つぶやきダイアリー
だってこの一日はやっぱり一度しかないのですから。。
明日があるさとは言っても書けるときに書こう!
それでは、私の日常大暴露大会。

2002年05月28日(火) 猫の友達さがしています


今日、新しい猫と、うちの近くで会った。ミケで、ちょっと毛がくしゃくしゃしてる
小柄な猫だった。夜、家に帰る途中で、うちの2軒先の駐車場の
車のわきに、すわっていた。にゃーと挨拶したら、むこうもにゃーと
言ったので、これは好感触。と思い、こっちにおいで、というそぶりを
見せたら、ついてきた。ラッキーと思い、いそいで、二階の私の部屋に入って
部屋に常備しているキャットフードをちらつかせると、もう少しで階段を
のぼってきそうにこっちをみているので、二階からキャットフードを
ころがしたら、一生懸命こぼれたごはんを探しながら食べていた。こっちにきて
くれないかなぁと思いながら会話をしている(つもり)でいると、そこへ
急にニンゲンのおばさまがやってきて、「たまちゃん!何してるの?こっちへ
いらっしゃい!」という。あぁもう少しでおうちに遊びにきてくれそうだったのに。。
なんだあの人は。と思いつつドアのかげにひそんで様子を聞いていると
たまちゃんは、まだそこを離れようとしていないらしく、「たまちゃん!どうしたの!
何があるの?こっちよ!こっちに帰るのよ!」としきりに話している。
おばさんが疑って私の部屋のほうにやってこないか不安になり、すぐに部屋に
カギをかけて、たまちゃんとサヨナラをした。 猫の友達をつくるのも楽じゃない・・・。



2002年05月27日(月) 「相談をする」ことについての弁明

日友人と話していて、人からよく相談の電話がくるのだが
どうして相談が必要なのかわからない、というような話をきいた。
私は、人によく相談をするので、その必要性がわかる。
そこで、なぜ人は相談するのか?について考えてみた。

人は基本的に頭をひとつもっているので、自分の
頭脳で考える。
しかし、その頭脳で考えたところで、好ましい結論や解決策が
導き出せない場合に、人に相談する。

もうひとつ考えられるのは、もうその人の頭の中で考えて、
まがりなりにも結論が出ている場合に、その考えを他の人に
知ってほしい(聞いてもらいたい)ときである。そして、
他の人も同じように思ってほしい、共感して後押ししてほしいとき。
こういうときは、相手が何を言ってくれるかどうかはあまり重要でなく
なっているので、自分の話を延々して、「やっぱりそう思う?だよね。じゃあまたね」
ということになり、聞いているほうは、これでいいのか?などと考える。
しかしこの場合の相談も、大事な行為ではないかと思う。

つまり、人が相談するのは

一。自分の頭脳をもってだけでは解決できない何かに
  ぶちあたったときに他のニンゲンに相談する

二。自分の頭で考えてまがりなりにも結論のでていることを、
  意見として他の人に聞いてもらい、共感を得るために相談する。

という二つの場合があるのである。



2002年05月26日(日) 草津温泉の熱帯圏にて

恐怖のサル使いに出会った。
彼はしわがれた声を嗄らしながら二匹のサルと一緒に
しきりに芸をしてくれた
サルたちが「大漁うたいこみ」をバックに
舟をこいだり
「草津節」とともに湯もみといって、温泉の中を板で
まわしたりする
鞠の上にのったり、竹馬にのったり、サルたちも容易でない様子
そしてサル使いは、ひとしきりのサルの芸の後、
このサルは去年フジテレビの仕事によばれてーなどと
サルの自慢話が絶えない
この温泉街の動物園で何十年と
サルたちと芸をして生活しているのだろう

サルはすでに疲れ果てているようで
サル使いのおじいさんが「おねえちゃん!」とそのサルのことを
呼ぶが、なかなか素直に反応せず
笑って人を小馬鹿にしたような様子でおどけてみせる
おじいさんはいよいよ頭にきて
さけんだり、サルをおいかけたりしている
その様子のほうが可笑しかったりして
「ああ…サルと私たちってそう遠くない生き物なんだなぁ」などと
思いながら
サルが何考えてるのか頭の中をむしょうに知りたくなり
人とのコミュニケーションの前にサルとのコミュニケーションに
チャレンジしてみたくなる
そんなサル使いとサルさんたちの…そう、同じ類人猿としての、ステージだった。



2002年05月25日(土) ヒトとネコの違い

今日は、東京から電車で2時間半、群馬県は前橋市の実家にもどって
ネコたちとひさしぶりに会っていたので、そんな中、
人とネコはどこが違うのか?
ということについて、考えてみた。

人もネコも同じ哺乳類だ。
そして人は雑食で、ネコは基本的に肉食だが雑食に近くなっている。
人は草食動物によくある、なわばりをつくって生きる社会的動物だが
ネコは単独行動を好み、しかしまたなわばりをきちんと守る上で
ネコの社会的均衡を保っている。

そして決定的な違いとは。
ネコは、けっして ヒトに媚びない。

ネコが甘えた声でヒトにすりよってくる、それは決して
媚びているのではない。
そうすれば、ニンゲンはネコ様に食料を与えてくれるので、「さぁ私に食事を
出しなさい」と命令しているのだ。。。

などと書いているとネコを本当に心から信じているニンゲンに
怒られそうなのでやめておくが、
私は、常に、「心はインディペンデント」なネコに本当にあこがれているのだ。

・・そう考えてみると、つくり笑いをしながらぺこぺことおじぎをして
コピーをとっているような私も、そんなネコ的生き方を見習うことによって
心は常に自分自身のままにいるすべを身に付けられるかもしれない。。
などと考え、
そしてまたヒト社会にもどってゆくのであった。




2002年05月20日(月) 会話

いま、私は「いわゆる日本の大企業」で仕事をしているので、
文化的なギャップに苦しんでいる。
今まで、何年間か、ふつうに会社に行って、問題なかったのに、
今になってくるしむというのも不思議だ・・・

今日、前の仕事で一緒だった友達と電話で話していて、かのじょいわく、
「興味の対象になるから会話が生じるのであって、何の興味もあわなかったら
会話にならない」って。まったく同感!!

それ以外の会話とは、いったい何だろう?それは木枯らしの吹きすさぶ音の
ように、心の中をさむざむとかけぬけていってしまうような、ものなのだろうか。



2002年05月16日(木) 日本男児

今日は、渋谷の路上で、「日本男児」という男の子たち6人組をみました。
歌って、踊れるかっこいい中学生〜二十歳までの、ジャニーズっぽい子たち。
黒山の人だかりの中、ジャージ姿で汗を流して踊る姿を見てたら、なんだか
切なくなった。一番前で、制服姿の女の子たちが、キャーキャー言っている。
私も中学生のころ、こんな風に、胸をときめかせていたんだな。その心って、どこへ行ってしまうんだろ。こういうときに、かすかに、心がちくちくして、思い出すけれど。ずっと消えたくない、いつまでも、心の中に住んでいる、中学生の私。

(などとセンチメンタルになりながら、渋谷駅前でゲリラライブをやるのは、かなり勇気もいるが、かなりの宣伝効果がある!と、現実的にお客さん集めの方法などに思いをめぐらせていた。) 

それにしても、キラキラして歌う、素敵な人っていうのは、いいな。素敵な人になろう。



2002年05月14日(火) 突然の会話

名前も知らない人からのメッセージ。
僕は大阪にいます。君はどこに住んでいるの?会えるかな。
さみしかったから、少し返信した。何気なく。
私は東京にいます。こっちまで来てくれたら、会えます。
名前も知らない人が、元気ですかって、たずねてくれる。
待ってるから、寂しいときには、いつでもメールしていいよって言ってくれる。
だけど−
余計に寂しくなるのは、なぜだろう?



2002年05月13日(月) 他人のための音楽、自分のための音楽

練馬区の老人ホームへ、ボランティアの演奏にいきました。
今回は、ピアノも、三線ももっていって、ギターの人と二人で演奏したんですが、
一曲目の「赤とんぼ」から観客フル合唱でとても盛り上がったステージでした。
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など、懐かしのメロディでは
もちろんのこと、三線を使った沖縄の民謡「安里屋ユンタ」、そして「ハイサイおじさん」「花」でも
一緒に歌ってくださる方が多くて、だって、ほとんど背中もまるくなってひとりじゃあるけないし、背丈だって
1メートルあるかなって思う、
身体の方たちなんだけど、手拍子とか、鈴をたたいたりとか、一緒にうたってくれたりして、なんか、私は
涙が出そうになって・・今のところ、胸が熱くなるステージって
老人ホームが一番な気がする・・・ なんか今日思ったのは、私がお年寄りになったときには、この方たちは
確実にいないし、でも、それは、わかってるんだけど、そのたったひとときでも、なんか、世の中を共有できたような
気がして、一緒に笑ったときが、あったなって、覚えてたいなっと思ったのでした。

そして夜は、表現者としてのパフォーマンス、音楽、詩のワークショップで吉祥寺へ。
向井千恵さんという、胡弓と歌の表現をされるすごい方たちが、主催している、即興表現の場で、
初めて体験しました。 私は最初はピアノでガチャガチャやっていたんですが、周囲の人の
あまりにも突如として意表をついた表現・・・楽器を蹴り飛ばし、さけび、舞踏し、
尺八を吹き、ペットボトルの品質表示を朗読し・・・などに、圧倒され、ああ自己を表現するって
面白い、ニンゲンの身体って面白い、とか、面白い人がいて世の中まだすてたもんじゃない、とか
思いながら、あれこれ考えた挙句、猫として三線もって追いかけられるという、ことをやってみました。
そうしたら、なんかいい汗かいて、すがすがしい気持ちになりました。

よくよく聴くと、皆さんは世の中を変えるために・・・つまり世直しのために、表現活動を行っているという
話をきいて、世直し一揆に参加したい気持ちでいっぱいになりました。
何のために音楽をやってるのかなーとちかごろわかんなくなっていた私だったから、行ってよかったんです。
猫の仲間もちょっと増えました。ナオーナオー。しげきてきな一日だったよ。



2002年05月12日(日) 時の意味

きょうはひさしぶりに、私の母大学、早稲田大学MMTの先輩の
結婚式の二次会があって、懐かしい人たちに会うことができた。
大学に入ってから、はや10年あまりがたとうとしている。
この10年の意味を、私は最近ずっと考えながら生活していた。
東京に出てきた意味。
行かないでという家族を残してまで、やってきて、そして何かを
なしとげたいと強くねがった、あのときの気持ちを、
私は、日々の時間の中でうすれさせてゆきたくは、なかった。

時は、私達を、確実に変えもするが、しかし、その時の中で
ただ、たゆたうことは簡単なことである。
時を経たときに、何かが変わったと感じること、
それは、必要なことなんだと思う。


−くるくる、まわりながら、生きているんだね、みんな・・・
それが、生きるということ?

何気なくかわされる言葉の中に、今までのときを感じる・・
それが、生きるということ?





2002年05月11日(土) ピアノのお客さま

きょう、うちにピアノがきました。ヤマハの、ピアノタッチの、大きなやつ。
最近、なんか音楽も聴いてなかった。
音楽を聴きたい心境というものにもならなくて、何か気がひどく滅入ってしまって。
雨が降り始めたころに、そのひどく気の滅入った感覚がやってきた。
そんなときに、新しい何かがやってくるというのは不思議だ。
やってきたというより、海外に行く友達のピアノを1年預かるということになるのだが。。
人のものを、大事にあずかって、そして、弾いてあげよう。
そんなささいなことで、少しだけ、自分自身を保てるような気がした。



2002年05月09日(木)

にゃ


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