パラダイムチェンジ

2002年12月31日(火) 年の瀬

そんなわけで、今年もはや、暮れようとしている。

なんて書くと、まるで年末に書いた文章のようであるが、
この文章を書いている今は、すでに年は明けてしまっている。
その辺にこの日記のいい加減さがあるわけだが。

そんなわけで紅白の視聴率もこの日記を書いている時点では
知っているわけだ。

結果は47%(だっけ?)。中島みゆきを黒部のトンネルで
歌わせて、平井賢をNYまで引っ張り出した(らしい)り、色々と
てこ入れをした割には、史上2番目の低さだったようだ。

でもさ、普通に考えて、国民の約半数以上が、年末の大晦日に
その年にヒット曲を出したかどうかわからない歌手も含めて、
その時間に歌番組を見るはずだ、と思う方が変なんじゃないかなあ。

かつて、紅白歌合戦がもっと高い視聴率を稼いでいた時代は、
その年のヒット曲、なんてものが生まれていて、老若男女、
家族そろって、口ずさめたような気もする。

紅白を見ることが一家団欒や、年が明けた後、友達との話題の
中心に位置していたからこそ、あれだけの視聴率が稼げて
いたんだろうと思う。
例えるならドリフとか、今年のワールドカップの日本戦とかね。

すなわち紅白歌合戦という番組が、それを見ていないと話題に
取り残されてしまうという存在、コミュニケーションの中心に
あったからこそ、その存在感があったわけで。

ひるがえって現代、少なくとも紅白が話題の中心になることはないし
下手をすれば、一家の一人に一台、テレビが存在する時代である。
それぞれが好きな番組や、TVゲームをしていたっていいじゃないか
と思うわけだが。

とはいうものの、紅白を見なければ年が越せないと思う固定ファンも
いるわけで、それが大体40%位いるんだろうと思う。
おそらくは、その%はだんだんと減っていくんだろうと思うけど、
どうせだったら、その固定ファン向けの番組づくりをしていった方が
いいような気もする。
まあ、余計なお世話だが。

そんな自分が年の瀬、何をしていたかと言えば、猪木祭りを流し
ながら、大掃除をしていた。
一人暮らしと言うこともあり、大体だらだらと大掃除を
し続けるのが毎年の常である。
色気がないことこの上ない。

猪木祭りに関しては、去年にも増していい試合が多かったような
気がする。
マッチメイクとしてはもう少し、色気のある組み合わせを見てみたいのは
山々だけど、年末って事もあるし、むしろ何が飛び出すかわからない
福袋的な要素の楽しさが、このイベントにはあるような気がする。

まさかボブサップが高山相手に打撃勝負ではなく、関節技を
決めるとも思わなかったけれど。

そんなことをしている内に、いつの間にか除夜の鐘がなり、
年も明けてしまうわけだが。
そんなわけで今年もだらだらと大掃除を続けていたら、いつの間にか
猪木がカウントダウンを始めていた。

ええ、もうそんな時間?と思ったら、時間に関係なくイベントの〆に
猪木さんが勝手に時間を早めていたんだった。
その強引さで、自分も今年はちょっと早く新年を迎えてしまった
ようだ。

さようなら、2002年。



2002年12月23日(月) 言葉はどこまで伝わるか

さて、今回は表現すると言うことの3回目。
自分の思いは言葉に載せて、果してどこまで伝わるんだろうか、
という問題。

個人的な感想で言えば、5割届けばいい方なんじゃないかな、と
思っている。
もちろん、プロのコピーライターの人達だったら、もっとその伝導率
は高くなくちゃいけないんだろうけど。

このインターネット時代。某2ちゃんなどの例を出すまでもなく、
自分の意見の押し売りのようなコミュニケーションが多くなっている。

いや、違うな。もともとそんなコミュニケーションが世の中をまかり
通っていたんだと思う。2ちゃんや各種掲示板などで、様々な人達の
意見を目にすることが多くなったから、余計目についているだけかも
しれない。

例えば、友達との会話。話の盛り上がっている仲間の所にいきなり
入り込んでも、訳が分からず疎外感を感じたりするのは昔も今も
同じかもしれない。

2ちゃんを例に取れば、様々な特殊な言い回しや、あえて相手の
言葉の意味の揚げ足をとる、という共通のルールが生まれることで、
一種の連帯感というか、コミュニケーションの成り立つ土俵を
形づくっているのかもいれない。

だから、初めてその世界に踏みこんだ人には、訳が分からない
世界に見えてしまうものかも。
そして、その場の空気が読めない人は排斥されてしまったりする。
以上は個人的な当て推量でしかないのだが。

でもそんな時代だからこそ、もしも自分が伝えたい事がある場合
自分の表現を磨いていく必要があるんじゃないかな、という気が
するのだ。

逆に言えば自分の思いを、言葉に出して理解してもらいたい、
という願望をかなえるためには、それが人から見て鑑賞にたえうる
表現になっていればなっているほど、自分の伝えたい内容が
伝わる可能性は高いわけで。

その中で、プロでない自分としては、少なくとも自分の書いている
内容の50%でも、これを読んでいる人に伝わればいいな、と思い
文章を刻んでいるわけだ。
もちろん、その割合が増えるに越したことはないわけだが。

さて、ではなんでそんな事を、ウェブサイトで自分の恥をさらすよう
な真似をしてまで続けようとしているのか。

それは自分の大切な人、例えば将来の自分の子供とか、周りの人達に
自分の伝えたいことを、なるべくダイレクトな形で、伝えられるような
人間でいたいと思うから。

そして何より、自分の伝えたいと思う気持ちを、表現という形に
置きかえる過程で、自分が本当に伝えたいものがなんなのか、
見つめ直す事ができるからである。

伝わる事だけが重要なのではない。伝えようとする意志こそが実は
もっと大切なのかもしれない。



2002年12月22日(日) 表現するということ

今回は、まとまらない言葉の続き。
さて、個人的に言葉で表現するということは、言葉で画を書く
ということなんじゃないかな、と思っている。

すなわち、自分の頭の中にある、一枚の画を言葉で描写していく
のが、表現ということなんじゃないかと。

頭に浮かぶ画を、写実的に、まるで写真のように描写する人も
いれば、抽象画のように描写する人もいる。
浮世絵のように、平面的な画にする人もいれば、立体的に、
そして遠近法や空気の透過法?みたいなのものを使う人もいる。
そして、カラーだけでなく水墨画のような人もいるかもしれない。

画を書く方法は様々であり、それがその人の表現方法というか、
個性というものなのかもしれない。

そしてそこに描かれた画がどれだけ人に伝わるか、心を動かすか
というのが、表現力なんじゃないかな、という気がするのだ。

だから頭の中に豊かなイメージを描ける人は、どんな表現方法を
用いるにせよ、表現力も豊かであるという言い方ができるかも
しれない。
頭に浮かんだイメージを忠実に描写していけばいいのだから。

そして、個人的な印象で言えば、思いが言葉の表現を上回って
しまうというのは、次のように例えられるんじゃないかと思う。

例えば、一人の人の肖像画を言葉で描いてみるとする。
画として完成させるのであれば、例えば正面から見えたこと
だけを描いていけばいいのだけれど、
どうしても、側面から見た画をも表現してしまいたくなって
しまうようなものかもしれない。

そう、更に例えれば、まるでピカソの描く絵画のように、
一つのキャンバスの中に、二つの視点が入り込んでしまうのだ。

一枚の画としての、完成度というか表現方法としては、
正面からの画だけに固定した方がいいのかもしれない。

何も、頭に浮かんだこと全てを言葉のキャンバスに書き写す
必要はないし、何を省略するのかということも、実は表現する
上では重要な事なんだと思う。

自分の想起するイメージをそのままキャンパスに書き写して
しまうと、本当に伝えたかったものは何なのか、焦点が
ぼやけてしまうことはよくあるのだし。

だが、その上で、言葉という二次元?のキャンパスに、立体的な
画を書いてみたいという誘惑もやはり捨てがたかったりするのだ。

もちろん、ピカソほどの勇気と才能があれば、それも可能になる
のかもしれない。
ただし、それが必ずしも万人に受けるとは限らない。

でも、言葉による表現では、それが本当に伝わるかどうかは
別として、もっと高次元の世界を描写できる可能性だって
あるような気もする。

まあ、それはもしかすると電波系か、宗教家の表現方法といえる
かもしれないが。

そんなわけで今後この日記ではもしかすると、そんなピカソの
なりそこないの、習作のような言葉もでてくるかもしれない。
と、表現するということについて、今思うことを書いてみた。



2002年12月20日(金) まとまらない言葉

さて、実際問題として、しばらく日記を休んでしまった。
自分が三日坊主なのは、今に始まった話ではないのだけれど、
これには、一応理由がある。

それは、自分の持つ文体が自分を縛ってしまうのだ。
別の言い方で、偉そうな言い方をしてしまえば、自分の表現の
カベにぶち当たってしまうのである。

この日記では、いや自分が関わる表現に関しては、できるだけ
自分の思いに忠実に書いていきたいと思っているのだけれど、
自分の思いを言葉にのせてみると、なかなかうまくまとまら
なかったりする。

自分の思いの丈が表現の能力を超えてしまうのだ。

もちろん、適当な形でまとめることはできるけれど、きれいに
まとめようと思えば、思うほど、そこにあった本当に伝えたかった
気持ちはこぼれ落ちてしまう。

もしもきれいにまとめることだけを目的とした表現をしていると
それはいつしか、TVのワイドショーのコメンテーターのように
自分が外さないことを目的としただけの、中身のない言葉にしか
ならなくなってしまうと思う。

つまりは、自分の表現が、やせ細っていってしまうような気が
するのだ。
そして、政治家をはじめとして、今の時代は空虚な言葉の
オンパレードになっているような気がする。

ほぼ日刊イトイ新聞の中で、自分がよく読むページにこんな話

が載っていた。

今の高校生に小論文を書かせると、紋切り型のコメントの
オンパレードになってしまう子が非常に多いらしい。
それこそまるで、ワイドショーのコメントのようであるらしい。
怖いのはカンニングしたわけでもないのに、全く同じ内容を
書いてくる高校生が全国で非常に多いということだ。

これは、それほどまでに私たちがワイドショー的な意見に毒されて
いるという事よりも、今まで自分で考えるという事を教えて
こなかった教育にこそ問題があるのではないかと、作者のズーニー
さんは指摘している。

何が本当に問題であるのかは別としても、空虚な表現しか通用
しない世の中なんて、つまらないと思う。

百人いれば百通りの意見が出てくる時代の方が、面白いし
時代も盛り上がっていくような気がする。


ここで唐突に個人的な事情にもどってしまうが、
自分が伝えられなかった気持ちをそのままにしておくのは
なんかやるせなかったりするのだ。

それが、今まで日記が留まってしまった理由で、そして
それこそが今ここに文章を重ねている理由でもある。

なので、個人的な路線変更をしてみようと思っている。
すなわち、例え言葉にまとまりがなかったとしても、
それをそのまま書いてしまえ、って事である。

ただし、これは個人的には、とても怖いことでもある。
自分の生の意見を、表現法という手練手管を、場合によっては
使わずに人の目にさらすという事でもあるわけだから。

その事によって自分が傷付く場合はもちろんあるわけだ。
特にこのインターネットという世界では。
でも、その怖さも充分に考えた上で、それでも、あえて意見が
まとまらなくても、言葉をつづってみようと思う。

おそらくは、そうやってしか、更なる表現をしたいという自分の
願望を埋め合わせることはできないと思うので。



2002年12月16日(月) サップとダバディ

最近、TVを見てて気になる人物が二人いる。
一人はボブ・サップ。そしてもう一人はフローラン・ダバディ。

ボブサップに関しては、もはや説明しなくてもいいだろう。
今年はじめ、PRIDEやK-1で注目されてきたなあ、なんて思ったら、
その後プロレス界にも参入。日本のマット界の中心になってしまった。

と、思ったらその特異なキャラクターが受けて、今度はバラエティ
などのTV出演も目白押し。この年末・年始にはなんと200本以上の
オファーが彼に押し寄せたのだとか。
来年はCM出演も果たすらしい。

彼がバラエティ受けするのは、ビーストというキャラクターが
把握しやすく、しかも製作者側の演出意図をちゃんと理解して
くれるからだろうと思っていた。

でも何本か、彼の出演した番組を見るたびに、そんな簡単に
割り切れない魅力があることに気がついたのだ。
つまり、魅力の奥が深いのである。

彼の魅力の秘密。それはなんといっても外見とのギャップの差
だろう。
彼の外見上から受ける印象は、「大男、総身に知恵がまわりかね」
という粗野で少し頭が回らなさそうな印象だと、思う。
例えるなら、マイクタイソンとかね。

でも、実際の彼は、非常にクレイバーで礼儀正しく、そして優しい
らしい。
今現在、ボブサップは多忙なスケジュールを一人でこなし、しかも
なんと電車で!移動しているらしいが、その移動中小さな女の子に
優しく接していたり、するらしい。

彼の真面目なインタビューなんてのを聞いていても、話の一つ一つが
聞いていて面白かったりする。
面白かったのは、格闘技とバラエティー出演のどっちが好きか?という
質問に答えた時だった。

曰く。バラエティの方が痛くないから好き♪なんだそうだ。
その外見にも関わらず、今まで喧嘩一つしたことなかったらしいし。

この前の「ウッチャンナンチャンの気分は上々」では、花やしきの
乗り物に乗らされて、ビビって涙目になってしまうサップ。
なんか、カワイイ。自分が女の子だったらマジで惚れているかも
しれない。

その他、日本のお笑い芸人が司会の、バラエティ番組を見ていても
もうボブサップを中心に回ってしまっている。すなわち食われる
事をもっとも嫌う芸人さんたちを食ってしまっている。

マット界に限らず、共演する人たちはしばらくは大変だろうなあ。
そんなわけで、当分ボブサップからは目が離せそうもなかったりする。


そしてもう一人、個人的になんか気になってしまうのは、
フローラン・ダバディ。あのトルシエ監督の通訳だった人である。

元々通訳時代から、その長身で長髪の外見や、どう考えてもトルシエ
以上に興奮して通訳している、その態度から興味本位で取り上げ
られる事もあった人物だが、この人も実際に話を聞いてみると
とても面白い。

元々、自分のアイデンティティって言うものをちゃんと持った上で
発言しているから、やっぱり話が面白い。
よくいる、ワイドショーのコメンテイターみたく、自分の意見だか
受け売りだか、よくわかんないようなコメントはしない。

そのコメントの中に自分という個性が、ちゃんと入っているのだ。
ちゃんと話を聞いたのは、NHKのトーク番組、「スタジオパーク」
だったんだけど、思わずその場で、メモを取ってしまった。

曰く、「差別は無知からやってくる」
「日本の若者は、純白で、包容力にあふれるから優れた国際人に
なれる可能性があるけれど、いかんせん知識が足りない」
「文化を、アイデンティティを大切にしましょう」
などなど、個人的には興味のひかれるコメントが多かった。

個人的に最も興味をひくのはフランス人なのに、謙虚で決して
傲慢ではないという点。

そして日本人の若者以上に、日本をリスペクトしている事。
小津監督や溝口監督、そして日本の近代文学について、ちゃんと
語れる若者が、日本にどれだけいるんだろう。

やはり魅力の奥が、深いと思う。
そりゃ白石美帆も、メロメロになるはずである。

ただし、日本のTV番組では、いまいちその魅力の全てを伝えている
とは言いがたいのがちょっともったいない。
自分を持っている分、TVという文法では、ちょっと扱いにくいのかも
しれない。

でもその一方でこうも思う。今TVに出てくる芸能人、文化人に限らず、
彼らほど、様々な引き出しをもっていて魅力的な人物って、どれ位
いるのだろう。

普段、私たちはどうしても人を外見的な、一方的な印象だけで
決め付けてしまうことが多いのかもしれない。

もちろん人は自分の思い込みからは、なかなか逃れられないんだけど、
今のTVに限らず、世の中がなんかつまらないと思うのは、そうした
単純なものの見方が主流となってしまい、更なる魅力を見つける
という観点が、欠けているからじゃないかとも思うのだ。

ノーベル賞受賞で、図らずも田中さんの朴訥な魅力が新鮮に映って
しまったように。

でもって、彼らは実は二人とも30前後、つまりは同世代だったり
するんだよね。
なんとなく複雑な気分である。



2002年12月15日(日) リーダーシップ

さて、今回も政治つながり。小泉首相に果たしてリーダーシップは
期待できるのか?という話。

結論から言ってしまえば、残念ながら小泉首相のリーダーシップは
もはや期待はできないと思う。いかに彼が決断力に富む政治家で
あったとしても。

なぜか?
答えは簡単。誰も彼の言うことを聞かなくなってしまったから。
特に国を動かす与党と官僚の方たちが。

この話を対比する上で興味深いのは、日産を見事4年で回復させた
カルロスゴーン社長のことである。
一体、ゴーン社長と小泉首相の何が決定的に違っていたのか?
自分が考える理由は、組織にいる人たちの危機意識、だろう。

99年の頃、日産はまさに倒産の危機に瀕していた。あのまま
だったらかつての日本第2位の自動車メーカーは、いまや跡形も
なかったはずだ。

その危機意識の強かった、当時の塙社長が行った決断。
それはルノーと提携し、ゴーン氏を経営者として迎えること。
そして自らを含めた旧経営陣が、一切手を引くことである。

何故なら、新たな経営者の知恵を迎えても、船頭が多ければ船は
やはり山に登ってしまうから。

リバイバルという名のリストラと、更なる下請け会社からの材料代を
切り詰めさせるという、痛みを与えつつも、その一方で成果があがった
事に関しては、飴を与えてきた、ゴーン氏の手腕もすごいとは思う。

しかしながら、日産がV字回復を遂げた理由。それはゴーン氏の経営の
才能もさることながら、彼の経営戦略に従ってきた日産の組織の力も
大きかったと思う。

すなわち、どんなにそれが正しいことでも、人間自分が痛むことに
対してはどこかおよび腰になってしまうのが普通であると思うから。
しかしそのおかげで、信じるものは救われたわけである。

ひるがえって日本政府を考えてみる。
いくら小泉首相が痛みを伴う改革を断行しようとしても、抵抗勢力と
いう名の有力議員や、官僚さんたちが、頑張ってしまう限り、彼の
成し遂げようとする、改革は遅々として進まない。

もしくは改革が進んでも、彼らの利権構造は決して変わらず、守られ
てしまう。日本もそろそろ相当な危機意識を持たなければならない
時期になっているのに。

つまりはどれだけ決断力のあるリーダーが頂点に座ろうとも、その
リーダーシップをちゃんと受け止め、実行する組織がなければ、
この国のシステムは変わらないって事である。

それは、何も日本政府に限った話ではない。いわゆるメガバンクと
言われる銀行の経営陣に関しても同じだろう。ただ単に合併して、
経営陣が倍に増えただけでは、船頭の数が多すぎて、やはり何も
変わらない。

竹中ショックといわれる、銀行の国有化。すなわち自分たちの首が
危うくなって初めて危機意識を持ってしまう愚かしさ。
まあ、人間なんてもともとそんなものなのかもしれないが。

ここであえて話を横に飛ばすと、メガバンクが国有化され、そして
その後外資に安い値段で買い叩かれることは果たして悪いこと
なんだろうか?

日本国民の持つ資産を、日本の企業が管理するかどうかって問題なん
じゃないのかな?もちろん、日本の国の銀行が、外資だけになって
しまったら、それは異常事態だけど、たとえばイギリスにしたって
米資本に参入されて、それで全てが無くなってしまった訳ではない
だろうし。

国民にとって、それが健全性のある金融システムの確立になるなら
それもひとつの選択肢だと思う。あくまで一つの選択肢だけど。
この辺に関しては、いろんな識者の意見を聞いてみたいところだ。

それよりも問題なのは、船頭が多すぎて誰もちゃんと責任をとろうと
しないシステムが、国の中央でどっかり腰を下ろしている事だろう。

戦後50年以上に渡って、政権交代が起こらなかったこのツケの代償。
本当に何とかしてほしいと思う限りである。

どっかで国民全員が、ええじゃないかでも踊り出さないかなあ。
ダメダメボーイズでも、別にいいけど。



2002年12月13日(金) 政治と北朝鮮

さて、前回の続きで政治について考えてみる。
最近めっきり交渉が滞ってしまった、北朝鮮問題である。

北朝鮮、最近またやたらとニュースをにぎわせている。
この2ヶ月間で、ついに判明!北朝鮮の実態!なんてTV番組で
どれだけの時間流したんだろう。

でもその大半は、今までにも目にする機会の多かったものだった。
中国との国境で、貧困にあえぐ北朝鮮の小さい子供、とかね。

要は、10月の拉致被害者帰国という、インパクトのある
きっかけがなければ、今までは単なるベタ記事扱いだったものを
在庫一掃セールとばかり、一気に棚卸しているのが、マスコミの
現状だろう。

さて、そんな加熱した日本の北朝鮮報道が影響しているのかどうかは
定かではないが、日本と北朝鮮の国交を正常化しようという、枠組が
ぐらついてきてしまっている。

ここではあくまで北朝鮮政府、つまり金正日政権についてのみ語る
けど、彼らの政権が、いまいち国際的な感覚と信用に足りない国だ
というのは、最近の報道を見ていても明らかだろう。

不審船でミサイルを輸出していたり、今度はミサイルの実験や
核開発の再開をすると一方的に宣言したりとか。
ぱっと見た目、きかん坊が暴れているような印象の報道ぶりだ。

でも、問題を世間の一般論から政治の世界に移して考えるとき、
だから北朝鮮は信用がならない、と立場を硬直化してしまって
果たしていいんだろうか?

もともと、北朝鮮との国交を正常化、すなわち回復しようとしていた
のは、そういう国に対して、少なくともお互いにルールを守る関係に
なりましょうよ、と歩み寄ることが目的だったんじゃないのかな。

言っている意味がいまいち伝わっていないかもしれないから、あえて
具体例として出してみるけど、たとえば拉致被害者の家族の問題。

とりあえず拉致被害者は、北朝鮮には帰さない、そしてその家族も
日本に帰さなければ、国交の正常化は認めない。なぜなら彼らは信用
するに足りないから、って言うのはひとつの論拠としては理解できる。

でも、本当の意味であの拉致被害者やその家族の幸せを考える
んであれば、日本と北朝鮮の国交が正常化して、あの家族が日本と
北朝鮮を自由に行き来できる環境を整えてあげることが先決のような
気もするのだ。

これが理想論だというのは認めるけど、でもそういう理想を実現する
ために政治って言うのは、存在するんじゃないのかい?

今回の平嬢宣言、これは素人の勝手な推測だけど、恐らくは北朝鮮と
日本の外務省の間で、とりあえず拉致被害者を日本に帰国させる、と
言うところで合意がとれていたんだろう。

もしも、北朝鮮と日本の外務省の筋書き通りに物事が進んでいれば、
北朝鮮は拉致と不審船を認め、その代わりに日本からの各種援助を
受け取る。北朝鮮は名を売り、実をとるつもりだったと思われる。
そしておそらく、拉致問題はこれでお開きになっていたはずだ。

その一方で、アメリカに対して、核実験をしているということを
明らかにして、アメリカからも更なる援助を取ろうとする。

つまり日本の平嬢宣言で合意された核やミサイルの問題なんて、
実は日本はかやの外。北朝鮮の筋書き通りに物事が進めば、
日本はまた、外交上で大きな恥をかかされていたに違いない。

だからその意味で言えば、今の状況って言うのはそんなに悪いもの
ではないと思う。少なくとも日本にとっては。

でもその上で、あえて政治に苦言を呈せば、ひとつの選択肢が駄目に
なったのなら、その上で新たな合意を得るための、枠組を作るだけ
の柔軟性が何故、ないんだろう?

論理が勝手に飛躍するけど、そんなんじゃデートしたって女の子一人
満足に口説き落とすことすらできませんぜ。
相手が今度は面子という名を求めているのなら、相手に名をあげて
その分ちゃんと実を取る方法を考えればいいのに。

もしくは、相手に甘い飴をあたえる代わりに、国際的な2国間の
ルールをちゃんと守らせるという、厳しい条件を相手に呑ませる
可能性だって今の日本にはあるのに。

今のままでは北朝鮮政府は、ますます窮鼠となっていくだけだろう。
まるで親や先生から理解されてないと、暴れることでしか自己表現
できない若者のように。

物分りがよくなる必要はないけれど、その一方で厳しさも伝えられる
ような、柔軟性のある大人が、日本政府内にいればいいのに。
いないんだろうなあ。



2002年12月10日(火) 政治について

政治について素人的にちょっと考えてみる。
考えるきっかけは、今日の民主党主選挙と、高速道路民営化検討
委員会の最終報告の扱いについてである。

さて、最終報告。もうすでに自民党内と、国土交通省では廃案が
決まってしまったようだ。
おいおい、内容についてどこがいいとか悪いとかの検討も無しかよ。

最終報告案、ちゃんと読んだ訳ではないのでいいかげんなもんだが
いわゆる道路族、抵抗勢力がこだわっているのは、道路料金で、
この先も高速道路が建設できるかどうか、の1点だろう。

7人の侍と呼ばれた委員会の中でももめたのもその一点であるわけで
確かに重要な点だとは思うが、その一点、気に食わないってだけで
報告案一切を否定するのはいかがなもんだろうか。

民営化案、要約すれば、道路を作ることだけでなく、運営すること
にも、やたらと無駄な事が多いので、とりあえず現金収入でまずは
借金返すところから、考えましょう、って話なんだと思う。

ただし、国土交通省にしてみればその辺はきっちり締められて
しまうのは、痛い所をつかれて天下り先が減ってしまい、国の
お金でおいしい思いができなくなってしまうから、表立っては
賛成はせず、道路族の方々にエールを送っているわけで。

高速道路建設にしたって、未来永劫作らないわけではなく、
もしも道路公団が民営化されて、黒字体質に戻れば、
また高速道路建設だって、できる可能性はあるんじゃないだろうか。

まあ、もちろん、そんな時代が来る頃にまで、今の道路族のおじさま
方が議員をやっているかどうかは、定かではないけれど。

言いたいのは、一つの報告案に対して、本来なら細かい所を是々非々
で議論し、よりよいモノをつくっていくことが本来の政治ってもん
じゃないんだろうか。

国の将来を決める責任をもった人びとが、自分の気に入らない意見が
あったからって、その意見を全部否定するようなアバウトな事を
やっていたら、本当にこの国の将来について不安になるんだけど。

ひるがえって民主党。どうやら菅氏が新代表に落ち着いたらしい。
でもさ、いくら前の宇宙人系党代表の手法が気に食わないからって
自民党自体が不穏な雰囲気出している時に、もっと大々的にお家
騒動起こしてどうするよ。

自民党抵抗勢力が、民営化案を葬り去ろうとしているんだったら、
逆に民主党はじめ野党勢力が、その法案に積極的に賛成します、
とかやれば、少なくともイメージはアップするのに。

大同小異というセンスがあれば、次の総選挙では議席を伸ばしたと
思うけど、今のままでは誰が代表でも、ジリ貧だろう。

でも、こんな政治状況で、一番損しているのは国民なんですけど。
いかりや長介に、決め台詞でも決めてもらいたい気分である。



2002年12月09日(月) ゆきやこんこん

ということで東京でこの冬初めての積雪。
東京で12月に雪が降るのは15年ぶり。宇都宮では80年ぶり?
横浜だか八王子で観測史上初めての積雪量だったらしい。
記録づくめである。

思えば今年は、桜が咲く頃からして2週間早く、その後梅雨が
明けるのも、台風が来るのも、そして紅葉が降りてくるのも
例年より2週間くらい早めだった。

だから、今ごろ雪が降るって言うのも今年らしいと言える
のかもしれない。
果たしてこの、季節の時差ぼけは来年以降も続くんだろうか。

などと思いつつ、朝、ニュースを見ていたら、富良野での
吉岡秀隆、内田有紀の結婚式の芸能ニュースをやっていた。
富良野はもちろん雪なわけで、思えばこの雪も、彼らが
くれたプレゼントかもしれず。

今回の式のプロデュースは、倉本聰。劇中では描かれ
なかった純君と結ちゃんの結婚式を、役としてではなく
現実の本人たちが行なうことで、一つの締めくくりと
したかったのかもしれない。

などと思っていたら、今度は黒板一家の住んでいた
麗郷地区に、純君と結ちゃんの新居を作る予定なのだとか。
もちろん、現実の二人の新居ではないにしても、
そうやって、富良野では彼らが暮らしているという痕跡を
残していくのかもしれない。
そうやって物語が続いていくのも、いいなあと思う。

さて、実際の東京の雪に話を戻すと、せっかく東京に
雪が降ったのに、そのままにしておくのはなんか
もったいないので、仕事に出る前に重装備して、
明治神宮へ。

せっかくだから写真でも撮っておこうと思ったのだ。
この時期の雪景色の明治神宮は、まだ紅葉も残って
おり、そんな木々が雪化粧をまとっている姿は
とても幻想的で綺麗だった。

さすがに木々もちょっと寒そうだったけど。
写真はそのうち、ホームページを更新した時にでも
UPしてみたいと思っている。

それにしても雪が降ったくらいで庭駆け回っている
俺って、犬並みって事だろうか。



2002年12月07日(土) K-1 GRANDPRIX

フジテレビがもてはやした選手は勝てないというジンクス。
今回も残念ながら当てはまってしまったようだ。

今回の犠牲?になったのはボブサップ。
初戦でアーネストホーストを破りつつも、手の骨折のため
棄権となってしまった。
そして、今回の優勝はそのホーストだった。

でも、今回のK−1は今までにも増して見ごたえのある試合の
オンパレードだった。
ボブサップ旋風が事前に吹き荒れていたためか、その他の選手が
調整に専念できたようで、とても高いモチベーションの試合が
多かったように思う。

例えば、サップ−ホースト戦。ガードが甘かろうが大振りの拳が
当たらなかろうが、前に詰めていくボブサップと、そんなサップの
肝臓を冷静に打ち続けてダウンを奪うミスターパーフェクト。

ここで試合は決まったと思った所で、起死回生の一発でそのホースト
からダウンを奪うビースト、ボブサップ。
最後はもう、戦略などないただの打ち合いで、どちらが勝つのか
先の読めない試合だった。

ボブサップは、その野獣性と、実は高い身体能力、そして実は
とてもクレイバーな頭脳と相まって、今回優勝してもおかしくない
存在だったが、やはりちょっと疲れ気味だったのかもしれない。
それでも、最後まで向かっていって、再度ホーストをマットに
沈めたのはさすがだった。

彼が今後、もっとテクニックを身につけたら手に負えない存在に
なるかもしれない。

それにしても、今回のフジTVの放送で好感を持ったのは、
今までより、余分な演出がなされなかったことだ。
今までは、例えば唯一の日本代表、武蔵や、無冠のファイター
ジェロムレバンナに余計なプレッシャーを与えるような演出が
多かったように思う。
その分、彼らも試合に集中できたんじゃないだろうか。

本当の主役は、彼らK−1ファイターのガチンコの闘いである、
ということをちゃんと主眼においた番組構成が今後も続くと
いいなあ。

彼らはそれだけ説得力のある闘いをしていたと思う。
それにしても、なんでミルコ・クロコップは出てないんだろう?



2002年12月06日(金) ピーターパン

今週はディズニーづいているのかもしれない。
TBSで、ピーターパンの映画の放送をする予定なのを新聞で
知り、録画して見てみる。
おそらくは、今月末劇場公開されるピーターパンの続編の為の
プロモーションだろう。

さて、映画ピーターパン。見るのは本当に久しぶりだったりする。
ストーリーとか、キャラクターの画とかを、うっすらと覚えている
程度なので、おそらくは小さい頃に見たんだと思う。

放送は、二カ国語放送だったので、どうせだったら英語で見たれ、
と思い、英語版で挑戦。一応、ストーリーは知っているわけだし。
若干、聞き取りにくかったりはするんだけど、子供向けの作品
だから、英語もそんなに難しくはなかったし。

と言うことで、物心ついてからは初めてちゃんとピーターパンを
見たんだけど、ストーリー自体がおぼろげだったので、なんか
デジャブを見ているような不思議な気分だった。

あ〜そうそう、ピーターパンの影はウェンディに縫ってもらった
んだよなあ、とか。
すっかり子供心を忘れてしまっていたのかもしれない。

でも、この作品、少しも古くさくないのである。
50年近くも前の作品だというのに。

そして、何より素晴らしかったのは、飛行している時の動画の
すばらしさ。
ピーターパンの飛び方の中に、ちゃんと重力が存在していて
説得力があるのだ。

確か映画ピーターパンは、ウォルトディズニーがその動きを
リアルにするために、実際に子役に劇中と同じ動作をしてもらった
フィルムをつくりそれに合わせて作画した、という話は聞いたこと
がある。つまりは現代のTVゲームに多用されている、モーション
キャプチャーの草分けみたいな事をやった訳だ。

でも、それだけであの浮遊感の説明はつかないような気がする。
おそらく、現代のモーションキャプチャーで忠実に役者の動きを
再現しても、あの軽さは生まれないような気がするのだ。

つまり、そこには50年前、ピーターパンを軽やかに飛行させよう
とした、当時のアニメーター達のセンスと苦心の結果なんじゃない
だろうか。
現代で言えば、宮崎駿監督作品の飛行シーンが有名だが、彼の作品の
飛行シーンが他の誰にも真似できないのと同じように。

一般にテクノロジーが進めば、出来ないことはなくなると
思われているような気がする。

例えば、映画の世界でも5年前くらいに革新的と言われたCG多用
の作品を、今見ても、大してすごいとは思わないかもしれない。
むしろ、過去の感動を上回ることができずにがっかりすることって
よくあったりする。

でも、ピーターパンや宮崎監督の飛行シーンを、テクノロジーだけで
忠実に再現したとしても、そこにはどこか違和感が残ってしまう
ような気がするのだ。

つまり、そこには職人的というか、その人にしか出せない技術や、
工夫があってこそ成り立つものもあるんじゃないかと。
これは何もアニメの世界に限ったことではなく。

自分を含めて、現代の人々はテクノロジーが進歩することで、便利さ
、快適さを受け取ることが出来てきたと思う。
でも、その標準的な便利さを受け取る一方で、実は特化した技術の
すばらしさと言ったものが失われていっているような気もするのだ。

宮崎監督が引退したら、彼の飛行シーンを受け継ぐ人が果して
出てくるのか、わからないように。

そして、少なくとも20世紀後半の日本は、その特化していった技術
力によって繁栄してきたような気もする。

と、話が大きくなってしまったが、ピーターパンはそんな感じで
古くよきディスニー映画はやっぱり質が高かったって事を再認識
させてくれたわけである。

ただし、これを見た後で、今度公開されるピーターパンの続編は
どうなんだろうという、杞憂かもしれない心配事を増やしてしまった
ような気もする。
うーん、見たいような見たくないような、複雑な気分である



2002年12月04日(水) ライオンキング

ということで33歳の誕生日記念?自分へのプレゼントって事で
劇団四季のライオンキングを鑑賞。

昔「めちゃイケ」で、岡村隆史が出演していらい、一回は見てみたい
舞台だったのだ。自分の周りで見た人も絶賛していたし。

そんなわけで浜松町の四季劇場へと足を運ぶ。竹芝桟橋にほど近くに
あるこの劇場。
というか浜松町と竹芝桟橋ってこんなに近かったっけ。

舞台は思ったほど広くはないけれど、その分思ったよりも客席と
舞台も離れていない。そして通路側の座席に座る。

オープニング。
いきなり舞台に各種動物たちが現われるんだけど、自分のすぐ横を
巨大な象さんやらヌーやらが通り過ぎてビックリする。

ここで白状すると、実は映画のライオンキングってちゃんとは
見ていない。ストーリーとかは大体知っているんだけど。
その上で観想を書くと、舞台上の役者さんたちがまんま、まるで
アニメのキャラクターなのだ。

これはどういうことかというと、普段自分が見ている舞台だと、
あくまで、どんなに役に入っていても、どこかその役者さんの
持ち味というか、個性が表れるのが舞台だと思っていたのだが、
このライオンキングは違う印象を受けた。

つまり、この舞台では見事に役者さんの個性が消えて、本当に
そのアニメのキャラクターになりきっている印象を受けた。
もちろん、そこには実在の人間がいて、アクトしているんだけど
受ける印象はアニメ、なのである。

それは声に関してもそう。マイクを通した声のせいもあるかも
しれないが、まるでアニメの吹き替えの声を聞いているような
感じ。すなわちそのキャラクターにばっちり当てはまってしまって
いる。
現実の舞台なのに、現実じゃないような不思議な光景だった。

そしてもう一つ感じたことは、劇団四季の層の厚さというか
プロ意識の高さだろう。
この舞台では二人の子役が登場するんだけど、そのダンスといい
歌といい、子役というよりはもうすでに立派なプロの役者さん
なんである。

普段はランドセルを背負っているだろうに、舞台ではそんじょ
そこらの大人の役者に負けないだけの存在感がある。
それは、なんというかとても不思議な風景だった。

もちろん、そこに行くまでには相当の練習を積んできた事は
想像に難くない。
逆にいえば、舞台としてそこまでレベルを維持し続けている
劇団四季と、そこに所属している俳優さんたちって凄いな、
と思う。

普段知らず知らずの内にTVドラマにならされてしまった
せいかもしれない。
個人的に今回はとてもいい経験だった。



2002年12月03日(火) トヨタカップ

今日は日本で、サッカークラブ世界一が決まる日。
すなわちトヨタカップの開催日。

今年はスペインのRマドリードとパラグアイのオリンピアの戦い。
Rマドリードは、今年前半まで行なわれていた、UEFAチャン
ピオンズリーグの勝者で、ジダン、フィーゴを始めとして、最近
では、ロナウドの移籍まで実現した、サッカー界のスター軍団。

クラブチームとしては、世界で最も選手の報酬が高いチームだろう。
おそらくはほとんどの人が指摘するだろうが、サッカー界の読売巨人
といったほうがいいのかもしれない。

ただし、Rマドリードのオーナーがあそこまで傲慢な性格をして
いるとも思えないけれど。

そんな超豪華絢爛なスター軍団が今年はなかなか勝てずに苦しんで
いる。チャンピオンズリーグでは2次予選に進んだが、スペイン
リーグでは、格下相手でもなかなか点がとれずに苦しんでいるのだ。

そんな夢のチームを日本で見られる数少ないチャンス。
W杯の熱狂も手伝ってか、今年は関心も高かったようだ。
自分もできればスタジアムで見たくて、チケットを取ろうとしたが
あえなく完売。その後チケットショップではペアで42000円で
売っていたが、さすがに手が出なかった。

さて、実際の試合だが、Rマドリードは見事に優勝。
だけど、相変わらず危なかっしい試合運びだった。
逆にいえば、それだけ緊迫した試合だったといえるのかもしれない。

スターティングメンバーだけ見れば磐石の横綱相撲でもおかしく
ないのに、ともすると落としてもおかしくない試合運びだったのは
攻守のバランスが悪いからである。

FWのロナウド、ラウル、MFのフィーゴ、ジダンが攻撃に専念
しているため、守備に割く人手が足りなくなってしまう。

その上、それだけでもなかなか引いている敵の守備陣を割ること
ができないため、DFのロベルトカルロスまでがオーバーラップ
して攻撃参加するから、どうしても相手のカウンターが脅威に
なってしまうのだ。

ただし、その事自体が悪いとは思わない。
なぜなら、そこにはたとえ2点取られても3点取り返せばいい、
という明確な意思が存在するから。
そしてそれが充分可能なポテンシャルを秘めたチームであるからだ。

また、それだけのスター軍団が集まりすぎると、キャラのかぶりも
あるのか、誰を中心としてボールを集めるのかがわかりにくいのか
やりにくそうな印象だった。

せっかくゴール前に持ち込んでもシュートするのか、ロナウドに
パスするのか、一瞬のためらいがあるような気がしたのだ。

その中で、Rマドリードが先制点を取れたのは、W杯優勝コンビ
ロベルトカルロスと、ロナウドの息の合ったコンビネーションから
だった。

また、追加点はロナウドが選手交代をして、昨年のメンバーになって
つながりが生まれるようになったからだ。
その後、守備的メンバーを増やしたためか、終盤は思い通りの試合
運びができていたようだ。

だから、今期のRマドリードが本領を発揮するようになるのは、
ロナウドが本当にチームに馴染むようになってきたその後なのかも
しれない。
タレントが豊富な選手たちの集まりだからこそ、アジャストには
時間がかかってしまうものなのかもしれない。

そして、あえて憶測を言えば、ジーコジャパンが目指しているのも
こんな方向性なのかもしれない。
波にのればめっぽう強いが、外すと結構危ない橋を渡ってしまう。
でも、そういう日本代表も見てみたい気がする。

時間と経験を重ねて、明確な意思を持ち続ければ、それも充分
可能になると思うから。



2002年12月01日(日) AIKI

今日は師走の始まり、映画の日。そして愛子さまの誕生日であり、
自分の誕生日でもある。
誕生日おめでとう、俺。

さて、映画の日に生まれていいこと。それは自分の誕生日は映画が
半額で見られるって事。
なので、この日はやっぱり映画を見ることが多かったりする。

今回見たのは、AIKI。TRICKと最後までどっちにしようか
悩んだんだけど、TRICKはまだ、見に行こうと思う機会があるかも
と思ったので、こっちを選択。

さてAIKI。おそらく全然知らない人が多いだろうと思うので、
ちょっとだけアウトラインを説明しておくと、加藤晴彦主演の真面目な
映画である。なんで真面目か、とわざわざ付け足した訳は後で述べる。

ボクシング新人戦を控えた若者が、ある日交通事故で、脊椎損傷、
すなわち下半身不随の車椅子生活となってしまう。
かつての友達にも心を閉じてしまい、すさんだ生活を送っていた若者が
新たな人たちと、そして車椅子でも可能な古武道、合気柔術と出会う
ことで新たな可能性を見いだしていくというストーリー。

って、アウトラインを説明しても、この映画の素晴らしさは多分
伝わらないと思う。
この映画の魅力は、そのストーリー展開にあるわけではなく、映画が
伝えたいと思うメッセージの方にあると思うから。

とりあえずこの作品は、個人的なツボにはまってしまう内容だったのだ。

さて、この日記を見てくれている人の周りには、残念ながら?
下半身不随だったり、車椅子生活の身体障害者と呼ばれる人達は
いないかもしれない。

個人的には病院で働いていた時代、リハビリで勤務してたことも
あってそうした人達と接する機会が多かった。
ここでちょっとだけ、身体障害者になってしまった人達に触れると、
基本的に、一筋縄でつきあえる人達では、なかったりする。

ある日突然、病魔か事故によって、自分の身体の自由がうばわれて
しまう理不尽さに面してしまった人達。

下半身不随の人の場合、リハビリすることで何とか手を使ったり、
補助的な装具などを使って、動くことはできるけど、しびれなどの
感覚的な異常が続くことは結構あるし、排泄関係のコントロールは
いくらリハビリを続けたところで、なかなか元には戻らない状態。

リハビリを続けて、必ずよくなるならいいけれど、最終的に障害は
残ってしまうことが多かったりする。
そのため、自暴自棄な生活を続けてしまう人も多いし、逆に本人が
いくら望んでも、リハビリの継続が打ち切られたりする場合もある。

先生には、この私の痛みはわからないでしょ、と何遍言われたか
わからない。
そう、彼らの苦しみを本当に実感することはなかなかできないのだ。

この映画では、特に前半部分、そんな車椅子での生活を余儀なく
されている人達の苦しみについて、彼らの目線でよく描写している
と思う。

そして、後半の目玉。主人公が合気柔術と出会うところ。
個人的には、とても興味のそそられる内容だった。

もともと自分の職業柄、気、や身体の扱い方には興味があるわけだが
そういう観点でこの映画を見ると面白い。
この映画だけで、ある意味合気柔術の入門ビデオとして流通しても
いいんじゃないかと思えるほど、合気柔術の世界に真面目に
踏みこんだ、内容となっている。

主人公が、合気柔術を習っているから形だけ真似しました、という
感じではなく、あくまで真面目に合気柔術を取り上げているのだ。

昔、ベストキッドって映画が流行ったとき、友達みんなでカベ塗りの
練習とか、やってみた記憶はないだろうか?
そんな感じで、合気柔術という今まではあまり知らなかった世界を
のぞき込むことができる。

また出てくる人達も、ヒロイン役のともさかりえをはじめとして、
実に魅力的な、少しすねに傷持つ人物として描かれていて、
個人的には好感が持てる。

話が地味だからか、それとも監督の人脈が豊富だったからか、
作品中の至る所で、意外な人がカメオ出演していたりするし。
永瀬とかね。

特にともさかりえは、この作品ではとても魅力的な存在だった。
ラブシーンとかもあったりするし。

ストーリー展開としては、結構地味な作品なんだけど、出来れば
いろんな人に見てもらいたいな、と思える作品である。
特に自分の生き方とかに、ちょっと悩んでいる人におススメ。


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