作る事自体が楽しいからという理由だと思う。環境に優しいからという理由だけでは長続きする筈もない。以前の廃油を石鹸にしようという運動は、洗濯石鹸だけという場合が多かったし、現在私たちが作っている石鹸で手荒れが改善されたとか肌がスベスベになったというようなレベルでは作られていなかったようだ。
 ともあれ、掲示板仲間の報告を読む限りでは、肌に対する効能・楽しさ・経済性いずれも市販の石鹸が問題にならない位のレベルで作れるようになってゆく人が殆どだ。この文のタイトル風に言えば、断然勝っているという事になるね。勝っているというのは当然性能の話で、利潤なんかでは比べようがないけど・・・ それから、サイトの仲間のオフ会もいつも楽しいのは、きっと利潤の数字が不要な関係だからという理由もあると思う。勝ち負けってやっぱり関係ないような気がするなあ。
 


2002年08月07日(水) コミック

 何を隠そう。実はいなっちはかなりのコミックファンなのだ。
 その起源は、幼少の頃、隣が貸し本屋で、しかもそこの店主が親戚で、貸し本読み放題だったのだ。
 僕の読書力はコミックと図鑑によって鍛えられたのではないかと思っている。 親に「漫画ばかり読んでいてはいけません。」などと言われた事は一度もなかった。学校では言われた事がある。何で漫画を読む事がいけないことなのかが当時は分からなかった。今ではそんな事を言う人が分かっていない事が分かる。
そういう人たちは、漫画が活字の読み物に比べて程度が低いと思い込んでいるのだと思う。では、その人たちが程度が高いと思っているのは何だろう。活字の読み物・・・その多くは文学ではないかという気がする。
 僕自身は、現代に於いては文学、特に小説の持っている意味が軽くなったのだと思う。
 僕はベストセラー小説を読む事は殆どない。
 コミックの場合は、週間コミック誌を立ち読みするからベストセラーコミックも目に触れている。
 今日ではコミックも全10巻程度は当たり前になって来ているので、一昔前の小説程度に読み応えのあるものも多い。内容も深くなっている。
 コミックと小説を比べると、小説よりもコミックの方が読みやすい。小説で読むのが大変な割に内容がつまらないのを読むと「時間が勿体無かったな」というように思ってしまうけど、コミックの場合はそんな事はない。大して読み進まなくても内容のつまらない物の判別も着き易いし、暇つぶしに読んだ所で、疲労感も少ない。だから、損をしたなどと感じる事は少ない。

 僕が気に入っているコミックを少し紹介しよう。
「風雲児たち」みなもと太郎が書いている。幕末を描くと言いながら、幕末の意味を読者に伝える為には・・・という事で関が原から話は始まっている。全30巻。その後には、坂本竜馬の話が「雲竜奔馬」として現在刊行中。こちらも面白い。面白いだけでなく、このコミックに登場した実在の人物たちの喜びや苦悩が今に生きている僕をも勇気付けてくれると感じるのだ。例えば林子平が「海国兵談」を書き、禁書とされ版木も没収されながら、手書きで数部でも後世に残そうとした意志に僕は感動するのだ。家なく妻なく子なく金なく版木もなくといって死にたくもない六無斎と称していた。ないない尽くしの六無斎にも金や家族よりも大切な生きる意味があった。強烈な生きる意味を感じた人にとって貧乏である事など不自由ではあっても、それ以上の意味はない。
時の政府幕府は子平を迫害したが、ペリーの2度目の来日の折には、子平の「三国通覧図説」フランス語版によって小笠原諸島が日本の領土であると認められ、アメリカに奪われないで済む事になった。この話は雲竜奔馬に出てくるが、この時に子平を思い、子平の著書の運命を思いじわーっと涙が出て来たのだ。
 もう一つ紹介しよう。「家栽の人」。
 この主人公は家庭裁判所の判事でありながら、園芸好きなので家裁の「さい」が栽培の「さい」になっている。
 社会問題や家庭の問題が扱われるが、アドラー心理学のような切り口もあり、「原作者も勉強しているんだな」という印象がある。ビッグコミックオリジナルに原作者たちのインタビューが載っていた事があったが、やはり回が進むにつれて学ぶ事がいろいろあったと書いてたね。


2002年08月03日(土) アメリカの核戦略


 新聞を取っていないので、普段はラジオと拾った(と言うか、ホームのゴミ箱漁り)新聞がニュースソースといういなっちがおととい拾った新聞、7月29日付け朝日新聞に「変わり始めた米核体制」という記事が載っていた。
 その記事にはブッシュ政権国務次官ジョン・ボルトン氏の言葉として「大事なことは、誰も米国を攻撃する計画を立ててはいけない、ということを理解させる事だ」と語っている。
 1999年にブッシュ政権は包括的核実験禁止条約批准を拒否している。
 同じ紙面ではクリントン前政権の国務次官ジョン・ホラム氏が現政権の核戦略では核拡散を促す恐れがあると批判している。
 いなっちは核兵器は危険で無駄なものという認識はあるけれど、核戦略については細かく論評しようとは思わないので、ジョン・ボルトン氏の言葉についてだけ簡単に書く事にする。
 攻撃する計画を立てさせない為に核兵器は有効なのだろうか?イスラエルのパレスチナ侵攻はイスラエルの軍事面での優位を見せ付けるがパレスチナの自爆テロを誘っているように見える。圧倒的軍事力の優位がテロ撲滅に全く役立っているように思えない。イスラエル当局者には軍のパレスチナ侵攻と自爆テロとの関係を統計をとって考察する事を望みたい。軍が積極的であれば有るほどテロは増えるという相関が明確になるのではないか。また、自爆テロもまたイスラエル軍の侵攻を誘っているように見える。暴力は暴力を呼び、強大な権力による抑圧は反感を産む。
 力を判断する能力があるなら、軍事力の強大な国に戦争を仕掛ける国はまずないだろう。しかし、自爆テロは別だ。勝つことが目的でなく、せめて一太刀なりとも敵にダメージを与える事が目的だからだ。自爆テロは一人でも行う事が出来る。米国に反感を持ちそのためには自分の命さえも捧げる人間がどうして核兵器の存在によって米国への攻撃を思いとどまるだろうか。

 もう一度ジョン・ボルトン氏の言葉を検討してみよう。
「大事なことは、誰も米国を攻撃する計画を立ててはいけない、ということを理解させる事だ」
 この言葉をちょいと変えてみる。
「誰も千葉県を攻撃する計画を立ててはいけないということを理解させる事だ」「誰も俺に歯向かおうとする気持ちを持ってはいけない事を分からせてやる」
その為には強大な攻撃力を持っている事を見せつける必要があるというわけだ。 僕にとって、アメリカという国は千葉県や千葉市という地理区分と同じように、地理区分を表しているに過ぎない。尤もそれに伴う政治形態や住民の心理的特性の違いなども承知はしているが・・・
 こんな言葉って、言うのが恥ずかしいような・・・・・・


2002年08月01日(木) ヒーラー

 ヒーラーというのはヒーリング・治癒する人の事だ。
 癒し系なんていう言葉が流行ったりする。その人と接する事で癒されるような感じがするんだろうね。或いはTVに映る姿かも・・・
 カリスマ的ヒーラーがいるとする。
 そのヒーラーの所に行くと殆どどんな病気も癒される。
 そのヒーラーは多くの支持者に囲まれる。
 多くの支持者に囲まれると、その分一般の人との間に支持者が存在するので、一般の人からはヒーラーが見えにくくなる。
 支持者を通して伝えられるヒーラーの姿は素晴らしい話ばかりで、失敗例やトホホ話というのは殆どない。
 カリスマ的ヒーラーというのは宗教的指導者のイメージと共通したイメージがある。
 しかし、神業的外科医のメス捌きというのは多数の練習によって作り上げられたものだし、練習というのは当然多数の患者で実地練習という事になる。その沢山の実地の中にはトホホが有って当然ではないだろうか?
 カリスマ的ヒーラーにはそんなトホホは存在しないのだろうか?
 ところで、このサイトの主宰者である僕はカリスマ的ヒーラーではない。掲示板のお友だちやハイキングのお友達はいるけれど、支持者に囲まれている訳じゃない。
 大体、みんなが健康ならヒーラーなんてあんまり用がないのだ。医者やヒーラーは病人有ってこその仕事。それにどんな個人にも自己治癒力というのが潜在的に有る。医者やヒーラーも、その働きを助けているだけと言っても良いはずだ。だから、病気を治した手柄はせいぜい半分である。
 もう一つ考える必要があると思う事は、「ヒーラーが治してくれる」と考えると、その事に依存するという形になりやすいという事だ。これは医療について特に言える事だ。
 僕はヒーラーと患者の依存と支配の関係を目指さない。患者が自分で自分の体や生活を理解し、自分で改善するための手伝いをする。そういう事を多くの人が出来るようになれば、ヒーラーなど少なくて良いのだ。


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