パラダイムチェンジ

2003年09月25日(木) 「つきあう」

前回の日記の流れで、「つきあう」という事について考えてみる。

つきあうって言葉にはいろんな意味があると思う。
例えば母親に買い物に付き合って、と言われたら、一緒に来い、と
いう命令?なのかもしれない。

でも例えば、好きな女の子や、もしくは彼女ではないただの女友達
から同様に買い物に付き合って、と言われたらどうだろう?

人によっては、なんだアイツも俺の事頼りにしているんだ、なんて
言った本人がどういうつもりで言ったかは別として、鼻の下を伸ば
してしまうかもしれない。


じゃ、恋愛のシチュエーションで「つきあう」という言葉について
考えてみる。
この場合も人によって、そのニュアンスは大きく異なり、そして
恋愛の場合の方が、そのギャップが問題になるような気がする。

一般に恋愛で「つきあう」と言った場合って、どのあたりを指す
んだろう。
人によっては、「つきあう」=「SEXが許される関係」という事に
なるのかもしれない。
というか、少なくとも若い男性だとこんな感じなんだろうか。

するってえと、出会い系なんかにみられる、お互いにあとくされの
ない「割り切った」関係なんかも「つきあう」範疇に含まれると
考えられるのかな。


でも、男性でも女性でも「つきあう」という言葉にもう少し深い?
意味を求める人もいる。

そのニュアンスを言葉にするのは難しいんだけど、「割り切った」
関係に対して「割り切らない」関係と言えばいいんだろうか。

すなわち、つきあう=SEXオンリーの意味ではなく、「ずーっとつきあう」関係というか。
以前、この日記でも紹介した糸井重里と川上弘美の対談で言えば、
「添い遂げる」という感覚といえるのかもしれない。

つまり今私を抱きしめてくれている人が、次の朝にいなくなって
しまうのではなく、「ずーっと一緒にいてくれる」という感覚。
で、そういう自分につきあってくれる人、というのがいる場合、
こういうヒリヒリした時代だからこそ、その人は本当の意味で
癒されているのかもしれない。

で、私自身もそういう「ずーっとつきあえる」関係でいられるパー
トナーが欲しいなーなんて思ったりもする。
相手にとってのそういう存在でいたいなあ、とも思ったりする。


でもね、実は彼氏彼女にそういう「ずーっとつきあえる」という
ものを求めるっていうのも、実は結構難しい事なんじゃないかな
とも思うのだ。

なぜなら、「ずーっとつきあう」って事は、恋愛期間が終わった後
も、「ずーっとつきあう」という事だから。

恋愛期間中は「あばたもえくぼ」ではないけれど、相手のマイナス
ポイントに対してはあえて?目をつぶっていた部分があっても、
恋愛期間が終わってしまうと、今度はそのマイナス部分がお互いに
目に付いてきたりする。

また人によっては他の人に目を移したりして、結果お互いの気持ち
が離れていったりもする。
だから恋愛期間中、無茶苦茶ラブラブな関係だったからといって、
その関係がずーっと続くとは限らなかったりするのかもしれない。

また、例えばじゃあ片方が相手の言うことを全部きいていたら、
ずーっとつきあえるかというと、そういう訳でもないらしい。
そういう場合時として相手から「重い」と言われたりもする訳だ。
うーん、つきあうのって考えだすと難しい。

そして、現実としてはそんな風に「ずーっと続く関係」というのを
作るのが難しいからこそ、そういう題材の作品は、「究極の純愛」
や、「感動の名作」なんていうコピーがつけられるのかもしれない。

つまり「フィクション」だからこそありえるし、人は自分に出来ない
事だからこそ憧れたり、感動したりするのかもしれない。


でもね、その一方でいえば、「ずーっとつきあっていこう」と思うの
って、実は覚悟というか気持ちの問題なんじゃないのかな、とも思う
のだ。
つまり、自分は何があってもこの人とつきあっていこう、と思うこと
が大切なんじゃないのかな。

また、マイナスポイントにしたって、マイナスに目をつぶって我慢す
るのではなく、そのマイナスポイントをも受け入れていれば大丈夫、
というか。

そもそもつきあっていこうと思うんであれば、マイナスポイントを
補ってあまりあるプラスのポイントがあるからなんだろうし。
また、つきあっていけるという事は、自分のマイナスポイントを相手
もまた受け入れてくれている、という事なんだろうと思うし。

人間って不思議なもんで、自分だけが我慢していると思うと、その
関係に耐えられないというか、損している気持ちになるのかも。


でね、「この人とずーっと付き合っていこう」という覚悟を持つ人
っていうのは、例えばつきあった女性の数を自慢したり、恋愛の数を
誇る事とは別の意味で、素敵なんじゃないのかな、と思うのだ。

だって、自分がずーっとつきあっていきたいと思う人に出会えたって
事でもあるわけだから。

少なくとも自分は、「ずーっとつきあっていける」という覚悟を持つ
人間でいたいと思うのだ。



2003年09月24日(水) 「ビューティフルサンデイ」

今から10年前、忘れられない舞台があった。
おそらくはこの舞台を見なければ、演劇を見ることからは遠ざかっていた
かもしれない舞台。

その舞台名は「トランス」。
作・演出:鴻上尚史、出演:長野里美、小須田康人、松重豊。
当時は、まだ学生の身分で、たまたま暇だったもんで、当日券を取るため
に朝から並んで見たんだった。
で、この舞台に超ハマってしまった訳ですね。

そして今回の舞台、「ビューティフルサンデイ」を見るきっかけも
偶然といえば偶然であり、たまたま見て、またまたハマってしまった訳だ。
チケットぴあでなんかのチケットを買おうと思ったときに、ふと目にした
この公演のチケットを買ったのである。

で、舞台「ビューティフルサンデイ」冒頭に「トランス」を持ち出してきた
のには、少し理由がある。
その理由の一つ目は、この「ビューティフルサンデイ」も「トランス」と
同じプロデュース公演であること。

演出は、長らく鴻上尚史の下で演出助手をしていた板垣恭一、脚本は個人
的名作昼ドラマ「ぽっかぽか」の脚本も担当していた中谷まゆみ。
たしか、中谷まゆみも、昔第三舞台のスタッフだった(と思う)。

そして出演者、長野里美、小須田康人、そしてイケメンオカマ役が似合って
いた武田光兵。

そしてもう一つがプロット。
「トランス」もこの公演も、男と女とオカマの話であるということ。
とまあ、浅からぬ縁のある?舞台なわけだ。


演出の板垣恭一は、パンフで脚本家中谷まゆみの作品を評してこういう。
「地上5cmのハッピーエンド」。

物語は、男と男(おかま)の暮らしているアパートに、ある日曜の朝、
以前住んでいたという女性が、間違って転がり込んでくる、という所から
始まる。
でも、この3人、女性は女性で少々訳ありで、そして男同士のカップルも、
実はそれぞれに問題を抱えていて…というお話。

この舞台を見ていて、不覚にも?途中で思わず涙を流してしまった。
なぜなら、三者三様の、それぞれの立場に思いっきり感情移入してしまった
気がしてしまったから。

長野里美演じる30代独身女性、ちひろの休日に一人ぼっちでいることの
寂しさもわかる気がするし、彼女が以前住んでいた場所、すなわちこの劇
の舞台にこだわってしまう気持ちもわかる気がする。

そしてこの部屋の借主、小須田康人演じる男性、秋彦と、その彼氏で居候
のイケメンオカマ、武田光兵演じる浩樹というカップルの間にある微妙な
すれ違いの感覚や、お互いのもどかしさ、なんかもわかる気がするのだ。

実はこの公演、3年前の再演なんだけど、もしも3年前に見ていたら、
こんな感想は持たなかったのかもしれない。
なんつうのかな、好むと好まざるとに関わらず、自分もそんだけ大人に
なっちまったんだなー、と思った訳ですね。


劇中、あることで自己嫌悪に陥ってしまった女性、ちひろに対していう、
男性、秋彦のこんなセリフがある。

秋彦「…オレは、アンタじゃないから、アンタの抱えている問題がどれだけ
深刻かは、正直言ってわからない。ヒロの事にしたってそうだ。アイツの
抱えているものは、結局アイツにしかわからない。でもオレは、アイツの方
が深刻で、アンタの方は深刻じゃないなんて思っていないよ。ヒロだって
きっと、そう思っているよ」

ちひろ 「……」

秋彦 「アンタは、嫌な人間なんかじゃない。幸せになりたいだけだ。幸せ
になりたい人間が、人の幸せ見てうらやむのは当たり前のことだよ」



でも、そんな風に相手の気持ちを考えられる秋彦も、彼氏、浩樹には、
こう言われてしまう。


浩樹 「あの時は必要だったんだよ、オレが。オレが、じゃないな。誰かが
必要だったんだ。それがたまたまオレだった。たまたまホモのオレだった。
だからもう無理することないよ」(略)

「はっきり言ってもううんざりだよ。いつもオレの顔色見て、いつもオレに
気ィ遣って、いつもオレの言いなりになって、秋彦は自分がどうしたいかっ
てことより、オレがどうしたいってことをいつも先に考えてんだよ。そう
いう秋彦見るの、もううんざりなんだよ」

「(略)秋彦はオレに気ィ遣っているつもりかもしれないけれど、オレは
ダシにされていい迷惑だよ。ダシにされるのは真っ平なんだよ」



そんな弘樹に対しては、だから秋彦もこう言い返す。

秋彦「そうじゃないだろ?おまえは何もわかってないよ。三年も一緒にいて
オレの何を見てきたんだよ。ほんとにおまえが重荷だったらとっくにダメに
なっているよ。そうじゃないから暮らしてこれたんだろ!ホモだとか病気だ
とか、そういうことで繋がっているんじゃないから今までやってこれたんだろ!」



ヤマアラシのジレンマではないけれど、お互いに相手のことを思う気持ちと
でもその気持ちがうまく伝わらずに傷ついてしまう自分の心と。
人が人と、そして自分の気持ちとうまくつきあうのって本当に難しいよなあ
と思うのだ。

この舞台、「地上5cmのハッピーエンド」というように、最後はハッピー
エンドで終わる。

パンフの中で演出、板垣恭一はこう書いている。
昔はハッピーエンドなんて嘘だと否定していた。でも脚本の中谷まゆみに
こういわれて考え方が少し変わった。
「フィクションなんだから嘘でいい」と。

そうだなー、現実ではなかなかうまくいくことが少ないから、物語には
せめてハッピーエンドを期待してしまう自分っているのかもしれない。

そんな風にちょっとだけもらえる元気がうれしくて、また演劇や映画を見に
行きたくなってしまう自分がいたりするわけなんだけど。
DVD化されたら、多分買う!と思う。



2003年09月21日(日) 「座頭市」

今回のネタは「座頭市」。

監督の北野武がベネチア映画祭で監督賞をとったことでも有名なこの
映画。一言で言うなら「監督北野武としては直球勝負の憧れのヒーロ
ー映画」だと思う。

この映画、様々なところで波紋を広げているらしい。
曰く、金髪の座頭市はおかしいとか、ラストのタップが唐突だったとか、
外国人や若者に媚びたつくりだから賞がとれたんだ、とか、
だからこんなの時代劇じゃないとか。

でも逆に言えば、監督北野武としては、だからこそこういう形で時代劇を
とりたかったんじゃないのかな、とも思うのだ。

座頭市としては偉大なる先人、勝新太郎のイメージがどうしても大きいと
思う。もしも座頭市を演じてくださいと言われたら、ほとんどの役者が、
勝新太郎のモノマネから入るような気がするのだ。

でも例えば、芸人ビートたけしが、勝新そっくりの座頭市を演じたとしたら
どうだろう。おそらくは上手に真似れば真似るほど、それはコントにしか
見えなくなるんじゃないだろうか。
そして、監督北野武としては、それを一番おそれていたんじゃないかな、
とも思うのだ。

金髪云々に関しては、もう一つ、所詮チョンマゲつけたって、羽二重つけた
フィクションと言う意味では同じじゃねえか、という思いもあるのかも。


そしてもうひとつ、この映画で感じるのは、北野武の「座頭市」という
キャラクターに対しての憧れ、愛情である。

勝新演じる「座頭市」は結構ダーティというか、ヨゴレ役の部分もあった
と思うが、北野版「座頭市」では、ヨゴレ役の部分は身を潜め、ひたすら
ストイックなヒーローを演じていると思うのだ。

すなわち座頭市は北野武にとっての仮面ライダーのような、憧れのヒーロー
だったんじゃないのかな。

そして、座頭市をヒーローとして描くからこそ、この映画は座頭市の物語で
はなく、彼をとりまく人たち、浅野忠信や大家由祐子、橘大五郎姉弟の物語
を中心に描かれているような気がする。

だからこそ、時代劇としては異例とも思える、彼らがアウトローになった
理由をまるで劇画のようなカットバック?で見せていく。

多分ね、普通の時代劇だったら橋田壽賀子のドラマじゃないけれど、
その辺は、セリフ一つで済ませてしまうと思うんだよね。
でも、逆に言えばその辺が、従来の時代劇が、わかりにくい理由にもなって
いると思うわけで。

そこにスポットを当てたあたりに、監督としてのこだわりがあるというか、
他の北野作品にも共通する、負け組やアウトローに落ちてしまった人に対
しての愛情が感じられるような気がするのだ。


そして、愛情と言う意味では彼を生んだバックグラウンドである、浅草、
そして(江戸)下町文化に対してのリスペクトの思いも見逃せないと思う
のだ。
だからこそ、今大衆演劇で一番客を呼べると言われる女形、橘大五郎が
出演したり、ラストにタップダンスの大団円を持ってきたんじゃない
だろうか。

そしてまた、今はもう消え去りつつある文化であるたいこもち(幇間)など
のお座敷芸を入れたのも、そんな自身を育てた文化に対しての愛情の
表れ、なのかもしれない。

これが例えばよくある時代劇だったなら、ただ単に芸者が踊って終わり
だったと思うんだよね。

で、この映画を見て思うのは、監督北野武の「まだまだ日本の大衆文化も
捨てたもんじゃねえぞ」というメッセージだったんじゃないかな、と思うの
だ。
少なくともこの映画を見た後に残るある種の豊かさは、型にはまっただけの
京都の時代劇では味わえないものなのかもしれない。

時代劇ファンとしては、そういう意味では北野時代劇の続編も見てみたい
気がする。

以下ネタばれの雑感につき、読みたい人だけ要ドラッグ。
でも、この映画に出てくる美人局に遭う男たちが揃いも揃って、大家由祐子
扮する姉ではなく、橘大五郎扮する弟に行くのはどうなんだろう。
個人的な好みで言えば、小股の切れ上がったいい女である姉の方が
いいじゃんって思うんだけど。
やっぱり男は若い方がいいんですかね?



2003年09月18日(木) 「HERO」

今回のネタは「HERO」。ジェットリー主演のこの映画。
時代背景が、中国の秦の始皇帝の時代の話という事もあり、ちょっと楽しみ
にしながら行ってみた。

この映画、一言でいうと「中国の底力おそるべし」である。

もともとの物語は、諸説ある始皇帝暗殺の伝説?寓話?を題材にした(そう
いえばそのものズバリ、「始皇帝暗殺」なんて映画もあったっけか)、4人
の刺客と始皇帝の物語。

ちょっと、黒沢映画の羅生門の原作にもなった、芥川龍之介の「藪の中」
っぽい話とでも言えばいいんだろうか。
映画を見ているというよりは、舞台を見ているような内容の物語だった。

主人公はジェットリーなんだけど、この映画の本当の主人公はこの映画の
本当の主人公はトニーレオンとマギーチャンじゃないのかな、という印象
を受けた。

この映画、同じシチュエーションを3つの異なる視点から眺めてリフレイン
する、というシーンがあるんだけど、そこでの色づかいがとてもきれいなん
である。

このアイデアは監督自身のものではなく、衣装担当のワダエミのものだった
らしい。でもこのアイデアのおかげでとても画的に映える画面構成になって
いると思う。
というよりはこのアイデアがなかったら、もっとわかりにくい話だったかも
しれない。

衣装といえば、この映画ではロードオブザリングもビックリの何百人もの
秦兵(実際は人民解放軍が協力したらしい)が出てくるんだけど、一体
ワダエミは何人分の衣装をつくったんだろうか。

その人員動員のすごさとそれによって得られる存在感は、考えるだけで
気が遠くなるほどの迫力だった。

迫力といえば、舞台となる中国の大地もそう。
砂漠地帯や、グランドキャニオンみたいな渓谷、そして本当に波一つない
湖面(これはさすがにCGか?)、そして始皇帝の住む洛陽の城の巨大さ。

CG全盛の今、すべてが現実だとは思わないけれど、それでも中国の国土
って広いんだなーと思わず思ってしまうような説得力のある背景なのだ。

これはいくら日本が背伸びしたって敵わないものかもしれない。
個人的にはこれだけ見てもよかったーって感じかもしれない。
だってそんな景色は観光で中国に行ったって、なかなか見られない風景
だと思うし、「パイレーツオブカリビアン」のカリブ海同様、映画で
でも見られてよかったーって感じかもしれない。

あと、本来は売りの一つであろう、チャンバラやアクションに関しては、
すっごく頑張っているなあとは思うんだけど、これだけワイヤーアクション
が流行している現代だと、ちょっと見飽きてしまった感じがする。

むしろ、役者さんの肉体がそこにある感じが薄れてしまう(というか、CGに
全部置き換えられても違和感ない感じ)気がしてしまうというか。


で、その一方で私はこうも思うのである。
この映画って、ハリウッド映画がアメリカ文化の輸出を図っているように
中国発の中国の文化のパワーを輸出する意図もあるんじゃないかなあ、と。

これは前にも書いた事だけど、現在VFXの発達のおかげで、ほぼ、監督の
意図する画面作りは可能な世の中になっている。

ただし、それだけ技術が先行した分、今度はその技術力に負けない力を
持った原作なり、脚本が要求される時代になってきているのかもしれない。

だからこそ、ロードオブザリングやハリーポッターが映画化され大ヒットを
したし、例えば日本のアニメであるドラゴンボールがアメリカで実写化され
るという動きになってきているのかもしれない。

ひるがえって、中国の場合、例えばハリーポッターや日本のアニメのように
全世界で勝負できる物語やソフトというものは現在のところあまりない。

だからこそ、中国4000年?の伝説を引っ張り出してきて、中国にも
負けず劣らず、題材となる物語も、そしてワイヤーアクションなどの技術力
や、ロケ地としても最適な舞台もありますよ、というのをこの映画で誇示
したかったんじゃないのかな。

だからこの映画は、中国の新しい形での宣伝映画だともいえるのかもしれ
ない。
同様の意図は、実は後ほど書く「座頭市」でも感じた事でもあるんだけど。

映像の美しさ目当てで、一回は見てもいいんじゃないだろうか。



2003年09月14日(日) 人体の不思議展

日曜日の臨時の仕事の帰り、「人体の不思議展」を見に行ってきた。
ちなみに会場は東京国際フォーラム。
つまり、前日の「智慧の実を食べよう」のイベントと同じ会場だった訳
ですね。
で、もともと興味があったので、行ってきたのである。

さて、人体の不思議展、一言で言うと人体の不思議、というよりは不思議な
人体模型?展だった。

ここでよく知らない人のためにちょこっと補足をしておくと、プラスティ
ネーションという技術がある。
これは死んだ人の身体から水分を抜き、かわりにプラスティック樹脂を浸透
させるという技術のことで、この技術を使うと、人の遺体を半永久的?に
保存できるらしい。

でその技術によって保存した遺体を、例えば筋肉のみ、血管のみ、内臓
のみという風に模式的に展示しているのが、この人体の不思議展なの
である。

だから、会場には何十体もの人体模型?が展示してあるんだけど、これら
は全て元々は生の死体。
しかも遺体を提供する献体をしているのが中国人、すなわち隣近所に
いてもおかしくないようなモンゴロイドたちが並んでいるのである。

この人たち?が不思議なのはちょっと見た目はプラスティック製の模型に
しか見えないことだろう。
でもよく見れば、一つ一つ、ちょっとずつ違っているし、まだまつげが
残っていたりする。

一体だけ、実際に触れる模型?があるんだけど、その爪なんかは自分に
生えている爪と全く一緒なわけだ(当たり前だが)。
だから何というのか、だんだんと不思議な感覚になってくるのである。

で、じゃあ気持ち悪いのか?といわれるとそうでもない。
というか、個人的には実際の人間の身体がどうなっているのか、という興味
の方が先に立ってしまうので、あー、やっぱりこうなっているんだー、と
いう感動の方が強かったり。

個人的には、人間の身体が実際どうなっているのか、という事を立体的に
見られて仕事的にはとても有意義な展示会だった。

ただ、その後考えてみれば焼肉とか、ビーフジャーキーとかを食べたりして
いないんだけど気のせいかな。



2003年09月13日(土) 智慧の実を食べよう

9月15日は敬老の日である。
でも敬老の日、というとどうしてもおじいちゃん、おばあちゃんを大事に
して、ねぎらう日、というイメージがある。

ここで唐突に話が変わると、我が家にも既に老齢者の年齢に達している
親がいる。
でも、その親を前にして、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にしましょう的には、大事にしようとはあまり思えない。

なぜなら、ちっとも老人ぽくはないからである。
まあ、そんな風におじいちゃんとして大切にしてくれそうな孫の見る影も
ないことも原因の一つなのかもしれないが。

でもうちの父親に限らず、普段仕事でそういう年齢の方たちと接する事の
多い私としては、あんまり老人を老人扱いしても意味ないんじゃないかな
ー、なんて思ったりもする。

仕事柄、60、70は言うに及ばず、時には80台の患者さんに会うこと
もあるんだけど、彼らを見ていても、あまり老人らしさは感じられないのだ。
なんつうのかな、まだまだ老人なんて範疇ではなく、一人の人間として
元気に生きてます、って人たちが圧倒的に多いのだ。


とまあ、前提が長くなってしまったんだけど、
そんなまだまだ若い?老賢者たちのお話を聞きに、ほぼ日刊イトイ新聞主
催のイベント、「智慧の実を食べよう」に行ってきたのだった。

5人の方たちのお話と言うか講演を6時間にわたって聞きにいくという、
行く前はそれって果たして面白いの?という半信半疑な企画だったけど、
行ってみると、掛け値なしに楽しかったのだ。

例えばパンフには、宗教学者中沢新一の、吉本隆明を評するこんな言葉が
私の目を引いた。


吉本隆明は自然体の思想家である。私が吉本さんの思想から学んだことの中で、いちばん心に響いているのは、人間は観念的な思考をする
ようになると、すぐに自然の状態からはずれてしまい、へたに頭の働きが
活発だったりすると、それだけでもう病気なのだという、おそろしい話だった。

観念的な思考はかならず、いったん人間を病気の状態にしてしまう。そこで
ほんものの思想家だけが、徹底的に考え抜くことをとおして、自分がおち
いっている病気の状態から脱出しようとするのである。そして、悪戦苦闘
の末にようやく自分を縛っていた思考のシステムから自由になれたとき、
その人の前にとてつもなくゆったりした「普通」の世界が広がっているの
が見えてくる。そういう「普通」にたどりつくことを最終の目標にしてい
ない思想などは、どれも病気の産物にすぎないもので、たいしたものでは
ない、という考え方である。



詳しくはそのうち、本になったりDVDになったりするらしいので、その時にでもまた、引用したりするかもしれないけれど、
とにかく皆さん70、80近くだというのに、とにかく若いんである。

枯れてない、というのか老いすら楽しんでいると言うか。
今回は5人の老賢者さんたちのお話だったんだけど、特に印象に残ったの
は、あの小野田さんこと小野田寛郎さんと、詩人の谷川俊太郎さんだった。

いいなあ、あんな風なチャーミングな老人になれたらいいなあ、なんて
しみじみと思ったりして。
智慧の実、というか、元気の素をもらったような、そんなイベントだった。



2003年09月01日(月) 「パイレーツ・オブ・カリビアン」


毎月1日は映画サービスデー。
という事で今回のネタは、パイレーツ・オブ・カリビアン。

やっぱり海モノは暑いうちに見とかないとね、という事で見に行く。
本当は「コンフェッション」と、どっち見ようか迷っていたんだけど、
仕事の終わった時間の関係で、こっちを選択。

さて、「パイレーツ・オブ・カリビアン」。
一言で言い表すならば、「ジェリー・ブラッカイマーによる、ジョニー・
デップの、ジョニー・デップの為の映画」だと思う。

いやもう映画の最初の方から、ジョニー様は八面六臂の大活躍、
みたいな。
これが大衆演劇だったら、おひねりの一つ位投げてあげたい感じ。

物語の舞台はカリブ海。
英国領の小さな島が、物語の始まり。

で、とりあえずカリブ海で撮影したであろう、大海原のシーンが爽快で
大迫力。

でもなんつうのかな、お話的には、良くも悪くもディズニー的なんだよね。
というよりは、この映画は、プロデューサーのジェリー・ブラッカイマー
をはじめとして、キャスト・スタッフのディズニー映画に対するリスペクトというか、愛があふれる映画なのかもしれない。

デコボココンビでちょっとマヌケな海賊や、イギリス海軍の兵隊さん
とかね。
だからディズニー映画好きな人は、文句なく楽しめる作品だと思います。


ただ、個人的にはなんつうのかな、もう少し話の展開を整理できたんじゃ
ないのかなあとか、あと、VFXもすんごく凝っているんだけど、その辺が
そこまで金かけなくてもいいんじゃなかったのかなあ、という過剰さ、
余計さ、がちょっと気になった感じなのだ。

これはおそらく、「アルマゲドン」とか「インデペンデンス・デイ」など
ジェリーブラッカイマーの関わった映画の中でも大作と呼ばれる映画で
感じる感覚に通じるものがあるというか。

ブラッカイマーの映画って、基本的には娯楽作品として好きなんだけど、
大作になると、変なヤマっ気って訳でもないとは思うけど、サービス過剰
になりすぎるきらいがあるような気がするのだ。

だから、その意味ではこの映画も、ディズニー作品でありながら、まごう
ことなきブラッカイマー作品とも言えるのかもしれない。

とりあえずディズニー&ブラッカイマーのエッセンスを2時間たっぷり
吸収して、お腹いっぱいって感じかも。
もしもこの夏、夏気分を味わいたいのなら、これ1本見るだけでも違う
かもしれない。


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