ミドルエイジのビジネスマン
DiaryINDEXpastwill


2002年12月28日(土) 浦島太郎のパーティ会場

その昔、浦島太郎は乙姫様とどこでパーティを開いたか、その謎は今解けた。オーストラリアのケアンズだ。

自分が上空を飛んでいるかのように海の底までのぞき込めるので、どなたかが「高所恐怖症の人には奨められない」とホームページに書き込むほどに透明度の高い珊瑚礁の海底には巨大なシャコ貝が口を開き、体長1メートル近いアホ顔のナポレオンフィッシュが愛嬌を振りまくあのケアンズの海こそ、浦島太郎が夢のような日々を過ごした場所に違いない。

クリスマスの連休に有給休暇をつなげて、家族と一緒に6日間のバカンスと洒落こんだのだが、旅行から帰ってきた大部長は現実に戻るのに苦労している。どうして自分がケアンズに行く気になったのかもよく分からない。

会社でも、みやげ話を沢山したいと思うのだが、どうも調子が出ないのはなぜだろうか。そもそも大部長にケアンズが似合わないのか、それともケアンズ自体が普遍性を持たないのか、あるいはそれ以外の理由があるのか。ふと、自分の苗字は浦島だったか、などと考えてみる。

確か、最初は子供を飛行機に乗せてやろうと思ったのだった。しかも国際線で機内食を食べさせてやろうと。グアムかサイパンにしようというはずだった。グアムは飛行機の時間が合わなくて、サイパンの海賊船のついた大きなプールがあるというホテルに一旦決めて予約したのだったが、そんなディズニーシーのようなところに大枚をはたくのも馬鹿ばかしく思われて、内心あまり嬉しくはなかった。決まった後もあちこちでパンフレットを見ているうちに、どうせ行くならアジア寄りのオーストラリアでもあまり違わないじゃないかとなった。子供の終業式が終わったその夜に出発するというのも、時間の効率が良くて、仕事熱心な大部長の気に入った。

帰ってきた後で、人生酸いも甘いもかみ分けた人と話していたら、この「どうせ行くなら」とか「二度とないのだから」という発想が次第々々に旅行の規模を大きくしていくことになるのだと指摘されたが、まったくその通りであった。「もう二度といケアンズが命取り」。




2002年12月20日(金) クリスマス休暇

大部長は忘年会も終え、早くもクリスマス休暇に突入した。ただし、外資系のエリートビジネスマンではない。悪しからず。


2002年12月15日(日) 巨大スーパー出現

家の近くに巨大スーパーが出現した。

初めて行ったときは家族が一緒で、ゆっくりできなかったため、この週末に改めてじっくりと見物に行った。スターバックスやタリーズという「東京の」コーヒーショップも入っている。有名な書店もテナントとして入っている。本屋があって喫茶店もついていれば、お父さんのパラダイスだ。

しめしめ、これで憩いの場所ができたわいと思っていたら、最近会社で、「大部長、大きなスーパーができましたね。知ってます?有名な本屋もあるんですよ。」と近所に住む同僚に声を掛けられた。

例えばある休日、大部長は家族の桎梏(しっこく)から逃れ、日本経済の行く末を案じてそのスーパーで本を買い、喫茶店で読んでいる(本当は週刊誌が多い)。ふと気配を感じて隣の席を見ると同僚が座ってやはり本を読んでいる。お互いによく見ると同じスーパーで買った同じ柄の服を着ている。ヒエーッ、こんなブラックなジョークは許してくれ。

そう思って周りを見渡すと、連れもなく店内を歩いているサンダル履きの小父さんもいたりして、まるで自分の姿を見ているようだった。

実際にコーヒーショップに入ろうかと思ったが、まだ開店して日が浅いせいか、お客さんが沢山入っていたので遠慮した。


2002年12月08日(日) 境港は日本有数の漁港

境港は日本有数の漁港として有名だ。先日、山陰方面への出張の折り、お話を聞く機会があった。たまたま、今年は鰯が不漁だという話題からこの地方のお話に話題が広がった。境港の目と鼻の先の対岸、大きな橋の向こう側は島根半島が横に広がっている。こちら側が鳥取県、対岸が島根県という訳だ。飛行機が下りるときに島根半島の先端に灯台が見えて、美しい景色にうっとりとした。地蔵崎というらしい。

その島根半島の日本海側は、かつて交通の便も良くなかったが、橋が架かり、半島の山を横断するトンネルもできたので、境港に通勤することができるようになったそうだ。

話をしてくれた方は、この辺には九州出身の人も多いですと語った。昔、九州から漁業に従事するために来た人がそのまま結婚して居着いたのだという。宇和島の人も多いですと言う。宇和島(愛媛県のことだと思うが)では狭い耕地にしがみついているので、次男、三男は他所に移るしかなくて、ここでシラスの加工など過酷な労働に従事したのだと、宇和島の人が聞いたら怒りそうなこともおっしゃる。境港は漁業を主力産業として、それほど人々を引きつける魅力があったという郷土自慢かもしれない。山陰というと人々がひっそりと暮らしているというイメージだったので、ダイナミックな人口移動の話を聞いて感心した。

ところが、ここ数年漁獲高が減り続け水産加工業も大変だという。人々は最初、5年周期とか、12年周期とか言って魚が来るのを待っていたが、やがて諦めてしまったそうだ。なにやら、今の日本経済のことのようだと思った。私たちも、魚種の交代論など素人談義をしたのだが、お話をして下さった方は鯨が大量に魚を食べてしまうのが原因だから、鯨獲りをすべきだというのが持論だった。

出張から帰って数日後、秋田のハタハタ漁が最盛期を迎えているというニュースに接した。ハタハタも一時は漁獲高が激減したのだが、歯を食いしばって90年代に3年間禁漁にしたことが功を奏して、今年は30年振りの豊漁だという。見えない海の中のことなので、きっと当時も、「周期的に多分来年は豊漁だよ」とか「禁漁まですることはないんじゃない」とか「他県や外国船が出し抜いたらどうしてくれるんだ」などと様々の議論があったに違いない。なぜ、3年にも亘る禁漁を、しかも有効に実現することができたのか、これは是非NHKの「プロジェクトX」で取り上げてもらいたいものだ。


2002年12月01日(日) いいとこ取りはできない

11月中旬に同級生と久しぶりの再会を果たし、フワフワ気分でいたところ、その友人たちから中学3年生で同じクラスだった女性が亡くなったとの訃報をメールでもらった。ボーイッシュな魅力を放つ彼女は、強豪女子バスケットボール部の主力選手だった。病気とは縁遠いイメージの存在だったが。

たまたま休暇を取ったり、出張に出たりしたため、メールを読むタイミングを外し、同級生一同として花輪を捧げようという話にも乗ることができなかった。

ある者はクラス代表として葬儀に参列し、ある者は花輪の手配をする。こちらは一方的に旧友との絆を取り戻したような気になっていても、いざとなったら連絡もつかないでは、バーチャル関係もいいところだと打ちのめされている。

若いときには、自分の頭の上のハエを追うのに夢中で、旧友の消息を聞いても膜を一枚隔てているような感じがして、結局のところ現実感を伴っていなかったのではなかろうか。友人たちより若干遅れて自分も家庭を持ち、子供を育てるようになって、ようやく、一人ひとりの人生に共感を覚えるようになってきているのだと思う。

彼女がプレーをしているときのキビキビした身のこなしや、笑っている顔や、ショートヘアの髪型や全体の雰囲気を思い出す。葬儀には何もできず申し訳ないが、こちらが彼女のことを思えば、その人も天から笑顔を返してくれるような気がする。


MailHomePage