パラダイムチェンジ

2003年01月31日(金) ボーンアイデンティティー

あなたがもし、海で遭難して、たまたま通りかかった漁船によって
助けられたとして、その時、名前も何も一切の記憶を失っていた
としたら。

なぜか皮膚に埋め込まれていたマイクロチップには、スイスの銀行の
貸し金庫の口座番号が記載してあって、それを頼りにいざ貸し金庫を
開けてみると、そこにはなぜか、自分の写真は貼ってあるんだけど、
それぞれ名前と国籍の違うパスポートが入っていたとしたら。

そしてなぜだか分からないけど、いきなり人に襲われたとしたら。


と、言うわけで「ボーン・アイデンティティ」を見てきました。
てっきり"BORN IDENTITY"、すなわち生存証明だと思ったら
"BORNE"すなわちボーンさんの身分証明だったという。
もちろん、掛けているんだろうけど。

この作品はいわゆるスパイ物、というかエージェント物の一つです。
昨年は「9デイズ」や「トリプルX」など、こうしたアメリカの
エージェントが活躍するアクション映画は多かったので、これもその
一種だと思ったら、さにあらず。

ストーリーというか、プロットがとてもよく出来た映画でした。
今回の主人公の敵は、世界転覆を狙う悪のテロリストではなく、
自分が所属していた組織、CIA。

CIAは主人公の作戦の失敗を、主人公の命を消すことで隠蔽しようと
腕っこきのエージェントたちに主人公の命を狙わせます。
まるで007の命を、ほかの00ナンバーの殺し屋が狙いに
来るようなもの。もしくは、白土三平のカムイ伝(だっけ?)
のように抜け忍をほかの忍者たちが狙いに来るようなもの。
しかも主人公は記憶喪失。


スコットランドヤード 、というボードゲームがあります。
犯人1人と5人の刑事が、ロンドンを模した盤面の上で追っかけっこ
を行うゲーム。

犯人は1時間に一回、鉄道、バス、タクシーを使って、盤面の上の
マス目を移動するんだけど、5人の刑事は、犯人が今、どこにいる
のかはわからない。

手がかりはただ、犯人がどの交通機関を使って移動したのか、という
事と、5時間ごとに現れる、犯人の居場所のみ。
24時間、犯人が逃げれれば犯人の勝ち。逆にそれまでに犯人の
居場所を当てれば刑事の勝ち。


この映画を見ていて、まるで自分がこのゲームの犯人役をやっている
ような緊迫感を感じました。
しかも主人公の移動手段は、偶然知り合った女性の乗っていた中古の
オースティンミニ。

舞台はパリを始めとしたヨーロッパ。
果たして主人公は、追っ手から逃げ切れるのか、そして記憶を
取り戻すのか。

とにかく主人公のマットデイモンがかっこいい。
「プライベートライアン」とか、今までは守られる役が多かった彼が
今回は大活躍。

多分レンタルビデオで並んだら、新作でももう一回見てしまうかも。
スカッとしたい人におススメです。



2003年01月30日(木) 自意識

「ピルグリム」のパンフレットの対談の中にこんな部分があった。

鴻上 最近の若者を見ていると、自意識そのものに苦労している
のではなく、自意識に悩んでいる自分を恥ずかしいと思う自意識で
振り回されているということを感じるんですよ。

宮台 自意識の間題を自意識的に悩んだって、自意識の墓穴を掘る
だけだ。それくらいの失望には、体操がふさわしいという話ですよね。



自意識、について考えてみる。

個人的には次のように考える。
自、意識というとおり、要は関心のベクトルを自分に向けている
状態なんじゃないかな、と思うのだ。
そしてもう一つ思うこと。
それは最低限の防衛本能が働いている状態、なんじゃないだろうか。

人は自意識の状態にいる時、その人が世界の中心になる。
いわば、自分が主人公の世界。
例えば恋をしている時、その人の自意識は活発になるのかもしれない。

そしてもう一つの極端かもしれない例をあげれば、例えば自分が
いじめられている時や、病魔に苦しめられているとき。
自分が悲劇の主人公やヒロインだと思うことで、実は人はその苦しみを
緩和しているのかもしれない。

なぜなら自意識の状態でいれば、傷つくことは少なくなるから。
まるで亀が自らの頭や手足を引っ込めるように、自意識の甲羅に
守られてることってあるような気もする。

たとえどんなに苦しい状況でも、自意識のフィルターを通すことで
その痛みは和らげられる。これを心理的な合理化と言ってしまって
いいのかはちょっとわからないんだけど、そうやって人は最低限、
自分を守っているような気がする。

ただし、ここで問題がある。
一つは自意識の甲羅の中にいることを心地よく思ってしまうこと。
自意識の中にいる心地よさを覚えてしまうと、外に出て行くことが
億劫になったりすることってあるかもしれない。
だって自意識の中だったら自分は傷つかないんだから。

自己嫌悪することはあるかもしれないけれど、自己嫌悪も、多くは
合理化の一つのような気がする。昔、鴻上尚史が言ってたけど、
実は自己嫌悪は自分に対しては優しい、のだ。
いわば緩衝材というかクッションのように、傷がそれ以上大きくなるのを
防いでくれる。

そしてもう一つの問題。
それは自意識の世界では、自分の嫌なものはいくらでも消せる、
ということ。

ズーニー山田さんのコラムに 似たような話がある。
すなわち、電車の中で平気でメイクできるのは、周りの人たちの
存在を消しているから。

周りにいるのが人間でなければ、いくらみっともないと
思われる事だって平気でできてしまうのかもしれない。
そんな風に自意識の世界の中では、世界でたった一人だけの存在に
だってなれるのかもしれない。

そしてその状態がもっと進むと一体どうなるだろうか。
今度は自分の肉体すら、消し去ってしまうような気がするのだ。
なぜなら、自意識とは結局、脳の中の幻想?であるから。

片付けられない人、というのがいる。
まあ自分もあんまり人のことは言えないんだけど。
なぜ片付けられないのかといえば、その人の関心が外へと向かって
いかないから。

自分は、鍼灸師という立場で人の身体を触れる事が多いんだけど、
話してみて自意識の強そうな人って、結構自分の身体の変化に
対して、鈍感なことが多いような気がする。

そんな姿勢で座ってたらつらいだろうって姿勢で電車の椅子に座って
いる人なんてのも、そうかもしれない。
自分の身体から送られるシグナルでさえ、自意識がカットして
しまっている人って実は多いのかも。

そして、自ら命を絶ってしまう人も、もしかすると自分の身体が
存在していたことを忘れてしまっているのかもしれない。

問題なのは、そういう自意識に苦しんでしまうと、今度はだんだん
出口が見つからなくなってしまうことだ。
内へ内へと向かう意識のベクトルを、外に向ければいいだけなのかも
知れないけれど、そうすると今度は無防備な自分を外にさらけ出さない
といけなくなる。

でも、もともとは外に目を向けるのが苦手だからこそ、自意識で
守られていたわけだから、外を向け、と言われたからってそうそう
簡単に変われるわけではなかったりもする。
そんな感じで自意識に苦しんでいる人って実は多いのかもしれない。

では、どうすればいいのか。
個人的に思う解決法は、結局は自分の身体を思い出すこと、
なんじゃないかなと思うのだ。

まずは立ち上がってみる、そして大きく伸びをする。
自分の身体のどこが伸びて、どこが伸びにくいのかを感じてみる。
歩いてみて、どうしたら疲れずに歩き続けていけるのか、
歩くことが楽しくなる歩き方ってどんなものなのか、考えてみる。

脳の中から、意識を身体という「外」へ持ち出すだけで、実は
そこには様々な発見があることに気がつくような気がする。

例えば考えに煮詰まった時、意識を身体に向けて歩いてみる。
もしくは、ただ漫然と食べるのではなく、この食べ物の
どこに魅力を感じるのか、いとおしいと思うものはなんなのか、
考えてみる。
そんなことの積み重ねが、外に向いても傷つかない心を磨いて
いくんじゃないかなあ。

心は、というより心を発生する元々の脳は、脳だけで生きている
のではない。
そこには脳を生かすための、身体があり、身体が酸素を含めて
様々な栄養を脳に運び、そして不要物を排泄してくれるからこそ
脳は生きている。

自意識にとらわれている状態、すなわち心のベクトルが自分に
向いている限り、人に何かを伝えようと思っても難しい。
なぜなら伝えようと思うベクトルが相手ではなく、自分を向いて
いるのだから。

そして、伝えるべきツールとなる身体をどこかへ忘れてきて
しまっているから。
だからこそ、最近では自分の身体を見直すような様々なメソッドが
静かなブームになりつつあるのかもしれない。

自意識と身体については、山田詠美がエッセイの中でちょっと
触れている。

【(略)こうあげてみると、私は、口の上手いやつが嫌いみたいだ。
心に発生した言葉を、そのまま語り、足りない分は体で補う男が好きだ。
体で語ることを知っている男は素敵だ。
そういう人は、あらゆる体のパーツが饒舌なのだ。
これは誰にでも出来る芸当ではない。自意識を取り外せる男だけ
が、体の言語をものに出来るのだ。
自意識を取り外すと、その分だけ、言葉に隙間が出来るのね。
そこに肉体をすべり込ませるというわけ。

 時田秀美は過剰な自意識を削り取ろうとする真っただなかにいる。
上手く行けば、意識的に無自覚を手中に収めた魅力的な男が
出来上がる。無自覚、無頓着(無神経とは違うよ)は、私の好きな
男たちに共通したセックスアピールである。そういう男たちは、
くるぶしや肘までもがお喋りである。
体が詩人の素質を持つ、そういう男と私はベッドに入りたい。(以下略)】

(山田詠美 「AMY SAYS」 新潮文庫収録、『時田秀美の場所』より)

いい男・いい女になること。
それは自分の自意識との適度な距離をつかめるって事なのかもしれない。



2003年01月29日(水) オアシス

【例えば、ピーターパンと共に、子供達がベッド・ルームの大空に
舞い上がる姿を見たとき、幸福の涙ではなく失ってしまったものへの
涙があふれ出てきたとしたら、例えば電話のベルに心ときめく時代が
あったことを忘れたとしたら。『オアシス』への道は開かれる。】

(鴻上尚史著「ピルグリム」 白水社刊)

戯曲「ピルグリム」は、オアシスを求める旅に出るという物語である。
作品中、黒マントと呼ばれる正体不明の人物が時々現れ、こう質問する。
「さて、問題です。オアシスはどこでしょう?」

この作品が書かれた時代、世の中はバブルの真っ最中だった。
人々が時代に踊っている時代、私が初めてこの戯曲を読んだとき
「オアシス」という言葉は、おそらくいつか手に入る夢の楽園のような
響きで感じていたのかもしれない。
もしかしたら、金を出せばいつかは手に入るかもしれないもの。

お金を稼げば手に入らないものはないんじゃないかと思っていた時代。
まさにバブルという名の熱狂した時代だったのかもしれない。

今回の上演にあたり作者である鴻上尚史は、オリジナルの戯曲に若干の
手直しを入れているんだけど、その中で心に突き刺さる言葉があった。
(ちょっとネタばれかも?これから観る関西方面の人ゴメンナサイ)

オアシスと呼ばれる街を守る者、テンクチャーに対して黒マントが
こう言い放つのだ。
「違う。ここはユートピアであって、オアシスじゃない。」

同じ言葉は、今回のパンフレットの中の鴻上尚史と宮台真治の対談にも
載っている。


宮台 そういうメッセージを鴻上さんが出していらっしゃるんじゃないかな
   と思ったんです。お前は何をしに演劇を観にきているんだ。祝祭的な
   ユートピアが劇場にあると思って来ているとすれば、困ったもんだ。
   ここにはユートピアはなく、単なるオアシスにすぎないぞ。とっとと
   現実に戻って、現実に働きかけろと。(笑)

鴻上 確かに八九年当時、オウムや9・11を経験する前のユートピアや
   共同体という言葉と、経験したあとのその言葉の意味はずいぶんと
   違うと思いますけどね。

宮台 癒しの場というのは、実はシステムの補完物なんですよね(以下略)



鴻上尚史は、数々の作品を読めばわかるんだけど、もともとユートピア
という幻想から遠い人である。
実際にはありもしないユートピアを信じ、それにすがる強さを増してしまう
よりも、現実にはユートピアなんてないんだから踊ろうよ、という
メッセージを、作品中に織り交ぜてきた。

『ピルグリム』の中の「オアシス」とは、彼にとってはその「ユートピア」
に変わりうる物として、様々な試行錯誤の後でたどり着いた場所だった
のかもしれない。

ちなみにこのユートピアに変わりうるもの、は次作「ビーヒアナウ」で
鴻上尚史としては一つの回答を得たんだと思うのだが、それはまた別の話。


黒マント 君達の国にも、オアシスという言葉はあるだろう。

六本木  え、ああ。砂漠の中にある水が飲める…

黒マント そこには、誰か住んでいるかい?

六本木  えっ?

黒マント 水を飲みながら、旅人は何かを得たり、何かを捨てたりする
     交通の場所なんじゃないのかい。

六本木  あ、ああ。

黒マント まだわからないのかい。(略)



あなたにとって、そして私にとって、何が一体オアシスなんだろう。
日常を旅していながら、時々のどの渇きを癒す場所。そして情報を
交換する場所。

日常の外にありながら、いつでも行ける便利な場所。
例えば、インターネットはそんな場所かもしれない。

でもそこはあくまでオアシスであって、ユートピアとして居続ける場所
ではない。そこをユートピアとして、共同体の中に入れてしまうと、
そこでは様々ないさかいが起きてしまうかもしれない場所。

インターネットに限らず、人々がユートピアにしたいという誘惑に
駈られる場所が、現代には満ち溢れている。

オアシスは、オアシスであって初めて機能をする。
日常を旅することに疲れたら、いつでもオアシスによればいい。
そしてそこで元気になったら、また旅を始めればいい。

今回14年前に書かれた戯曲を読み直して、鴻上尚史にそんなことを
言われているような、そんな気がした。
それが今回の再演に、この作品を選んだ理由なのかもしれない。



2003年01月28日(火) 舞台「ピルグリム」

新国立劇場に演劇「ピルグリム」を見に行く。
この公演の作・演出を手がける鴻上尚史ひきいる劇団、第三舞台は
大好きな劇団だった。

ここでちょっとだけ解説をすると、80年代、そして90年代を
野田秀樹の「夢の遊民社」とともに、走り抜けた劇団である。
その当時の人気はすさまじく、チケットなんて本当に取れなかった。

今現在もTVでよく見る筧利夫、勝村政信が所属していた事でも有名な
劇団である。
2001年に劇団としての活動を休眠し、今に至る。

私個人との関わりで言えば、第三舞台の舞台を見るようになったのは
90年から。
すなわち、第三舞台の人気がピークを迎えた時からのファンである。

だからこの劇団の人気を支えたオリジナルのフルメンバーが集まった
舞台は実は一回しか見たことがない。

それでもそのたった一回の経験は、当日券、立ち見の2階席という
悪条件だったにも関わらず、私をとりこにしていた。
それくらい、彼らが全力でアクトする姿はカッコよく、色気があった。

今回の舞台は、そのカッコよかった時代の戯曲の再演。
伝言ダイアルなど、時代にそぐわない部分だけ直して、ほぼオリジナル
に近い形での上演である。
ただし、役者は一人を除きオリジナルのメンバーではなく、歌舞伎や
宝塚出身者など、幅広いジャンルからキャストを集めての上演。


個人的にライブで観る舞台というのは、残酷なメディアであると思う。
すなわち、その役者さんが何を拠り所として演技をするのか、
またどれだけの引き出しが備わっているのか、を見せてしまう世界だから。

今回の舞台の場合、歌舞伎界、宝塚、TV出身、そして小劇場出身と
様々な役者さんたちが出演していたから、特にそう思うのかもしれない。

これは、例えばTVドラマや映画では決してわからない。ただ、生の舞台
のみが、その役者さんがアクトする時の身体の知識をさらけ出してしまう
のかもしれない。

普段、我々がついしてしまう演技をお芝居と言ってしまうように、
演技とは、何かを表層的にまねようと思えば、簡単にこなすことが出来る。
たとえば多くのTVドラマのように。

でも観客を前にした舞台の場合、そのアクトに説得力がなければ、その
演技は表層をすべり、俳優と観客の間に微妙な隙間をあけてしまうのかも
しれない。

もしくはその舞台を見ている私たち自身が、生半可な演じ方では、
その嘘が見抜けてしまうほど、ヒリヒリとした日常を生きているのかも
しれない。

かつての第三舞台の公演は、現在ではビデオやDVDのソフトで手に入る
時代になった。
今、そのかつて私が熱狂していた舞台のビデオを見直すと、驚くほど
オーバーアクションで、なおかつ分かりやすいコミカルなアクションが
多かったことに気がつく。

でも普段、そんなアクションはしねえよなあ、と思う大げさなアクトは
実は今見ても説得力があるように思うのだ。
そして、そんな第三舞台の影響をもろに受けていた90年代。
実は自分の普段のアクションも大きかったことを思い出した。
笑うときは、わざわざ腹抱えて笑うふりをしてみたりとか。

第三舞台で、鴻上尚史がよくこんな話をしていたことを思い出す。
「世界が壊れないのなら、遊んでしまおう」と。
80年代から90年代にかけて、私たちはまだ時代を遊べるだけの余裕が
あったのかもしれない。

そう阪神大震災やサリンの事件が起こり、長期不況に9.11が起こる
ようになるまでは。

でもね、逆に言えばこういう時代だからこそ、あの頃の熱さがほしい気も
するのだ。
私が初めて観た第三舞台は、東京大阪合わせて2ヶ月以上の公演なのに
全力疾走を続けているような舞台だった。

まるでフルマラソンの後、更にフルマラソンを続けてしまうような
無謀さと元気を、観る私たちに与えてくれていたような気がする。

でもそれは舞台に求める物なのではなく、自分自身の中にこそ持ち続ける
べきものなのかもしれない。
激しくは燃えなくても、いつでも燃え上がれるように静かに燃えている
種火のように。
そして何かに触れれば、たちまち燃え上がれるように。

今回の舞台は、パンフレットのあちこちに普遍性という言葉が踊るように
鴻上さんにとってはそんな熱さよりもむしろ、今後も続くための普遍さを
探す旅だったのかもしれない。

でもできれば、またいつの日か私の中の種火を、その一瞬でいいから
燃え上がらせてくれるような、そして生きていく元気をくれるような
鴻上舞台をまた見たいなあ、と思う。

P.S.ニューロマンサー役の三国由奈さんは、可愛かった。
鴻上さんはこういう役者さんを可愛く見せるのが本当にうまいと思う。



2003年01月27日(月) スポーツ二題

朝青龍関が横綱に昇進した。
もちろん、大相撲の将来を担うべき新たな横綱の誕生は大きな
ニュースに違いはないと思うが、この話題がこれだけ大きく扱われる
のは、やはり貴乃花の引退ということも関係しているのかな、と思う。

直接朝青龍が引導を渡したわけではないけれど、貴乃花の時代が終わり
新たな時代の始まりを感じさせるからこそ、ニュースバリューも
増しているのかもしれない。

その他にも幕下を含め、外国出身勢が優勝の座を占めたらしいし、
文字通り、時代の転換点を感じさせる場所だったのかもしれない。
またもしかすると、少なくともしばらくは外国人優勢の大相撲と
なるのかもしれない。

その変化を寂しいと思うかどうかは別にして、それもまた大相撲
なんだと思う。個人的には寂しさよりはどう変わっていくかの方に
興味があったりするんだけど。


どこで見たかは忘れちゃったんだけど、貴乃花の父、二子山親方は
即戦力が見込める外国人と、大学出身の力士は採らず、あくまで
生え抜きの力士を育てようとしてきたらしい。

今現在の二子山部屋は、貴乃花も引退したことで在籍する力士が
少なくなっているらしい。
今から新入門の弟子を育てるにしても、芽が出てくるまでには時間が
かかるかもしれない。

でも一時の隆盛だけに身を任せるような覇道ではなく、一時代を
築けるような王道の道を行くんだったら、今は雌伏の時で
いいのかもしれない。
王道を行くには時間がかかって当たり前なんだし。

むしろ貴乃花には今は表舞台から消え去り、じっくりと相撲に取り
組んでいってほしいと思う。
再び日の目を見たとき、手のひらを返したようにマスコミがこぞって
持ち上げるのは、目に見えているのだから。


朝青龍の横綱昇進については、横綱審議委員の中から、その言動や
振る舞いが品性に欠けるという意見もあったらしい。

でもこれは確か明治時代の元勲で、西郷隆盛の弟、西郷従道が日露戦争
前に言った話だと思ったけど、
「貫禄なんてものは、四頭立ての馬車に乗せて、その辺をまわらせれば
自然とついてくる」
と言ったとおり、品性や、らしさなんて後からついてくる
もんなんじゃないだろうか。

むしろ、横審の人たちの思う横綱像を演じさせてしまうことは、
子供を無理にいい子に振舞わせるようなもので、問題があるんじゃ
ないかなあ、と思う。

朝青龍が昇進会見の時に見せた笑顔は、例えば貴乃花のように横綱
らしさという仮面で隠してしまうには惜しいものだと思うし。
人間らしさが売りの横綱が、若者のハートをキャッチするかもしれない
訳だし。

まあ日本の場合、権威をとらせる前だけはグチグチと述べて、
その人が権威をとってしまった後は何も言えなくなってしまうという
事はよくあるわけで。
そういうシステムでい続けることの方が、問題があるような気もする。

それにしても朝青龍の兄妹が、そろって日本にいて、兄二人が
プロレスラーだったとは知らなかった。
もしかしたら横綱廃業後、プロレス入りなんてのもありなのかな。


もう一つの話題はスーパーボール。
などと偉そうに言っても、NFLには全然詳しくないし、ルールだって
大雑把にしか知らないんだけど。

去年のスーパーボールの時、たまたま仕事でハワイにいて、アメリカ人
と一緒に仕事をしていた。
試合の時間と、試合の時間がちょうど重なったこともあって、残念
ながら本場のTVの熱狂ぶりを感じることはできなかったんだけど。

仕事が終わって、一緒に食事をしようとタクシーに乗ったときに、
今日スーパーボールだったことを思い出したんで、何気に話題に
乗せたとたん、誰彼を問わず、タクシーの運ちゃんを巻き込んでの
大盛り上がり大会だったのを思い出した。

どことどこのチームが対戦して、誰が得点をとった、なんて事を
みんながとても詳しかったのにびっくりした。
スーパーボールって、まだ独立して日が浅く、様々な人種のるつぼ
である合衆国が、一つになるためのイベントなんだろうなあ。

逆に言えば、スーパーボールの話題にのれなきゃある意味アメリカ人
とは認められないものなのかも。
例えば、関西に住んだら、落ちがないと認めてもらえないように。



2003年01月26日(日) 共有するもの

以下の話は、単なる思いつきの話である。

恋愛に限らず、人が人と付き合うってのは何かを共有するって事
なんじゃないだろうか。

例えば、同じようなグループ構成だったとしても、同じ釜の飯を
食ってるか食ってないかで、その集団のまとまりの強さは違うと
よく言われる。
すなわち彼らは同じ釜の飯、という体験を共有したわけだ。

もう一つベタな例でいえば、かつての少年漫画誌でよく見られた
風景、ライバル同士がへとへとになるまで闘うことで、その後
お互いを認め合い、仲良くなるとかね。
この場合は、お互いの喧嘩体験を共有しているわけだ。
でもこの光景、今の漫画雑誌でも見られるんだろうか?

また例えば組合だとか、組織の縛りなんてのも、共有するものの
一つかもしれない。まずはじめに組織ありきでまとまっている事
って結構あるんだろうし。

このように人は他の人と何かを共有しあう事で、その結びつきを
より深めているような気もする。
年賀状だって、そうかもしれない。

そしてこの事は恋愛関係でも同様なんじゃないかと思う。

例えば、デート。
二人でどこかに行ってできた思い出なんてのは、二人が共有する
もののわかりやすい例だろう。
二人だけで、共有するものが増えれば増えるほど、その結びつきは
強くなっていく。

また二人でする食事、特に一つの皿を二人でシェアするなんてのは
文字通り、共有するものであるわけだ。

これは余談だが、だからこそ彼氏/彼女が、自分以外の異性と
二人きりで食事をすることを嫌う人がいるのかもしれない。
それはたとえ何もなくても、自分のいない所で何かを共有することに
対して嫉妬しているような気もする。

もちろん、寝るということも共有するものの一つである。
それはお互いの最も無防備に近い姿を共有することなのかもしれない。

そして付き合うと宣言したり、結婚するというのも共有するものの
一つなんだと思う。
特に結婚なんて共有することを国が認めるという制度なわけで。
そんな風に、人は様々なものを共有することで関係を強固にして
いるのかもしれない。

たとえば、不倫をしているだんなさんが、奥さんと別れて愛人と一緒に
なるという決断がなかなかできないのは、たとえ感情は冷えてたと
しても、奥さんと共有するものが強固だったりするからなのかも。

またたとえば、職場恋愛であったり、同じ趣味を持つ人同士が
付き合いやすいのも説明がつく。
この場合二人の間には、すでに共有するものがあらかじめ用意されて
いるわけだ。
逆に言えば、全く共有するものを持たない同士が、恋愛をするのは
相当困難なことだといえるかもしれない。

その一方でその関係を希薄にしてしまうものもある。
それが、すれ違い。

たとえばなかなか物理的に会えなかったりすれば、すれ違いが
起きたりするし、また、二人でデートをしていて、片方は楽しみを
共有していると思っていても、もう片方はつまんないと思ったり
する場合など。

こんな風にすれ違いは二人の関係を遠ざけるものなのかもしれない。
だからお互いが共有することよりも、すれ違いが多くなってしまうと
二人の関係はだんだんと遠ざかっていってしまう。

ただし共有することもすれ違うことも、二人の関係の様々な場面で
起こりうるから、たった一度のすれ違いが致命的になることは
そんなにないかもしれない。
そのすれ違いは、次の共有するものによって修復は可能だったりする。
でもたとえ些細なすれ違いでも、それが続けばボディブローのように
後で効いてくることもある。

また共有するものにも、すれ違うものにも物理的なものと心理的な
ものがある。
たとえば、遠距離恋愛。
物理的にお互いすれ違うことがあっても、心理的に共有するものが
強固であれば、その物理的なすれ違いは埋められる。

逆に、結婚という物理的?に共有するものが強固であっても、
心理的にお互いにすれ違うことが多ければ、いつかその関係は
冷え切ったものになってしまうのかもしれない。

そんな風に共有するものと、すれ違うものは絶えず綱引きをしている
ような気がする。
またお互いに共有するものがあっても、それがそれ以上増えない場合、
やはりその関係はそこで止まってしまう可能性もあるわけだ。

そしてもう一つ。
お互いに何を共有したいと思うのか、または何を一番に共有したいと
思うのかって事も重要な気がする。
たとえば、付き合うとか、結婚するとか形を共有することを大切に
思う人もいるだろうし、逆に形にこだわらない人もいる。

そのことがすれ違いを生む場合もあるし、また形を大事にしたり、
形があることに安心してしまうことで、結局中身ですれ違ってしまう
場合もある。

だからお互いの関係をより密にしたいと思うならば、できるだけ
すれ違いをなくし、そして共有するものを増やしていく必要がある。
それは様々な意味で結構コストのかかることなのかもしれない。

でも逆に考えれば、お互いの間に、心理的あるいは物理的なすれ違いが
あったとしても、それは何かを共有するチャンスを増やせば、埋める
事ができるって事なのかもしれないと思う。

別に大きなイベントだけが何かを共有することではなく、むしろ
日常の中で小さなことを共有していくことの方が、最終的には
大きいような気もするのだ。
どんなに些細なことでも、共有することに変わりはないのだから。


ひるがえって自分自身の事を考えてみる。
やっぱりあまりにも共有するものが、少なかったんだろうなあ。
もっと気軽に二人で共有する時間を増やしておけばよかったんだと
思う。

個人的にはやはりお互いの時間を共有するって事が一番重要なもの
だったんだと、今はしみじみと思うのだ。



2003年01月25日(土) 恋のためらい

今日は、映画「ボーンアイデンティティ」を見に行ったので、その
感想を書こうかな、と思ってたんだけど、深夜たまたまTVを
つけっぱなしにしていたら、映画「恋のためらい・フランキー&
ジョニー」
をやっていたので最後まで見入ってしまった。

原題名はシンプルに「フランキー&ジョニー」。
同じ名前の、有名なポップスがあるらしい。
この映画を見るのは実は2回目だが、個人的に結構好きな作品である。

主演はアルパチーノとミシェルファイファー。
そして監督は「プリティウーマン」など数々の作品で恋愛映画の達人
と言われている、ゲイリー・マーシャル。
大人による、大人のための少しほろ苦いラブストーリー。

アルパチーノといえば、「スカーフェイス」とか「ゴッドファーザー」
が有名だけど、個人的にはこういう恋愛映画に出てるアルパチーノの
方が大好きだったりする。
「シーオブラブ」とか「セントオブウーマン」とか。
寂しさを知っている大人の背中で語らせたら、個人的にはこの人が
ナンバーワンだと思うのだ。

アルパチーノ扮する"ジョニー"は、刑務所帰り。刑務所で覚えた
料理の才能を生かし、ニューヨークの食堂というか、ファミレス?の
コックとして就職する。
その腕前とイタリア人特有の陽気さから、彼はすぐにお店に馴染む。

だけど、部屋に帰り一人になってしまうと、その寂しさに耐えかねて
娼婦を買い、Hせずに"スプーンポジション"で添い寝することを
要求する。

ミシェルファイファー演じる"フランキー"はそのお店のウェイトレス。
ジョニーの事はちょっと気になるけど、だけど恋なんてもう沢山だと
どこかあきらめている。

一人の寂しさを知っているから、人と寄り添おうとするジョニーと、
一人でいることは寂しいからこそ、その事を忘れて一人で生きて
いこうとするフランキー。

この映画は、そんなさびしさを知っている大人の恋愛映画である。
人を恋しいと思うとき。それは自分が一人であると自覚するとき
かもしれない。

人は一人でいるときに、一人であると自覚するのをつらいと思うのか、
または二人でいるときに一人であると自覚することをつらいと思うのか
もしも人を恋しいと思う気持ちがなければ、人は一人でも生きて
いけるのかもしれない。

と、こんな風に書くと、なんかただ物悲しいだけの映画のように
思えるかもしれない。
実際初めてこの映画を見たときは、なんて寂しい映画なんだろうと
思ったこともある。

「シーオブラブ」もそうなんだけど、NYという大都会を舞台にしている
ことで、一人で生きていくことの寂しさ、切なさが増しているのだ。
でも、初めてこの作品を見たとき、まだ自分はそのさびしさの本当の
意味を知らなかったのかもしれない。

今回この映画を見て思うのは、
でもだからこそ恋愛をする上で、自分のさびしさを知っていることは
重要なんじゃないかな、という気がするのだ。
自分のさびしさがどんなものなのか、そしてそれとうまく付き合って
いくにはどうすればいいのか。

フランキーのように、その事をあえて忘れるのも一つの方法だし、
そんなフランキーに対して、あくまで人と人が触れ合うことの大切さ
を、飾らずに口説くジョニーの生き方も一つの方法である。

フランキーは、そんな風に自分の触れてほしくなかった内面にまで
関わろうとするジョニーに対して、自分がどうしたらいいのか、
わからなくなってしまう。

ジョニーならずとも、そんな風に取り乱すフランキーの姿は
なんかほっとけない感じがしてしまう。
ミシェルファイファーは、大人の女性って感じだけど、その辺の
幼さも兼ね備えた演技がとてもうまいと思う。

この映画の終盤、ドビュッシーの月光の調べが二人を、そしてその街に
住む人々をやさしく包み込む。

何か特別のことがあったわけではなく、ごく当たり前の日常の世界の
恋愛を、ここまでうまく表現しているのが、すごいことだと思うのだ。
見終わって、本当の優しさとは何なのか、ちょっと考えてみたりした。
DVD買っちゃおうかな。ちょっと高いけど。



2003年01月24日(金) 高校教師

いきなりだけど藤木直人の役サイテー。

おそらく脚本家の野島伸司としては、不治の病に冒された
人間の心の弱さと、それを乗り越える純愛の物語を描きたい
んだとは思うけど、それにしてもあんまりだと思う。

もともと人の心をシュミレートして、描こうとする脚本家や
作家はあまり好きではない。
個人的に自分の心でさえ、満足に扱いこなすことができないのが人間
だと思っているからかもしれない。

個人的に読書はすごく好きなんだけど、ある種のミステリ系が
苦手なのもおそらくは同じ理由である。

こころの生態系 (講談社+α新書)という本の中で、河合隼雄が
こんなことを言っている(以下部分引用)。

【二十世紀を特徴づけた言葉は、「オペレーション」では
なかったかと私は考えています。オペレーションとは「操作」の
ことで、医学の世界では「手術」のことを指します。(略)

オペレートできるということは、こうすればこうなるという結果が
はっきり出てくるということです。そして、望む結果に直接的に
結びつく知は、みんながほしがります。いち早くそういう知を
持った人が、それによって大きな利益を手にすることができる
からです。】

【ところが、そうした傾向が頂点に達したところで、やっと反省
が起こってきました。それは、オペレーションの対極の概念と
しての「エロス」を見直そうとする傾向と言ってもいいかと思います。

たとえば、私が誰かを好きになったとすると、そうした気持ちは、
なんとか操作しようと思っても、できるものではありません。
エロスほど自分でオペレートすることがむずかしいものはありません。

もちろん、そのために彼女にどう近づくかとか、どのように相手の
気を引くかというようなことはいろいろと考えるかもしれませんが、
一番の根本から突き動かしてくる情動というようなものは、どうする
こともできません。】

【エロスは、このように理性ではなかなか処しきれない厄介なもの
ですから、とても扱いにくい。それに対し、ロゴスの世界は、何ごと
もきれいにオペレートできます。そこで、しだいにエロス抜きの社会
になってきたわけです(略)。

ところが、このごろになって、ロゴスだけで推進していくやり方では
どうもうまくいかないのではないかということに人々が気づきはじめて
います。エロスを抜きにして、何でもオペレーションだけでやっている
と、しだいに破壊につながっていくからです(以下略)。】



ここで語られているエロスを、個人的に翻訳すると、人間本来の持つ
自然な欲求や本能って言葉になるかもしれない。

ちょっと引用が長すぎたかもしれないけれど、
どうせドラマを見るんだったら、エロスを感じさせてくれるドラマを
見たいものだと思う。

もちろん役者の技能もあるとは思うけど、人の心をオペレートした
作品の場合、感情移入が難しいので、どうしても役者さんが
表面的に演じてしまっているような印象があるのだ。

そして、恋でもエロスを抜きにして、オペレートだけで人の心を扱う
限りそれはやっぱりどこか薄っぺらいものになってしまうんだと思う。

野沢伸司にしても、彼が本当に描きたいのはロゴスを超えたエロスの
世界なんだろうと思うけど。



2003年01月23日(木) 日本というソフト

さて、数回に渡り大相撲について勝手に考えてきた
わけだけど、ここで日本のビジネスの特殊性について
考えてみる。

映画監督岩井俊二と、庵野秀明が対談した本で、
「マジックランチャー」 (デジタルハリウッド出版)という本がある。
その対談の中で岩井俊二が、こんな事を言っていた。

岩井 でもそれは日本がそこそこのマーケットになるくらい、人口が
    多すぎなのが問題なんでしょうね

庵野 ああ、そうですね

岩井 日本国内でマーケットがすんでしまったのが問題で。香港とか台湾
とかオーストラリアの話を聞くと、まず輸出しないと元がとれない
から、輸出が制作の前提条件になってる。
でも、日本の映画とか、国内で採算とろうとしますよね(略)

庵野 基本的には内需拡大ですからね。

岩井 人口がいまの100分の1くらいしかなかったら、まず無理っていう。

庵野 こんな狭い所に、アメリカの半分の人口がひしめいているわけです
よ。しかもお金持ちだし。これはいい市場ですよ。国内市場だけで
すみますからね。とくにアニメーション、ビデオのアニメとか
だったら、もう2万人いりゃすみますから(以下略)



ほめる訳でもなく、そしてけなす訳でもなく、日本ってやっぱり
特殊な環境なのかもしれないと思う。

当たり前の話だが、日本人は日本語を話す。
そして日本語を話す人種は日本人だけである。

世界の中でみれば日本語を話す人数なんて、世界人口50億と
考えれば、たったの2%にしかすぎない訳だ。
でもこの1億の人々が経済力を持った結果、外を意識せず内だけを
意識してもやっていけるようになってしまった。

だから日本で暮らしている限り、英語を覚える必要性を感じなくても
よかったし、世界でも有数の経済力を持っているから、明治時代の
ように海外に留学して優れた技術を学ぶ必然性もあまり感じられ
なくなってしまった。

例えばこれが半分の人口の5千万人しかいなかったらどうだろう。
日本語だけで通用する市場は約半分。そうなったら結局はもっと
日本語以外の言語を必死になって覚える必要があったかもしれない。

いうまでもなく言語という壁は結構大きな問題なんだと思う。
日本の工業製品の場合、その優秀さを語る上で、日本語は関係ない。
だから世界に輸出しても売れるし、今までそうやって繁栄してきた。

海外の人向けに製品のコンセプトを絞り込まなくても、とりあえず
日本国内1億人に売れれば、すでにペイ出来てしまうわけだから、
国内生産の延長で今まではOKだったわけだ。

また、ゲーム機やアニメなんかも同様だろう。
言語が直接は関係しないから、全世界でヒット出来たわけだ。
その国の子供にとって、ポケモンが日本のアニメであるって事は
どうでもいいことでもあるわけで。

その一方で、例えば日本のシンガーで今まで海外で商業的に大成功を
した人がいなかったり、日本の文学でハリーポッターのように全世界
でヒットした作品がなかったりと、言語に依存した文化の輸出は
難しかったりするわけだ。

だから日本人はエコノミックアニマルで、製品の輸出ばかりをして
何を考えているかわからない、といった意見や日本人には哲学が
ない、なんて言われ続けた時代もあったんだと思う。

すなわち、日本人(だけ)は英語という世界共通の文法と土俵に
乗らなくても、やっていけるだけの経済力を持ってしまった極めて
希有な存在であったのかもしれない。

まあ自国の内側だけを意識しているのは日本に限らず、米国なんて
のは、その最たる国であるわけだけど。
おそらくイラクに対する攻撃もアメリカ国民にとっては国内問題の
延長でしかないのかもしれない。

ただ、今後は一体どうなるんだろう?
おそらく日本が行なってきたことと同様の事を、もっと人口の多い
中国はやってくるだろう。

そして彼らが本当に経済力を身につけたとしたら、今度は彼らが
内向きを志向して、それに日本が追随していく時代になるのかも
しれない。

また日本国内に目を転じてみれば、おそらくは2極化していくような
気がする。
一つは冒頭の庵野秀明の発言のように、とりあえず2万本売れれば
いいや、とあくまで国内向きの経済に目を向ける方法。

最近のアニメ事情に対して詳しくはないんだけど、以前に比べて
よりオタク指向が深まっている印象がある。つまり1万人のアニメ
ファンにだけ向けた作品を作ればいいという方法論なんだと思う。

そのためには、より顧客のニーズに応えようと、どんどんジャンルが
細分化されていくから、そのニッチをつかむことが最大の課題になる。

そしてもう一つは海外を意識したビジネスに目を向ける方法。
もちろん今まで日本の第2次産業は海外を意識して、製品を輸出する
事で繁栄を行なってきた。
ただし、それだけでは限界があるとも思う。先程の中国など、同様の
コンセプトで迫ってくる国は今後の方が増えてくるだろうから。

だから、今後輸出として伸びる可能性があるのは日本というソフト
なんじゃないかな、とも思う。

すなわち日本的な思考の輸出。
でも耳タコではないけれど、この考え方もすでに何度も言われてきた事
かもしれない。
また、例えば世界の自動車メーカーでトヨタのカイゼンやカンバン方式
が取り入れられているように、もうそんなに目新しいものはないのかも
しれない。

でもね、まだまだ実はチャンスはあると思うのだ。
何故ならソフトの分野では、ブランド品など、海外のものを受け入れる
事はあっても、海外を意識した事業展開はしてこなかったのが日本
という国なんだから。

でも例えば台湾やら香港で、日本の若者文化を真似したいと思う人
達が出てきたり、ヨーロッパでは空前の回転寿司ブームだったり。
(だから高原はスシボンバーなるニックネームをもらった訳だが)

今まで注目されなかった分、日本の文化を海外に持ち込むことは
充分立派なビジネスになりえるんじゃないだろうか。

もちろん、今までのビジネスに比べれば、日本語を外国語に翻訳
し、そして相手に伝えなければならないという、今までと比べ物
にはならない手間も生まれるわけだけど。

そこには日本語という言語の壁があるっていう事で放置してきた
フロンティアが存在しているような気もするのだ。



2003年01月22日(水) ジャパニーズドリーム

今回の引退報道の中で、直接耳にすることはなかったが、前にこんな
事を言っていたコメンテーターがいた。

「貴乃花が引退して、朝昇龍関が横綱になると、外国人横綱だけに
なってしまうという事態になってしまうわけですが、」

おいおい。自分がすごい事言っているって思わないのかな、と
びっくりした。
まあ、かつては横綱になれるチャンスもあった小錦を昇進させなかった、
と揶揄もされた大相撲の世界の話ではあるわけだが。

確かに多くの日本人にとって、相撲の頂点たる横綱に日本人が一人も
いないというのは、さびしいことであるには違いない。
とりわけ、それが国技と呼ばれるものであるならば。

でも逆に考えれば日本の伝統的な文化である相撲が、世界に受け入れ
られていくという事でもあるわけで。

外国人力士と呼ばれる力士たち。
彼らは、日本の中でもおそらくはとりわけ厳しいはずの日本のしきたりを
学んでいる人たちでもあるとおもう。

ちゃんと日本語を話し、日本の伝統的な文化の中で相撲にとりくんでいる
彼らが活躍して、一体何がいけないんだろう。
要は日本の伝統文化を、日本人が継承しているか外国出身の人が継承
しているかだけの問題だろう。

たとえばアンディフグを見て、外国人が空手をしてK-1でチャンピオンに
なったことに文句を言う人はいなかったと思う。
むしろ、日本人より日本人らしいそのスピリットが多くの人を感動させて
くれたわけで。

もちろん外国人で大相撲に入門する人全てが、日本の伝統文化に憧れて
入ってくるわけではないと思う。
でも逆に言えば、彼らがそんなに大変なことをしてまでも相撲に入門
したいと思うだけの理由があると思うのだ。

それは彼らにとって大相撲は今でもジャパニーズドリームなんだと思う。
すなわち、日本でプロとして食べていくことが立派に夢たりえるのだ。

たとえば、松井やイチローにとってメジャーが夢であったように。

そしてそれは何も外国人に限った話ではないとも思う。
大相撲は日本のプロスポーツでちゃんと飯が食えるという、数少ない
ジャンルの一つなんだし。

フランスのシラク大統領に限らず全世界に日本の大相撲のファンは多い。
あれだけの巨漢たちが、狭い土俵の上でぶつかり合うというソフトは、
日本語の壁を越えて、全世界に通用するソフトだと思う。

メジャーリーグは、米国内にとどまらず、そのマーケットを全世界に
広げようとしている。
それは松井などの選手の発掘にとどまらず、TVの放映権料やグッズの販売
そしてその国からくる観光客まで当てにするしぶとさだ。

大相撲にしたって同様に、少なくとも全世界で勝負できる日本発の稀有な
ソフトビジネスになる可能性は大いにあると思う。
もしかしたら、大相撲目当てに日本を訪れる観光客だって増えるかも
しれないわけだし。

かといって、たとえばカラー柔道着のようにグローバルスタンダードに
必ずしも染まらなければいけないわけではない。
あくまで日本らしさ、日本文化を発信していく方法だってあるんじゃ
ないかなあ。

そう考えれば大相撲、まだまだ捨てたもんじゃないとも思うんだが。



2003年01月21日(火) 大相撲

貴乃花が引退して、大相撲が危機であるという意見がある。

若貴ブームの後、次の人気力士が生まれず、また力士の怪我に
より欠場が多いのが原因で、最近は満員御礼の札がかかることも
稀だとか。

新弟子検査に来る希望者が激減しているので、親方衆が必死になって
スカウトをしているとか。
大相撲の今後がどうなってしまうのか、大変な心配をされているらしい。

うーん、でも個人的に日本相撲協会や、大相撲がなくなってしまうとは
思えないのだが。
何故なら、そこにはちゃんと固定したファンがいると思うから。

今人気が凋落したように見えるのは、ただ単に若貴ブームからの
相撲バブルがなくなった、というだけだろう。

例えるのなら、プロレス。
私が子供の頃、プロレスといえば全日本と新日本だった。

その後、UWFが出来たり、つぶれたり、分裂したりしている内に、
あまりにも多くのプロレス団体が出来てしまい、この先プロレスは
なくなってしまうのではないか、なんて意見が聞かれた事もあった。

でも、現実としては離合集散は起こっても、プロレスという
ジャンルはちゃんと残っているし、ファンもついている。

もちろん、例えば新日本とかの大きな団体にしたって一時の人気に
比べれば経営的に全然苦しくない、なんて事はないと思うけど、
それでもちゃんと団体は存在しているし、興行も出来ている。

全日本プロレスなんて、ノア旗揚げの後は絶対なくなると思ったが、
ちゃんと今でも残っているし。

それでは何故プロレスは今も残っているのか。
答えは簡単。ファンが、残したいと思い興行に通ってくれるから。
そして、ギャラが安くてもプロレスで食べていきたいと思う選手達が
いるからだろう。
すなわち、続けていこうという意志が働く限り、一度動いた歯車が、
いきなり消え去ることはないのだ。

今後経営的に苦しくなる相撲部屋も出てくるとは思うけど、それは
何も相撲に限った話ではない。
競馬で内国産馬を育成している牧場の経営が厳しいという話や、
各種社会人スポーツだって、軒並み閉鎖しているなんて話が、
最近ではそんなにめずらしくなくなってしまった。

だから今後も大相撲は続いていくと思う。
病院で働いていると、午後の大相撲中継をどれだけ多くの人が
楽しみにしているのか、よくわかるのだ。

彼らのように相撲を楽しみにしている人達がいて、そして相撲を愛して
運営している人達がいれば、例えどんなに規模が小さくなったとしても
大相撲というジャンルがなくなることはないだろう。
この項、もう一日続きます。



2003年01月20日(月) 貴乃花

貴乃花が引退を表明した。
今日の未明には刷り上がっている各紙の朝刊には、もうすでに
貴乃花引退へ、という文字が躍っていたから、今日引退を表明する
という流れはすでに見えていたのかもしれない。

様々な物議を醸し出しながらも、この10年間、常に角界の話題の中心
であり続けた男。
おそらくは、相撲道というものに身体を捧げた人であるのかもしれない。

思えば千代ノ富士を破り、彼に引退を決意させたときから、貴乃花の
身体には、相撲の神様が移り住んでいたのかもしれない。
そんなさえ感じさせるような大人びた物腰と、そして天にも届きそうな
くらい、高くあげた四股の足が印象的な横綱だった。

マスコミというメディアは、人々がそのカリスマ性に惹かれると、こぞって
持ち上げる代わりに、少しでもその中に少しでもほころびが見えると
こぞって、その人を地平まで落とそうとする。

彼が横綱というカリスマの仮面を取り去った後、例えばお兄ちゃん
のように人としての仮面をかぶるのか、それとも相撲協会という
閉じた空間の中で、人の仮面もカリスマの仮面もかぶらずにすむ
世界で生き続けるのか。

いずれにせよ、これからは第二の人生の始まりである。
しばらくは、のんびりとした時間を過ごしてほしいなあ、と思う。



2003年01月18日(土) 映画「T.R.Y」

今日は久しぶり?に映画鑑賞。
見てきた映画は「T.R.Y」。織田裕二主演の映画。

舞台は清朝末期の国際都市、上海。列強各国が清朝の利権を求め、
跋扈していた時代。

この作品の中で織田裕二は、逃げ足だけは早い、三流のペテン師役。
そんな彼が中国の革命運動家たちに仕事を依頼されたことから物語が
はじまる。
狙うは、清朝を打倒するための日本軍の銃弾と武器。

実は、こういうどんでん返しものは結構好きな話だったりする。
古くはスティングに始まり、最近ではオーシャンズ11とかね。

この作品もそういう仕掛けの部分がよくできているので結構楽しめた。
ただ個人的にはなんていうのかな、ちょっと理屈が勝ちすぎている気も
する。そういう仕掛けの部分をドラマの部分でもう少し目立たなくできて
いたら、個人的な評価はもっと高かったかもしれない。

あとは、織田裕二が役柄的にかっこよすぎ。
せっかくアジア各国の人気俳優と思われるであろう人々(あんまりその辺
詳しくないんで…)が出てるんだから、彼らにももうちょっとおいしい
シーンがあればよかったのになあ。
このあたりはまだ原作を読んでないんで、わからないんだけど。

また、敵役の渡辺謙が軍服のマントをはためかせながら歩くシーンが
格好よかったし、松岡俊介もおいしい役でいい味出していたと思う。

映画全体としては、20世紀初めの上海の雰囲気とか、織田裕二本人も
言っているように、日本映画とは思えないくらい、予算的な贅沢さを
感じさせてくれている。

まだギャングオブニューヨークは見ていないんだけど、美術的には
そんなに引けはとっていないんじゃないだろうか。

DVD買ってまで見たいとは思わないけれど、旧作のレンタルビデオ
だったらもう1回見てもいいかもしれない。
ついでにアジアの役者さんの情報も仕入れてみながら。



2003年01月13日(月) 丸投げ

さてなんか時期を外した感もあるけど、丸投げについて考えて
みようと思う。
きっかけは1月12日放送のサンデープロジェクトで、現場に
こだわった2人の市長さんについての放送を見たことだった。

放送自体は、公共工事の談合入札を廃止して、完全競争の入札を実現し、
予算の削減を成功させた、横須賀市の市長と、
どこかは残念ながら忘れちゃったけれど、愛知県でお年寄りが気軽に
集まれる場所をつくり、それを民間のボランティアに任せることで、
やはり、市の職員の意識改革を実現させた市長の話だった。

その放送中で、丸投げする態度と、現場主義は正反対の姿勢である、
という発言があり、その言葉にうーむ、と考えさせられたわけだ。

さて、丸投げ。
昨年、小泉首相が道路公団改革やら、金融制度改革やらを
その諮問委員に任せてしまい、その手法に対してマスコミやら
抵抗勢力から、批判を浴びていたことは記憶に新しい。

さて、ここで問題がひとつ。
丸投げすることって何が一番いけないことなんだろう?

小泉首相の、丸投げに対して、一番多かったと思われる批判は、
小泉首相が、責任をもったリーダーシップを発揮していない、という
ものだったような気がする。

それに対する小泉首相の談話は、政治の責任は答申があがってきた
後の問題であり、その意見を専門家に聞くのは、なんら問題はない
というものだった。

要するに今後もらった答申を、現実に政策化できるかどうかが、
一番の問題であって、難しいことは専門家に考えさせて何が悪いの?
って意見のような気がする。
まあその割に道路公団の方では、今井委員長に色々とちょっかい出して
いたような話もあるけれど。

確かに、行政の責任としては、よいと思われる政策を実現できるかが、
一番の問題であって、それ以前に民間人に聞くか、党の委員会に諮るか
官僚に政策を出させるか、は誰の意見を尊重するのか、という、政局
がらみの問題であるようにも思われる。

抵抗勢力と呼ばれるおっさんたちが、あれだけ声高にその丸投げ姿勢を
批判していたのは、要は自分たちや官僚の意見を無視されたことにも
あるわけで。

自分たちの意見がそのまま通っていたら、別に何も言ってないだろう。

じゃあ、別に丸投げしててもいいんだろうか?
いや、個人的には、次のような理由で安易に丸投げすることに対して
異論がある。

それは結局丸投げしている限り、丸投げした方はその問題に関心を
持たなくてもよくなってしまうから。

すなわち素人の私にはわからないけれど、とりあえず偉い方の言う通りに
していればいいんでしょう、という態度になりがちなことである。
これのどこが問題なのか。
それは最近の医療の周辺を見てみるとよくわかる。

インフォームドコンセント、という言葉がある。
説明と同意。
つまり、医療を行う側は、医療を受ける側に対して、十分な説明をし、
受ける側の同意を得なければならない、という考え方。

この考えが出てきてもう10年くらいになると思うけど、この考えが
浸透したのは、最近の数多くの医療過誤によってだと思う。

すなわち、それまでのお医者さんと患者の関係って言うのは、病気に
なったら、その治療法はお医者さんに任せっきり。丸投げだった。
以前取り上げた女子医大の記事のように、患者さんがうかつに質問
できない、雰囲気があったり。

その雰囲気が変わってきたのは、やはりこれだけ医療過誤が表ざたに
なったため、患者さんもうかつに医者任せ、病院任せにできないという
意識の変化が起きたせいだと思う。
なんといっても、自分や家族の命がかかっているのだから。

でも、個人的にこうした風潮は逆にいいことだと思うし、医師の側でも
闇雲に丸投げされて責任をとらされたり、逆に信用されないことよりは
そんな風に聞いてくれることを、歓迎しているような気もする。

よく、素人が口をはさむなんて、という言い方が横行する。
でも逆に言えば専門家は、素人にも分かりやすく説明できる人の方が
実は、有能であったりすることも多いような気がするのだ。

自分の経験で言っても、他人に伝えようとすることで、自分の理解が
深まってくるということは、よくあることだし。

丸投げすることの一番の問題点は、そんな風に実は丸投げされる側が
実は対話をすることで、更に理解や完成度が深まるチャンスを奪う事に
あるんじゃないだろうか。

2年前くらいからコラボレーション、という言葉が目立ってきた。
でも丸投げという行為は、完成度の高いコラボレーションから、
もっとも遠いところにあるのかもしれない。

そして、実は丸投げという行為は、日常生活のさまざまな所で見られる
ような気もするのだ。
たとえば、子育てを母親に丸投げしている父親や、その子供の教育を
学校や塾に丸投げしている両親など。

人は、自分の関心の届かない先にはどうしても、臆病になってしまう
のかもしれない。
でも逆に関心をもち、素朴な疑問をぶつけることで変わっていくことも
沢山あると思うのだ。



2003年01月06日(月) アトムの時代

2003年という年、実は鉄腕アトムが生まれる年であるらしい。
すなわちまだまだ少年であるトビオ君がエアカーに乗って事故って
しまう年。

残念ながら現実の2003年には、空を飛ぶ車であるエアカーは
実現化はしていないわけだが。
去年だったか一昨年だったか、おもちゃメーカーのバンダイが
ドラえもんを、数年の内に造り出すという宣言をしていたような
気もするが、流石に十万馬力で自在に空を飛ぶロボットまでは
つくれないようである。

まあ与太話はこのくらいにして、本題に移るけれど、2003年と
いう年は、小さい頃はそれだけ夢の拡がる世界だったわけだ。
児童図鑑の未来の予想図では、高層ビルが建ち並ぶ、その間を透明な
チューブが通り、中を車が行き来している。
そんな子供の頃の夢の世界と、現実の日本を比べると、ギャップの
激しさにビックリしてしまうかもしれない。

鉄腕アトムは、そんな中で科学が万能な時代の象徴的存在として
扱われることも少なくなかった。
それに反して、現実の世界では科学万能一辺倒であった、今までの
考え方に対して、異論が数多く聞かれるようになった気もする。

例えば原発の事故隠しとか、スイスの宗教団体によってクローン人間
が生まれるという問題であったりとか。
科学の進歩が、必ずしも豊かな未来だけを描くものではない、という
考え方も、説得力を増してきたような気もする。

でも、だからといって科学というもの自体を否定してしまっては
何も始まらないと思う。
問題になのは、科学技術に対する盲信というか、信仰であると思う
からだ。

すなわち、科学は万能で全ての問題は科学が解決すると、信じること。
その信仰は、本来の科学的な思考法とはかけ離れていると思う。

まずは全てを疑うこと。そしてその中から何が正しいのか、考えること
科学の時代にあって、実は一番必要なんだけど、普段の私たちが
見落としがちなのは、そんな科学的な思考法で、ものを見るという
事なのかもしれない。

そしてちょっと考えてみると、先程の原発の事故隠しにしても、
クローン技術の人体への応用に関しても、問題なのはその技術を
扱う人間の心の方であるという事がわかる。

すなわちどんなに優れたハードやオペレーションシステムなどの
ソフトがあっても、それを人が使いこなすことが出来なければ、
本来の意味からは外れてしまう。

そしてそれは科学の先端の話だけでなく、私たちの生活の中でも
大切な事なんだと思う。

鉄腕アトムは今年の春にまた、アニメとしてリメイクされるらしい。
その中では科学万能ではなく、心を大切にした内容になるという事だ。

でもそれは今までの鉄腕アトムの世界の中でも、作者の手塚治虫が
度々語ってきた話でもある。

自分にとって一番親しみがある鉄腕アトムは1980年頃、リメイク
されたアニメの作品なんだけど、その中で一番心に残っている台詞は
アトムが度々口にしていた、このわからずやー、であったし。

手塚治虫は常に優れた技術を扱う、人の心の弱さにもに目を向けた作品
を作ってきた。
それが今まであまり脚光を浴びてこなかったとしたら、それは今まで
私たちが輝かしい未来の部分に目を奪われすぎた結果かもしれない。



2003年01月03日(金) TRICK劇場版

朝、というか寝過ごした昼近く、起きてみると意外に寒い。
TVをつけて、箱根駅伝を見てみると、なんと雪が降っている。
寒そうだなあ、なんて思っていたら、東京も雪がちらちらと
舞い降りてきていた。

とりあえず、お正月用にそこそこ食料は買い込んであるので、
今日は1日中家にいてもなんとかなるなあ、と今回は猫よろしく
こたつで丸くなってようかな、と思ったら父親からTEL。

カゼをひいたんで治療してもらいたいらしい。
しょうがないので、父親の家まで外出。
雪と雨も、出る頃にはすっかり治まっていた。

せっかく街に出てきたんだし、このまま帰るのももったいないかな、
と思ったんで、映画を見ることに。
家帰って、お正月番組見ても、あんまり面白いのはやってないし。

見た映画が、TRICK劇場版。
去年の間から見ようと思っていた映画だった。
どうせ見るなら、にぎやかしいのがいいかなあって思ったもんで。

見たのは池袋でのレイトショー、1200円。
もう公開終了間近なためか、全然お客さんがいない。
20分前に劇場に入ったんだけど、お客さんは自分の他には
カップル一組。

おおっ、これは大スクリーン独り占め状態か?と思ったら、開始直前に
なって、ちょこちょことお客さんが入ってきた。
全部で10人弱。相変わらず、自分の前にはお客さんがいないので、
気分は大スクリーン独り占め。

ちょっとしたお年玉だったかもしれない。

さて、TRICK劇場版。
内容を書くとネタバレになってしまいそうなので、ここでは控えておこう。
でも、TVシリーズのTRICKが好きだった人は、文句なく楽しめる
内容の映画だった。

映画上のトリックや、内容について、整合性という意味ではいくらでも
突っ込みは入れられるんだろうけど、映画ならではのスケールの大きさも
感じさせつつ、主人公の2人、自称天才マジシャンの山田直子と、
自称天才科学者、上田次郎の活躍を、素直に見ているのが一番楽しい
と思う。

阿部寛演じる上田さんも、今回はただ単に濃いキャラクターなだけでなく
ちゃんと、謎解きをしていたし。
普段のTVシリーズでは、1話で一つ二つの謎解きも、映画版とあってか
ちょっと多めでうれしかったりする。

映画になったからって、やたらと力みかえった訳でなく、TVドラマの
テイストをちゃんとそのままスクリーン上でも再現しているので、
安心して見られる映画だと思う。
堤監督が、ちゃんとツボを心得ている感じ。

レンタルビデオで借りてまで、もう1回見たいとは思わないけど、
TVで放映されて時間が合えば、もう一回見ても面白いんじゃないかな。



2003年01月02日(木) 笑門来福

さて、お正月も2日となったので、ここらで2003年という年に
ついて、考えてみたい。
果して今年はどんな年になるんだろう?

勝手な思いこみで言えば、今年はこの’0年代?を占う上で重要な年と
言えるかもしれない。
何故なら、10年を一つの単位として考えたとき、前の時代の雰囲気を
抜けだし、新たな時代の雰囲気が造り出されるまでに、大体3年くらいの
時間を要するような気がするからだ。

例えば10年前の1993年と言う年。
まだバブルの余韻が残っていた92年に比べて、いよいよバブル崩壊の
影響が目に見えるようになった年だった。
大学生の就職状況は氷河期と呼ばれるようになり、モツ鍋が流行った年。
イケイケの代名詞だったジュリアナ東京が閉鎖したのもこの年だった
ような気もする。

そして自民党の単独政権が終わり、政界再編、政治不信が叫ばれた
年でもある。

その一方でJリーグが始まり、ドーハの悲劇があり、プロ野球人気の
かげりが囁かれる中、長島さんが巨人の監督になり、ゴジラ松井が巨人に
入団した年。

そんな風に考えると、90年代を語る上で93年ってターニングポイント
だったような気がするのだ。

そしてその10年前の83年。
この辺になってくると記憶は相当曖昧になってくるんだけど、
東京ディズニーランドが完成し、CDプレイヤーが発売された年。
すなわち、徐々に人の暮らしに余裕が出てきた時代かもしれない。

そんな風に考えると、今年1年をつぶさに見つめることで、
今後10年という時代が見えてくるのかもしれない。

その2003年、まだまだ明けたばっかりではあるけれど、あまり
芳しい年では、残念ながらない様な気もする。

個人的に特に関係はないけれど、サラリーマンの医療費負担が3割に
なったり、専業主婦の家族控除が減額されたり、タバコや発泡酒が
増税されたり。
国民一人一人の負担感は更に増しそうな感じである。

かといって景気が簡単に好転するようにも思えないし、総選挙が予想
されているけれど、現在の議席数が、激変するとも思えないし、
民主党は存在すら危うくなっているかもしれない。

また、アメリカとイギリスはどうやらイラクに攻撃を仕掛けそうだし
北朝鮮状勢も、緊迫したままだ。

他にも、オフィスの需要を供給が大幅に上回る不動産の2003年問題
など、年頭にあたって予想される2003年という年は残念ながら
あまりいい年ではないかもしれない。

でも、そんな大きな流れの中でも、小さな変化の兆しは、おそらく
いろんな所に現れてくるんじゃないかな、と思う。
そして、もしかするとその中から、この10年間を大きく変化させる
うねり、みたいなものも生まれてくるのかもしれない。

そういう意味で今年という年は要注目だと思う。


そして、話を大きな所から自分個人に移してみると、今年という年は
やはりターニングポイントというか、勝負の年になるような気もする。
おそらくは今年1年をどう過ごしてきたかで、その後の人生も変わって
いきそうな予感を感じるのだ。

そんな勝負の年の個人的な抱負は、笑門来福。
すなわち笑う門には福来たる。

こんな時代だからこそ、個人としてはせめて明るく、福を呼び込める
様な年にしたいと思う。



2003年01月01日(水) 年のはじめ

さてそんなわけで2003年である。
年を越すなんてイヤだあ〜、と駄々をこねても無情にも来てしまうのが
新年である。

あまり駄々をこねていても、時間に取り残されていくだけなので、
ここはむしろきっぱりと覚悟を決めるべきなんだろう。

とはいいつつも、ここで新年というはっきりとした区切りがあるわけ
ではなく、時間は連続しているので徐々にああ、年明けたんだなー
という感覚に慣れて行くわけであるが。

自分個人の話で言えば、ああ、新年迎えたんだなあ、と思わせてくれる
イベントが元旦には数々ある。

一つは明治神宮への初詣。
ただ単に歩いていけて、うちから最も近い神社が明治神宮である、
という理由だけなんだが、今年も310万人のうちの一人にカウント
されてしまった。

いつもだったら年明けのカウントダウン後、しばらくはだらだらして、
午前3時とか4時くらいの空いてそうな時間を見計らって、初詣をする
のが常なんであるが、今年は流石に寒そうだったんで、その時間の
来訪はパスして、昼過ぎに初詣を済ましてみた。

ちなみに明治神宮。
310万人も訪れるんだからディズニーランドの人気アトラクション
並に毎年さぞかし待たされてるんだろうと思えばさにあらず。

原宿側の、表参道から入ると、結構待たされるが、裏口?にあたる
小田急線参宮橋の方から入ると、意外とさくさくと進むことができる。
今回は若干混んでいたけど、それでも全然待たされなかった。

そして、明治神宮で初詣するときのささやかな楽しみ。
それは甘酒。
あんまり甘すぎず、身体があったまるんでうれしかったりする。
甘酒を飲みたいが為に毎年お参りしているといっても過言では
ないかもしれない。

そしてもう一つの、正月を感じさせるイベントの一つが、お雑煮。

やっぱり新年は、お雑煮を食べないことには明けた気がしないものだ。
なので最近は、あまり自炊はしないんだけど、毎年お雑煮だけは
つくってみたりする。

お雑煮自体は、焼いたおもちに出汁を張って、そこにかまぼことか、
伊達巻きを載せた、オーソドックスな関東風のお雑煮なんだけど。

お手製のお雑煮を食べ、そしてフジテレビの爆笑ヒットパレードを
見ながら、新年の昼過ぎはいつも過ぎていくわけである。

そんなわけで明けましておめでとうございます。


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