ミドルエイジのビジネスマン
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2003年01月26日(日) ようこそ、高橋真梨子様 山口百恵様 

話せば長いことになる。

昨年の夏、大部長は無念にもコンピュータウィルスに引っかかり大勢の方々を巻き添えにしてしまった。深く反省し、駆除ソフトを導入したのだが、元々時代遅れになっていた愛機がそのソフト自体の重さに悲鳴を上げ、息も絶え々々となっていたのだ。あるいは、頼みもしないのになぜか米国における永住権の取得を支援するという親切な英文メールを毎日のように受け取る身の上となってしまったお父さんのインターネット遍歴に愛機不調の本当の理由があるのかもしれない。だらしない主人を許してくれ。

いつか一新する機会をと思って、合計すればパソコン1台が買える位の雑誌を毎月買い続け、なお、なかなか決心がつかずにいたのであるが、年末、仕事納めの一杯機嫌で例によって気が大きくなり、見るだけ見るだけと言い聞かせながらパソコン売り場に足を踏み入れた30分後には店員さんに向かって「このカード、限度額大丈夫でしょうか」と情けない質問をしていたのであった。

新鋭機は、なんとパソコンでDVDが見られるという途方もない機能がついている。DVDと言えばこれまた忘れもしない去年の秋、誰かとチョット飲んだあと最寄の駅の構内で2千円くらいで実演販売しているのを見かけ、熊さんのようにウロウロと回り始めたあげく買ってきたのが高橋真梨子様のライブと山口百恵様のサヨナラコンサートである。ちなみに高橋真梨子様のジャケットには香港と書いてあるが、写真は私の知っている日本人の女性とそっくりだし、百恵様の方には台湾と書いてあるけれども、台湾の親たちが百恵という名前を子供につけるかどうかは寡聞にして知らない。

家人も寝静まり、さて、ひとりノスタルジーに浸るべく子供がサンタさんにもらった「プレステ2」に差し込んだが、ウンともスンともいわない。画面も真っ暗なまま。瞬時にして酔いは吹っ飛び、しまった、お父さんが買ったのはただのアクリル板だったかと愕然とした。

もっとも、教養深い大部長、あっちでは映ってもこっちではダメということがあるとどこかで聞いていたので、あわてず騒がず最愛の妻にだけは見つからないように引出しの奥深く沈め、布団に入って人知れず静かに涙を流したのであった。

新型パソコンが届いて、もしかしたら彼女たちが復活するかもしれないということに思い至ったとき、期待で胸が一杯になった。想像しただけでひとりでに胸が高まるこの高揚感は、一体何のとき以来だろうか。まずはじめに高橋真梨子様にトレイに乗っていただき、DVDのドライバーが動くのを待つ。何秒か後に彼女が歌い始めたときは、心底ホッとした。ああ、これで怒られないで済む。

高橋真梨子様は、その昔五番街のマリーへやジョニーへの伝言など、どこの国のだかわからない歌を歌った後どのように暮らしておられたのだろうか。コマーシャルで「も〜もい〜ろ吐息」と歌っていたなと思うくらいであったが、1年ほど前にNHKの番組でライブ録画を放送していたのを見たら、振りもなく淡々と歌い続けている姿に、いさぎいいじゃないかと思うようになった。ライブなので時々客席が映るのであるが、平均年齢を推定するのが怖くなるような客層の男性諸氏の姿には一瞬たじろぐものがある。その客層の話を同僚にしたところ、あまり受けなかったので不思議に思ったのではあったが、思い起こしてみると「五十歩百歩とは大部長のためにあることわざさ」と喉まで出かかっていたのではないかと、今改めて自らの洞察力の深さに感心する次第である。

一方、山口百恵様といえば知らぬ人なし、現代日本における慈母観音である。そのご威光の前に、ひれ伏さぬ者がいるとは思えないのだが、約1名、いることは居る。万人の憂いを一手に引き受ける尊いあのお顔や日本人の典型として誉めそやさぬ者とてない高貴なお姿にお父さんが言及するたびに「ビンボーそうな顔に安産型の体型」と切って捨てる人とはやはり性格が一致しているとは言い難い。

それにしても驚いたことに、百恵様のジャケットに書いてあるサヨナラコンサートの日付が1980年10月5日となっている。今から23年も前ではないか、あと少しで四半世紀ということになる。もしかしたら、ケアンズで海の底を覗いたせいでこちらが勘違いをしているのだろうか。

高橋真梨子様の世界は都会に住む女性の恋や愛の歌。時々は自分の方が恋人を裏切って、ゴメンねと歌ったりもしている。すぐ結婚してなどとは言わないらしい。恋人とけんかするとアメリカに旅に出て、出会った田舎のおじいさんに元気づけられたりして、まあ、いい気なものだと言えばそうともいえる。多分、彼女自身の年代ではそのような自由で自立した生き方は理想であって実際に選択するのは困難であったかもしれない。今では自由を勝ち取ろうと戦ったわけでもない大半の若い女性が現実に自由な生き方を謳歌している。うろ覚えであるが、高橋真梨子様も何年か前に自分のマネージャーと結婚されたのだと思う。

百恵様の方は、対照的に若くして職場結婚、直ちに専業主婦となられた。雅子様と並んで日本における幸せな家庭の見本を築く主婦として崇められて現在に至っている。結婚の挨拶にソニーの大賀典雄社長のお宅を訪ねたときお手伝いさんからサインを求められたが引退した身だからと断ったというエピソードを最近日経新聞で読んだ。

お二人の生まれ年は高橋真梨子様が1949年、山口百恵様が1959年、奇しくも大部長がそのちょうど真ん中の1954年である。だからどうしたと言われても困るが。

はっきり言って、お二方の2枚のDVDは今のところ我が家におけるDVD資産の全てである。長くお付き合いをお願いしたい。


2003年01月18日(土) ハリー・ポッターと秘密の部屋

子供と一緒に映画「ハリー・ポッターと秘密の部屋」を観てきた。保護者同伴という訳だ。コンピュータグラフィックスもここまで来れば、もう現実と虚構の世界の区別がつかない。

ジュラシックパークを観た時の衝撃ほどではないが、特撮のわざとらしさが全くなく、この世界は刻々と進化しているようだ。昔は自動車が空を飛ぶにしても、羽がなければ飛んではいけなかったものだが、オンボロ車が空を飛んでも全く違和感はないし、さらに上からのアングルで地上を走る列車と重なっても不自然なところはない。また、映画の中で空中ラグビーが展開されるが、これもジェットコースターのようなめまぐるしいスピードで、「頑張ってやっと撮った」というところがない。

わが家では次男が珍しく本もむさぼるように読むほど大好きで、映画も夢中になって観ていた。3時間くらいかかる長編なので途中でオシッコに立ったのだが、トイレが混んでいてできなかったのかと思うくらい早く帰ってきたと思ったら、ハアハアと肩で息をしている。少しでも見逃すものかと、全速力で駆け戻ってきたに違いない。

小学校の低学年くらいまでは子供達の脳の中で現実と想像の世界はそれほど明確に分離していないのではなかろうか。少し前まで、小さな子は自分の頭の中の映像で魔法使いに空を飛ばしたり、あるいは自分自身が飛んで地上を見渡すことを想像したものだろうが、このように完璧なコンピュータグラフィックスの画像を見せられて、混乱してしまわないだろうかと心配になる。

本も世界中で大変な部数が売れているという。わが家にも全部揃っているようだが、パラパラと読んでみた最愛の妻の意見は、次々と事件は起こるが深い感動がないというものだ。お父さんも映画を見た限りでは同感だ。一応、勇気と友情が大切だということになっているようだが、それほどの心理的な葛藤も見受けられない。

日本の片隅でお父さんとお母さんが難癖をつけたところで、現実には世界中で何千万人、もしかしたら何億人という子供達の支持を受けている。当日、映画館の中にいた大勢の子供達は、将来きっと、国際会議やビジネスの合間のランチやディナーの時にハリー・ポッターを何年生の時に読んだとか、映画を見てワクワクしたという話をイギリスやアメリカや、アジアの国々の人たちと交わすことになるのだろう。



2003年01月11日(土) 半日観光、格好の時間つぶし

12月21日(土)、朝9時になった。大型バスに乗り込んで半日観光に出発だ。最初に向かったのはケアンズ郊外にあるフレッシュウォーター駅。ここは、現在は観光鉄道になっているキュランダ鉄道が山に向かう直前の駅だ。ホームと客車の車両を利用したこぎれいなティールームもある。一番下の水色部分をクリックするとティールームの写真が表示される。写真の右側の客車の中もコンパートメントの一つ々々にテーブルがついた個室になっていて、多分近所の人であろう、若い奥さんが二人、子守がてらお茶飲みをしていた。その客室からは、馬が草をはむ広大な牧場が見え、乗馬ができるらしかった。写真の左側には、季節柄クリスマスツリーも飾ってある。

その後、山を少し登ったバロン渓谷、バンジージャンプ場、郊外のショッピングセンターそしてカジノのあるホテルでまたバフェの昼食、最後に案の定デューティフリーショップにご案内である。お店では1等50ドルの商品券が当たる抽選会があり、次男が10ドル当選した。彼はそれでカンガルーの小さなぬいぐるみを買い、今ではそれが学習机の上で先輩安物ぬいぐるみたちの間に居場所を確保し、より一層勉強の妨げとなっている。

元々時間つぶしのように企画されている半日観光のため、それぞれ、ちょっと立ち寄るだけで終わってしまい感動も薄いが、印象的なのは出会うオーストラリア人というのが皆美人、ハンサム揃いで押し出しがいいことだ。観光バスの運転手さんも日本なら疲れた中年の小父さんと相場が決まっているが、あちらの方はそのまま一国の大統領にしてもおかしくないくらい絵になる。ガイドさんが、重要な任務を担う仲間として運転手をファーストネームで乗客に紹介したりすることも親しみ深く誇り高い態度と関係あるのだろうか。少なくとも、どこかの国のように酒でも飲まなければ寝付けないような過酷で変則的な勤務体制にはなっていないのだろう。

妻はクリスマス前の最後の週末でにぎわうショッピングセンターがお気に入りだったようだ。小さな子供達を連れた豊かな人々ののんびりした買い物風景を見せてもらった。ガイドさんが長さが700メートルあるということを強調していたので、もしかしたら、土地が有り余り、高層ビルにする必要もないショッピングセンターの作り方を見せたかったのかもしれない。

自然が豊かということでは、バロン渓谷の橋からはるか下を覗き込んでいると、2〜3メートルくらいありそうな巨大なウナギかナマズが悠然と泳いでいるのが発見されて一団の中でちょっとした怪獣騒ぎになったし、バンジージャンプ場に歩いて向かうアプローチの坂道を胴体だけでも長さ50センチはありそうなトカゲがのそのそと横切っていた。

(ティールームの写真へ)


2003年01月03日(金) 選択に次ぐ選択

現地時間午前4時半位に、ケアンズに到着。この団体旅行には日本からの添乗員はつかず、旅行代理店の現地社員が迎えに来ている。バスに乗るためゾロゾロと空港の外に出ると快晴、耳慣れない鳥の鳴き声もして、南国特有の、今は気持ちいいけど今日は暑くなるよ、という気配が漂っている。

まずは、市内のオフィスに行ってオリエンテーションを受け、オプショナルツァーの申し込み、支払いをする。
すなわち、滞在期間の日々を催し物(アクティビティ)で埋めていかない限り、ホテルでぼんやりしているしかない。夕食もアクティビティの一つとなる。日本から到着したばかりで右も左も分からないお客さんを前に、旅行代理店としても格好のセールスチャンスと言える。わが家は、基本的に海と山(熱帯雨林)を1日ずつ日本で申し込んであるので、大きく迷うことはなかったが、その日の夕食にディナークルーズ、翌日の夕食にはお奨めにしたがって中華料理のアワビのしゃぶしゃぶを申し込んだ。

朝食は、すぐ近くのケアンズインターナショナルホテルでバフェ(バイキングのこと)スタイルだと聞き、7時頃に歩いて出かけた。これが大変立派なホテルで後で調べると5つ星の最高級だと分かった。こんなところに、寝不足でノソノソ、キョロキョロと動き回り、すぐテーブルに背中を丸めてかがみ込んで食べるような日本人を大量に送り込んでいいものかと思うが。どれくらい高級かというと、多分パンに塗って食べるようにハチミツが供されているのだが、蜜蜂が集めてきて巣にため込んだ50センチ角くらいの形のまま、巣ごと一枚そっくり出してあるのだ。これは、海外のラグジュアリーホテルで過去に一度しか見たことがない。ともあれ、期待もしていなかった朝食がとても贅沢なもので満足々々であった。

この後、アーリーチェックインの追加料金をケチった人々は半日観光に行くことになる。

ケアンズインターナショナルホテルのホームページ


2003年01月02日(木) コードシェア便てナニ?

昨年12月20日〜25日にオーストラリアのケアンズに家族旅行をした。自分の心の中では、その目的の半分くらいは子供を飛行機に乗せて窓の外の広大な雲の海を見せ、機内食を食べさせてやることだった。

さて、飛行機といえば成田空港まで行かなければならない。愛しの妻は、黙っていれば、お抱え運転手がターミナル入り口まで送ってくれるものと、はなから決めてかかっている。電車で行こうと提案したが、真夏の国に行くのにどんな格好で電車に乗れというのかと聞く耳を持たない。車でとなると、民間駐車場に預け、マイクロバスで空港まで移動するのが一般的らしい。インターネットで予約するのも、駐車場の場所を探しながら運転するのも、お抱え運転手の役目であった。

夜8時に出発する便なのに、車では時間が読めないからと早めに出発したら4時過ぎには空港に到着、早速、日本航空の団体カウンターで搭乗手続きをする。こんなに早く手続きするのであれば、てっきり窓側の席に座らせて貰えるかと思ったが、真ん中の3列とその後ろに一人座れという。一応、窓際はないかと念を押して探してもらったが、ないとのこと。子供には帰りが窓側だと良いねと言いながらも、団体の扱いは所詮こんなものか、帰りも窓際は無理だなと、お父さんはがっかりした。

飛行機はカンガルーマークのカンタス航空。日本航空のコードシェア便ということだ。オーストラリアまで行くのだから、ジャンボジェットかと思ったら、中型のボーイング767であった。堂々としたジャンボに乗る場面を想像していたので、気持ちもだんだん萎えてくる。巨漢のスチュワーデスや白髪交じりのおばちゃんに迎えられて飛行機に入ると、頭の薄いこれまた巨漢の大男もいる。全部ひっくるめて、最近はキャビンクルーというらしいが。もうすっかり、意気阻喪しているので、心なしか機内の雰囲気も暗いような気がする。明るいのはキャビンクルー同士の会話だけだ。

ここまでで想像がつくように、日本航空のお美しくて優しいスッチーはこのコードシェア便には勤務していない。日本語は英語のアナウンスの後で流される下手くそな翻訳があるばかりである。旅行記のホームページを拝見したところ、カンタス航空をあまり誉めてはいなかったが、なるほどこういうことかと思った。実際、ブランケットをもう一枚要望しても「ヒトリ、イチマイ」と断られていた女性が近くにいた。

そのうち、機内食が配られ始めたが、飛行機が気流で揺れると、さっさと配るのをやめてしまう。日本流だと、「本当は配りたいんだけど、機長の命令なのでごめんなさいね」という気配をふりまきながら、申し訳なさそうに下がっていくのだろうが、キビキビ、堂々とワゴンを押して去って行くので、こちらは、ご主人様のご機嫌で犬がお預けを食らったような気分にさせられる。

再開後、ようやく順番が回ってきて「ビーフオアチクン?」と聞かれたので、ビーフと答えると、ないのでしばらく待てと言う。本当の「ポチ、お預け」だ。ないんだったら最初からもっともらしく聞くなと思ったが、しばらく待たされて、後からちゃんとビーフを持ってきた。この頃になってくると、支配従属関係が次第に明らかになってくる。すなわち、乗客の希望が聞き入れられたらそれは僥倖、機内は、さながら通路を見回る巨漢の看守達に見張られながら、オーストラリアに向かう奴隷船の食事風景だったと後で妻に言ったら笑って否定しなかった。反対の通路側に座った長男など、飲み物を聞かれても理解できず、覚えのない罪で尋問を受けている無実の容疑者のように呆然としているだけだった。

かくして、空飛ぶ奴隷船は太平洋の夜の闇に静かに呑み込まれていった。ジェットストリ〜ム。


それにしても、コードシェア便というのはいったい何なんだろう。少なくとも乗客は日本航空に乗ったつもりになっているのだから、同一レベルのサービスが提供されてしかるべきではなかろうか。


2003年01月01日(水) どんな年になるだろう

年が明け、希望に満ちた日々が始まった。天気予報が期待を持たせたせいもあって子供たちは雪の元旦を期待していたが、温度は下がりきらず、小雨となった。朝から酒を食らって、昼寝をしただけなのだが、1月1日のうちに何事か真面目なことを書き記しておかねば。

これまで国や企業の体力を頼んで見て見ぬ振りをしてきたことも、さすがに限界に来たと見え、昨年の後半から、一つ々々具体的に片づけなければならないという機運が高まってきたようだ。暮れあたりから大部長の身辺もあわただしくなってきている。

今年はきっと、様々な場面できちんと整理していくことが見られる年になるような気がする。そんなとき、個々の現象に驚いて動揺するのではなく、全体の局面から見て、どのように位置づけられるのかを判断することが必要とされるだろう。新聞テレビというマスコミもいたずらに人々の不安をあおって部数や視聴率を稼ぐのではなく、きちんと事件や事象の位置づけを解説していただきたい。それが、文章を書いたり論説したりしてお金をもらっている人のモラルだと思う。

自分の仕事も、一つ々々きちんと片づけて、成功したのか失敗したのか、反省点があるのかどうかはっきりさせていきたい。元々、そういう業務内容なので当然といえば当然なのだが、最近はますます人頼みになっているので自省を込めて。










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