店主雑感
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2003年01月22日(水) 善悪正邪

 善悪正邪についての一〇〇%客観的な基準
が立てられないとするなら、詰まるところ人
の世の基準は主観的好悪の二字でしかない。

 ようするに、この世を生きる上でその人が、
何をどれくらい好きで、何をどれくらい嫌い
か、ということさえ見れば大体その人間が分
かる、ということである。

 ものごとを善悪正邪ではなくて好悪の問題
として捉えれば、世界の実相はずいぶんとよ
く見えてくる。

 ブッシュとフセインはお互いが大嫌いでも、
砂漠の下に眠っている化石燃料がもたらして
くれる富みと権力が大好きなてんでは共通し
ているので関わり合わずにいられない。

 国民を飢えさせて平気な指導者など支持し
たい者はいないが、それよりも強制収容所へ
入れられたくないので十万人規模の支持集会
が成立する。
 なんと言おうと、独裁を許している国民は
自由のために命を賭ける気はないのである。

 痣だらけだろうが、なんだろうが、暴力を
振るう夫を許している妻に助けはいらない。
 助けを求めてもいないのに一々警官がドア
を蹴破って踏み込んでくるようでは法治国家
とはいえない。

 突き詰めて考えれば、この世にしたくない
ことを強いられている人間など存在しない。
 いやいやでも、しぶしぶでも、何かを仕方
なくやっているのは、もっとやりたくない何
事かをやらずに済ましたいからである。

 政治難民やドメスティック・バイオレンス
の被害者をやたらと気の毒がるのはおかしい。

 一つ屋根の下で我が子が殺されるまで手を
拱いていた母親は暴力夫より遥かに罪が重い。
 何と言い訳しようが、やるべきことをやり
たくなかったがため、自ら招いた結果である。

 同様に国家指導層の腐敗や弱体、あるいは
専横や暴虐が、目を覆うほど酷くなるまで手
を拱いていた責任はすべてその国民が負わね
ばならない。

 腐敗や弱体は結果として他国からの侵略を、
専横や暴虐は結果として恐怖政治を招く。


2003年01月14日(火) 真実を見つめる勇気と覚悟

 真実を見つめる勇気と覚悟、教育の本質は
これにつきる。
 何が真実かを見極めるのは実はちっとも難
しくない。
 ただ自分にとって都合の悪い真実を直視す
るのが難しいだけである。

 幼稚園から小学校低学年にかけてこの能力
を身につけないと、一生かかっても一人前の
大人にはなれない。

 誰とでも仲良くする必要など少しもない。
 何も世界中の人を皆好きになる必要はない。
 嫌いなら無理に関わることはない。
 ただ放っておけば良い。

 もし君がよい人間なら、君に嫌われるよう
な奴は放っておいてもいずれ碌な死に方はし
ないから安心して良い。

 もし反対に君がくだらない人間なら、君に
好かれるような人間は碌な者ではないし、む
しろ君に嫌われる人間は幸いである。
 君や君の好きな連中を尻目に、君の嫌いな
人々は君から嫌われれば嫌われる程、益々幸
せになれる。

 だから嫌いな人間にやたら危害を加えたが
るのは、自分が取るに足らない哀れな人間で
ある、と自ら証明している様なものである。

 ただそれだけのことだと思えば良い。

 人を嫌ったり憎んだりすること自体が悪い
わけではない。

 悪いのは、嫌いだというだけで、あるいは
好きだというだけで、不公正がまかり通って
しまうことである。

 ギャンブルやポルノ産業が栄えるのは、大
衆は馬鹿だからギャンブルやポルノが大好き
で、たとえなけなしの金でも喜んで注ぎ込ん
でくれる、と資本家がよく知っているからに
他ならない。

 何も彼等の趣味が低俗なわけではない。

 賭博や裸よりも金自体が好きな事を、より
一層低俗と捉えるなら、あるいはそうとも云
えるかもしれないが。

 何れにせよ、大衆がポルノよりも百科事典
が大好きで代価を惜しまぬとしたら、資本家
達は競って良質な百科事典を出版し、やはり
金持ちになっているはずである。
 資本家は百科事典を好きでも嫌いでもない
が、利益は大好きなのだから。

 そして大衆はといえば、たとえ金はなくと
も高雅な一生を送ることもできる。
 そうならないのは、単に自由主義世界の人
々の正直な好き嫌いの結果によっている。

 どんな勢力も他の大多数から激しく嫌われ
てしまえば、別段の攻撃を受けずともやがて
は孤立して滅んでしまう。

 結局、世界中の小さな子供達が何を好んで、
何を嫌悪するかで、地球の未来は決まってく
る。

 誰とでもみんなが仲良く手を繋いで…など
とばかげたことをいつまでも言っていないで、
幼稚園の砂場から、子供達に嫌うべきは嫌い、
軽蔑すべきは軽蔑するのがあたりまえなのだ、
と安心させてやるべきである。

 人を好きになったり、愛することは教えな
くとも勝手におぼえる。

 同様に人を嫌いになったり、軽蔑すること
も、わざわざ教える必要はない。
 人を嫌いになったり、軽蔑することがさも
いけないことであるかのような誤解さえあた
えなければ良い。

 誰とでも仲良く、と教えるから、糞野郎を
糞野郎と思うこともできない。
 ただ、糞野郎だというだけで石をぶつける
のも同じ糞野郎だと教えれば良い。

 ああ、何だ糞以下の人間かと思えば陰湿な
いじめに走ることもない。
 たとえ陰湿ないじめに走る者がいたとして
も、そんな奴は糞以下の人間と同じ様に軽蔑
されて誰からも相手にされなくなれば、それ
で良い。


2003年01月07日(火) テロに対してできること

 人質事件の被害者は人質に取られた時点で
殺害されたと思うしかない。
 そう考える以外にどんな考え方もありはし
ない。
 でなければ、通りすがりの子供を捉まえさ
えすれば何百億の現金だろうが世界同時革命
だろうが何でも好きなことを要求できること
になる。

 現金や革命など持ち出すと反って分かり難
いだけで、この子の代わりに他の子供の命を
差し出せと言われて、応じるわけにゆかない
事は誰でも分かる。

 結局は、この手段では如何なる企ても常に
成功しない、と全世界にむかって示し続ける
以外にとりうる途はない。

 およそテロ行為というものは目的の如何に
関わらず手段としての有効性が低いことを証
明する以外に防ぎようがない。

 超法規的措置とかで野放しにしたクズども
が、本来は出さなくてよかったはずの大勢の
被害者を生み出したことに疑う余地はない。

 この世に憎むべき人間はいくらでもいる。

 AがBを、あるいはBがAを憎んで死んで
しまえば良いと思うこと自体はすこしも悪で
はない。

 共産主義者と資本主義者が、あるいはイス
ラム教徒とキリスト教徒が、お互いの立場を
尊重し、理解しあう必要など全くない。

 お互い相手方が一人残らず自発的に転向す
るなり改宗するのなら大歓迎だが、もしそう
でないなら、一人残らず死んでこの地上から
消え失せてしまえ、と願うことはすこしも悪
くない。

 しかし、一人残らず殺してこの地上から消
し去ってしまおう、と願うことはいけない。

 自分が愛する人間の命を不当にうばった犯
罪者の死を願うのはすこしも悪くない。

 しかし、たとえ犯罪者といえども非合法に
殺すことは許されない。

 この違いさえわかっていれば何んの問題も
ない。

 全世界の人類が互いに手を取り合って協力
する必要などすこしもない。
 何故そんなできもしないし、本気でする気
もないことをいうのか。

 ほんの数人の家族間ですら利害は衝突する
のである。
 しかもその解決にあたっても、公平を期す
ることなどは不可能なのである。
 どんなに仲の良い家族間であっても利害の
調整に際しては、常に優位にある者が他の者
に対して多かれ少なかれ妥協を強いることで
決着を見る。

 商業上、あるいは、軍事を含めた政治上の
取引きにおいても同様で、ふつう当事者間の
力関係に応じた妥協点を探る努力をし、愚か
な自滅や共倒れの途は選ばない。

 複数の立場があれば利害は必ず発生する。
 利害が反すれば対立や争いは避けられない。

 問題は許容範囲を超える不公正さに対する
考え方にある。

 取引きである以上、ある程度のかけひきや
はったりはつきものである。

 大量破壊兵器を所有し、必要とあらば、い
つでも使用する覚悟を持つ、あるいはそのふ
りをして虚勢を張るのはイラクの勝手である。

 しかし、所有しているのに、所有していな
いと嘘をつくことは許されない。

 しかしまた、とはいうものの…である。

 自分達が機関銃を構えておきながら、他人
がナイフを隠し持ってやしないか心配だから
後ろを向いて壁に手をつき、ボディチェック
させろ、と言っているようなアメリカがはた
して公正なのだろうか?


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