2002年11月30日(土)  アクアマリンの原石発見したよ。
午後7時。友人から電話。
  
「晩ご飯食べた?」
「プリングルスなら食べてるよ」
「晩ご飯食べた?」
「さっきおにぎりせんべいも食べたよ」
「晩ご飯食べた?」
「わかったよ行くよ」
 
近所のラーメン屋へ。
友人は腹が減っているので塩ラーメン(中)と餃子とチャーハン。
僕はさっきまでプリングルスを食べていたのでラーメン(小)のみ。
店員は奥菜恵似の正統派美人。アクアマリンのような瞳とロザリオ・ビアンコのような唇。
僕はラー油のようなヨダレを流して彼女を見つめる。
 
「エリちゃーん!」
向かいに座っていた友人が突然アクアマリンの瞳に向かって叫ぶ。
僕は驚いてロザリオ・ビアンコの唇の方へ振り返る。知り合いか!知り合いなのか!
 
「ひっさしぶりー!」
友人と奥菜恵は互いに目を輝かす。僕もなんだかわからないけど目を輝かす。キラキラ☆
 
「あっ、ヨシミくーん。久し振りー」
アクアマリンでロザリオ・ビアンコで奥菜恵は僕に向かって微笑んだ。
しかも今僕の名前を呼んだ!呼んだよ!呼んだよ友人!聞いたか友人!
 
「バカね、覚えてないの?エリちゃんよ」
覚えてないよ!ていうか知らないよ!
こんな美女見たのって楊貴妃以来だよ!クレオパトラ以来だよ!小野小町以来だよ!
参ったなこりゃ。キミは歴史を覆したよ。今夜から世界4大美女伝説の始まりだ。
楊貴妃・クレオパトラ・小野小町、そしてアクアマリンでロザリオ・ビアンコで奥菜恵似のエリちゃん、キミだよ。
 
「フフフッ。ヨシミくんって相変わらずだね」
相変わらずってどこからどの期間を抽出して、考察して、想定して相変わらずなんだよ!
キミは僕の慎ましい歴史にどのように関わっているんだ!
なんだか僕ってすごい取り乱しているような気がする!
 
「ホントに覚えてないの?小学校の同級生よ。同じクラスだったエリちゃん」
友人がテーブルの上のラーメンのように冷めた口調で説明する。
 
「あ、あぁ……。覚えて、ないや。あぁ、しかし惜しいことをした。
こんな美女がかつてのクラスメイトだなんて。6年3組にダイヤモンドの原石が眠っていたなんて。
いや、アクアマリンの原石と言った方が適切かもしれない。
今度生まれ変わったら、小学生の頃からアクアマリンの原石には唾をつけるようにしよう」
 
悠長な話だ。

2002年11月29日(金)  今なら1500円よ。
プルルルル……プルルルル……
 
「あ、おはよう」
「今何時だと思ってんのよ」
「うん……と、10時20分だね」
「予約したの何時?」
「うん……と、10時だね」
 
友人がいる美容院に行った。10時に予約して11時に行った。
「寝てたでしょ!」「起きてたよ!」「寝てたでしょ!」「起きてたよ!」
という問答を5分くらい繰り返してからまずはシャンプー。
 
「髪、めちゃくちゃ傷んでるね」
「うん。髪の毛は僕の心のバロメーターなんだ」
「何言ってんのよ」
「なんでもないよ」
「じゃあ特別なトリートメントしてあげる。今なら1500円よ」
「先月も『今なら1500円よ』って言ってたじゃないか」(2002/10/17参照)
「今月も今なら1500円よ」
「来月は?」
「来月は、ダメ、15000円」
「高けぇなおい!10倍かよ!」
「嘘よ」
「わかってるよ。来月はいくら?」
「来月も今なら1500円よ」
「やっぱり」
 
友人が努めるこの美容院は、とてもシンプルで、すごくオシャレで、かなり安い。
 
「安いのは私がいるからよ」
「キミが安いってこと?」
「アンタもう帰ってよ」
「今なら1500円よ。なんてね」
「店長、このお客さん私のお尻触りました」
「触ってねぇよ!」
「指も使いました」
「使ってねぇよ!」
「フィンガーファイブヴィダルサスーンです」
「ワケわかんねぇよ!」
「私のこと好きなくせに」
「なっ……!」
 
結局、今日はトリートメントとカットとパーマを破格の値段でしてもらって
週末に会う約束をして
 
「ていうか今日ってもう週末でしょ?」
「じゃあ明日の夜会いましょ」
「うん」
「今なら1500円よ」
「ウ、ウソ!」
「嘘よ。そんなに安くないわよ」
 
給料日前の僕の週末は1500円では済まされそうではなさそうだ。
2002年11月28日(木)  教えて欲しいよ。
僕は1人で寝るとき(たいてい1人で寝るんだけど)は、掛け布団を頭まですっぽりかぶって眠る。
特にこんなに寒い夜は、寸分も身体の一部が布団の外に出ないよう
イモ虫のように身体を曲げ、春の訪れを待つ熊のようにウーウー唸りながら眠るのである。
 
眠るのであるけれど、僕は寝相が良い方ではない。
良い方ではないというか、彼女と1年も付き合うともう一緒に寝てくれない。
セックスさえしてくれない。まぁこの件は別の問題があるとして
とにかく僕は寝相が悪い。
 
布団で寝たはずなのに、いつの間にかソファーで眠っているとか
枕がいつの間にか足元にあったりとか、
枕が足元にいったのではなく、僕が布団の上で180度回転していたとか
枕かと思ったら最近気になりだした彼女のお腹とかだったりするのである。
 
寒いのに、こんなに寒いはずなのに
夜中ふと目覚めると掛け布団だけかぶっていて、毛布は足元でくしゃくしゃに丸め込まれていて
寝ぼけた頭で毛布を再び肩まで掛けるけど
掛け方を間違えて、毛布の幅の長いほうが横になっていて短い方が縦になっていて
 
……。幼稚園のお昼寝タイムのタオルケットかよ!
 
と1人で立腹しながら、両足をまぬけに毛布から出して、元の位置に戻せばいいんだけど
なにしろ寝ぼけているから、そのまま寝てしまうのである。
 
頭まで布団をすっぽりかぶって寝る人は心理学的には
胎児への回帰願望があるというけれど、だからどうした。そしてどうすると思う。
往々にして心理学はだからどうしたそしてどうするなのである。
 
そんなこと考えている暇があるのなら
正しい姿勢を持続したまま眠る方法と
正しい姿勢を持続したままのセックスの方法を教えて欲しいよ。
2002年11月27日(水)  不甲斐ないヨシミ。
眠い。足元のストーブがいけないのかもしれない。
午後8時。テレビもつけず、音楽もかけず、部屋に横になり、胎児のように身体を曲げ、
両手は太腿の間にはさみ、両足は貧乏揺すり、目線はビデオデッキのデジタル時計。
 
『20:08』
よし、20:10 になったら風呂に入ろう。あぁ、さむいさむい。凍え死んで、しまうよ。
ふわぁぁぁっ。あぁ、ねむいねむい。毒リンゴでも、食べたのかしら。
あっ、チキショウ。いつのまに 20:10 になったんだよ。納得いかないなぁ。
あ、もう 20:11 になっちまった。よし、20:15 になったら風呂に入ろう。
 
『20:15』
……。……。早ぇなおい。僕はまだ乗り気じゃないんだ。
いや、ちゃんと風呂には入るけどね。今は乗り気じゃないんだ。20:15 の時点では乗り気じゃないんだ。
ちゃんと入るよ。20:20 になったら入るからそんなに僕を責めないでくれ。
って誰もいないんだけどね。むしろ誰か僕を責めてくれ。
 
『20:19』
微っ妙〜。あっという間に4分経っちまった。
ラーメンだったらとっくにできあがってのび始めてる時間だよ。
あぁ僕はこの4分の間何をしてたんだろう。
こんなことならさっきから痒くてたまらない肩甲骨のあたりを掻いとけばよかったよ。
20:20 に風呂っていうのもなんだかね。なんだかねってなんなんだかね。
よし、こうしよう。20:30 にお風呂に入ろう。
20:20 ってなんだかナンセンスだよね。ナンセンスってなんなんだかね。
 
『21:14』
……。……。オイ!オイッ!ちょっと誰か来てくれよ!
うちのビデオデッキの時計を見てくれよ! 20:19 の次は 21:14 かよ!
ていうかネテタ!マイッタ!シクジッタ!
……。……。よし、21:20 になったら風呂に入ろう。
 
『21:20』
21:20 に風呂っていうのもなんだかね。なんだかねってなんなんだかね。
21:20 ってなんだかナンセンスだよね。ナンセンスってなんなんだかね。
 
 
 

【だらしな・い】
(1)きちんとしていない。「―・い服装」
(2)ふがいない。「―・いヨシミ」

(新辞林 三省堂)
2002年11月26日(火)  『シャンプーのきざみ』についての絶え間ない考察。
『横のきざみがシャンプーのしるしです』
 
26年と4ヶ月、僕はお風呂の中でこの言葉の真意について考え続けた。
どのシャンプーにも例外なく書いてあるこの言葉。
 
横のきざみの意味はわかる。だってシャンプーの横にきざみがあるもの。
このきざみはきっと目盛りみたいなものだと思う。
だけどこれを目盛りだと仮定した場合、その利用法を実証する手立てがない。
 
おそらく1目盛りが平均的なシャンプー1回分の量だと思うけど
透明ではない容器にもこの目盛りは刻んであるし、透明じゃなかったら1回分なんて測れない。
さてどうしたものか。
 
このようなあまり日常生活に影響しない悩み事はすぐ忘れてしまうもので
いつも誰かに聞こう聞こうと思っているんだけど、お風呂から上がるとすっかり忘れてしまって
髪を乾かしている時にはもう明日の仕事のことを考えている始末である。
 
しかし今日、遂に、天啓の如く、仕事中に突然『シャンプーのきざみ』が僕の頭の中を支配した。
 
「……あ、シャンプーのきざみ」
 
患者さんに注射をしている最中だった。
患者さんの右上腕正中皮静脈に23ゲージの注射針が刺さっている最中だった。
おそらく注射器の目盛りにシャンプーのきざみがオーバーラップしたのかもしれない。
 
「は……なんですか?」
 
若い女性の患者さんが僕を見上げる。
注射の最中に『シャンプーのきざみ』なんて意味のわからないことを言う看護士に対し
多少の不安を抱く表情をしている。
 
「あ、ほら、シャンプーの容器の横の部分に目盛りみたいな『きざみ』があるでしょ。あれ何のためにあるのかなと思って」
 
若い女性の患者さんは注射の最中に『シャンプーのきざみ』のことを考えていた看護士に対し
変わらぬ不安の表情をやや強くしながらも優しく笑いながら答えてくれた。
 
「フフフ。えとね、あの『きざみ』はリンスにはついてないでしょ。そういうことよ」
 
そ、そういうことか!
2002年11月25日(月)  地平線。
休日。最近休日ばっかり。
しなきゃいけないことはいっぱいあるんだけど、どれから片付けていいのかわからない。
 
とりあえず1月に予定している名古屋行きの飛行機のチケットを買って、
旅行会社のお姉ちゃんとメール交換をして、
どうして旅行会社のお姉ちゃんとメール交換したかというと、
チケットが入っている封筒にメールアドレスが書いてあって
「何かわからないことがあったらメール下さいね」と意味ありげな笑顔で小声でささやいて
何かわからないことがあったら旅行会社に直接電話するよ。と思ったけれど、
アパートに帰って早速「今日はありがとう」なんてメールを打つところが僕が男たる所以であって
一日千秋の思いでメールの返信を待つけれどもう午後11時。ちくしょうやられた。
 
今日は昼ご飯を食べてなかったので、
午後2時頃に「ボリュームたっぷり 大きなバナナ風味メロンパン」という
とどのつまり何パンなんだよ! というパンを食べようとしたら後輩から電話が掛かってきて
昼間から開いている居酒屋でビールを飲みながらランチを食べて
ゲームセンターに行って太鼓を叩くゲームをして両手がマメだらけになった。
 
しなきゃいけないことはいっぱいあるんだけど、どれから片付けていいのかわからない。
だから僕はしなくてもいいことばかりしながら日々を送っている。
 
無意味な行動に必死の努力と懸命な意味付けをしている。
 
生きることにある程度のいい加減さを取り入れたら地平線が真っ直ぐ見えた。
2002年11月24日(日)  今日の僕に勤労感謝を。
休日。
 
午前中。洗濯と部屋の掃除。音楽に合わせてお尻を振る。
ベランダで布団を干しているとアパートの下を通る小学生と目が合って
「バーカ」と言われる。いわれのない罵倒に一気に凹む。
 
正午。先輩からの電話。待ち合わせは焼肉屋。
今日のランチはバイキング。
焼肉と寿司とカレーとうどんとキムチとサラダとフルーツとケーキを食べる。
手当たり次第食べる。何でも食べる。食べるときは食べる。
ライチがノドに詰まっても気にしない。
僕はカルビさえあれば彼女なんていらない。ライチさえあれば結婚生活なんて必要ない。
 
午後2時。うちの職場の代表で他の病院の会議に参加する。
いっぱい食べると勿論眠くなる。たらふく食うと勿論お腹が痛くなる。
会議の最中に席を立ちトイレを借りる。
ウンコしてる間に議論の結論が出ていた。会議に来た意味があんまりなかった。
 
午後4時。職場へ顔を出す。
「休日なのに会議お疲れ様」と婦長さんが優しく声を掛ける。
婦長さんが休日なのに会議に出ろと言ったくせに。と思う。思っただけ。
 
午後5時。今日の会議の書類作成が終わる。
「あら、まだいたの?」と婦長さんが優しく声を掛ける。
明日までに書類仕上げろと言ったくせに。と思う。思っただけ。
 
午後6時。洗濯物を取り入れる。
ベランダの下にあの小学生がいないか少しヒヤヒヤする。
 
午後8時。後輩からの電話。居留守を使う。
留守電に「居留守かよ!」とメッセージが入っている。少しムカつく。
電話を掛け直し「いるよ!」と叫ぶ。安易に後輩の術中にはまる。
 
午後9時。コンビニへ夕食を買いに行く。
昼にたらふく食べたのでサンドイッチとコーヒーを買う。
サンドイッチをモシャモシャ食べるという形態模写。
 
午後10時。やっと僕だけの時間が始まった。
2002年11月23日(土)  思索的な夜、思弁的な朝。
僕は元気で呑気そうに見えてとても疲れやすい性格なので
休日の何も予定の入っていない日は人知れず何時間も眠り続ける。
何度も寝返りをうって何回も嫌な夢を見る。
 
昨日午後6時に横になり、目を開けると今日の午前8時になっていた。
職場から帰ってきたままの服装で、靴下も脱がず、ジーパンも履き変えず、
腕には腕時計、髪にはヘアワックスがついたまま
ソファーに倒れこんで、概念的な死を迎えた。
2002年11月22日(金)  ターニングポイント。
夜遅く友人が遊びに来た。
風呂に入ってきたと言っていたけど、それがスッピンなのかどうなのかわからなかった。
スッピンじゃなかったらたいしたもんだと思った。
聞こうか聞かまいか迷ったけど、迷っただけだったので結局聞かずに来たるべくターニングポイントの話をした。
 
そろそろ僕は、何かのターニングポイントを迎えているのかもしれない。
 
「何か」なんて意味ありげに書いているけど、
自分自身の問題なのでその「何か」なんて理解しているに決まっているけど
とにかく近い将来、僕はターニングポイントを迎えると思う。
 
そういうことを具体的に友人に説明すると
「そぉかもね〜。そういう時期かもねぇ〜」
とキャラメルコーンを頬張りながら肯定した。
肯定してくれたので、僕が思っていることを包み隠さず話した。
 
秘密にしたのはキャラメルコーンは僕が寝る前に食べるおやつの為に買ったということだけ。
少しは残しててほしいなぁと思ったことだけ。
寝る前にキャラメルコーンを食べながら新しい小説を読もうと思ってたのに。
 
「まぁ、とにかく安定を望むのは時期尚早ってことね」
 
友人はそう言ってその話を締め括った。
部屋の隅にはアロマキャンドルが煌々とした炎を揺らしている。
 
「そろそろ寝ようか」
 
フーッ。僕はアロマキャンドルに息を吹きかけ炎を消そうとする。消えない。
フーーッ。続いて友人が消そうとする。消えない。
 
フーッ。フーーッ。フーッ。フーーッ。消えない。
 
「こうしようか、えとね、早くこのアロマキャンドルの炎を消したほうが幸せにな……」
 
ブーーーーーッ!!
 
「あ、ひどぉい! 言ってる途中なのにぃ!」
 
僕は全ての肺の機能を使って炎を吹き消した。
こういう問題は切実なんだ。
2002年11月21日(木)  黒い花。
僕が争いを好まないのは平和主義でも菜食主義でもなく、ただ単に気が小さいから。
 
気が小さいと腹を立てなくて済む。
なんでもハイハイ言っているといらぬ波風が立たなくて済む。
頭を低くすると皆調子に乗る。その調子に僕も合わせる。いらぬ笑顔を見せる。
 
「みんなヨシミくんは優しい人だと勘違いしてるけど、ただ指示されたことをハイハイ言ってるだけなのよ。
ほら、こっちが何も言わなければずっと1人でいるでしょ。あれは、優しさじゃないのよ」
 
ある看護婦さんが僕に聞こえるように言った。
久し振りに腹が立った。
これ見よがしにムカッとした表情になり、バタンと大きな音でカルテを閉じた。
 
うちの職場には看護士はいっぱいいるけど、僕が働いている外来は男は僕1人で
うちの外来といえば以前は「人間関係崩壊所」と暗に呼ばれていただけあって
ものすごい排他性とピラミッド的構造によって成り立っている場所で
僕は1年前突然の人事異動でこの病院初の「外来看護士」となり、
この1年、周囲に波風を立てぬように、いらぬ争いが起きないように、
面倒臭い仕事は率先して僕が片付けて、責任を追及せず、秘密を共有せず、
無味を心掛け、無臭を維持し、無垢を演じてきた。
 
それなのに、自分で言うのもなんだけど、こんなに努力してきたっていうのに、
人の悪口なんてあまり言いたくないけど、僕だってあんなこと言われたら腹が立ってしまう。
 
今日、僕が1年間の歳月を掛けて積み重ねてきたささやかな努力の一部が
音を立てて崩壊した。
 
人は自ら争いの種を蒔こうとする。
僕はその種を拾い集めるのに、少し、疲れてしまった。
僕が拾い損ねた争いの種が、知らぬ間に発芽して、花を咲かせてしまったものまである。
 
人間関係崩壊所に咲く黒い花は、疲れ果てた僕に向かって勝利の花粉を撒き散らした。
2002年11月20日(水)  ヤマモト姉。
なぜか午前1時にリビングに座って寒さに震えながらコカコーラを飲んでいる。
僕とコカコーラは特にalwaysな間柄じゃないので、その光景はとても不自然に見える。
 
午前1時とリビングとコカコーラ。
実はこの3つに共通する事象など存在しない。
僕自身でさえ、なぜ僕はこんな時間にこんな寒いところで爽やかになるひと時を過ごさなければいけないのか。
 
ついさっきまで友人が遊びに来ていた。
この友人は小学校からの親友で、どちらかといえば、僕と同じ種類で、
同じ種類ということは、阿呆の方で、椅子の上に画鋲を置いたり、先生のスカートをめくったり、
ヤマモトのお姉さんのことをブスと言って、ヤマモトのお姉ちゃんに泥ビンタくらったり(泥のついた手でビンタをくらうこと)
それで僕たちは腹が立ったので、ヤマモトに泥ビンタをくらわしたり、
ヤマモトは、どちらかといえば、僕と同じ種類で、
同じ種類ということは、阿呆の方で、また姉ちゃんにチクって
僕は彫刻刀で本当に太腿を切られて、友人はでっかいスコップでカンチョーをされた。
 
あの頃のヤマモトの姉ちゃんは本当に滅茶苦茶だった。
ヤマモトは愛知に行って、そのまま行方をくらましたけど
ヤマモトの姉ちゃんは今でも近所のコンビニで時々見かける。という話をついさっきまでしていた。
 
僕は彫刻刀で太腿を切られたというか、刺されたという方が適切なんだけど
その件があって、今でもヤマモトのお姉ちゃんの話をすると少し尿道が緩んでしまう。
友人はスコップでカンチョーされたことなどすっかりと忘れてしまっていて、
僕もこいつみたいに辛過ぎる過去はすんなりと忘れられる人間になりたいなと思った。
 
深夜1時のリビングはとても寒くて、コカコーラはとても冷たくてとてもalwaysな気分になれないけど、
 
僕とこの友人は26歳になった今もお互いにalways阿呆だと思う。
今日は、酒を、飲み過ぎた。
飲酒運転で帰ろうとする友人を咎めなかった僕も、警察に捕まったとき同罪になるらしい。
僕が同罪になるならば、ヤマモトの姉ちゃんなんて情状酌量の余地もないよ。な?
 
なんて話をしながら僕は友人を見送った。
2002年11月19日(火)  泥沼に足を踏み入れたとき。
「今朝ね、あんまり腹が立ったからね、主人の弁当作らなかったの」
「で、どうしたんですか?」
「空の弁当箱にね、1000円札入れて渡したの」
「うへぇ、きついなぁ」
「きつくないわよ。1000円も入れたんだから」
「僕はいくら喧嘩してても、ご飯と梅干だけでいいから奥さんに弁当作ってほしいなぁ」
「ふん。こういうことは結婚しないとわかんないのよ」
「そりゃそうですけどね」
 
看護婦さんは新婚で、最近まで周囲の人が赤くなるくらいののろけ話をしていたけど
この頃は口から出るのは喧嘩の話ばかり。
そこまで言わなくてもいいじゃないかと周囲の人が心配するほど奥の深い家庭事情を話すのでヒヤヒヤしてしまう。
 
僕は昔から結婚話に関しては、そういう種類のことばかり聞かされるので
結婚に対しての夢とか希望とかが欠乏しているのかもしれない。
新婚6ヶ月で弁当箱に1000円札を入れられるような結婚生活なんて好んでしようとは思わない。
 
だけど1000円札を弁当箱に入れられたご主人にも否があるわけで、
こういうものは双方の問題だろうけど、問題だろうけど、
 
はぁ〜〜〜〜っ。
 
とひとごとなのに溜息をついてしまう。
不倫を経験した僕が言うのもなんなんだけど、やっぱり双方が互いに対するストレッサーになったらおしまいだと思う。
お互いが悪い意味で刺激しあって、悪循環やら泥沼やらそういうものに足を踏み入れると
抜け出すのは容易ではなくなるのである。
 
「だけどちょっとやりすぎちゃったかなと思って今夜はとっておきの手料理を作ろうと思ってるの」
 
だからそういう言葉を聞くと少し安心してしまう。心から幸せを願ってしまう。
 
「だから今日の夜勤代わって」
 
それはヤだ。
2002年11月18日(月)  稲穂実る。
僕のバッグにはいつもコンドームが2つ3つ入っている。
理由は知らない。使い方もわかんない。嘘つけ。
 
とにかくバッグの内ポケットの中にそれはいつも入っている。
「あ〜。コンドーム見っけ〜」
友人が僕のバッグを漁ってコンドームを空高くかざした。近所のカフェ。
周囲の目もはばからず、その正方形のビニールの袋をヒラヒラとかざした。
 
「やらしぃ〜。わ〜。やらしぃ〜。ベネトンってとこがこれまたやらしぃ〜」
 
僕は黙ってコーヒーを飲んだ。怒っているのではなくてただ恥かしいだけ。
 
「返せよ」
僕は運動靴を取られたイジメられっ子のような口調で言った。
 
「お前のモノはオレのモノ〜。ハハハッ」
友人はジャイアンの決めゼリフを無邪気に言った。
カフェのお姉さんと目が合って僕はすぐに目線を外した。
僕の頬は真っ赤になり耳からは煙が出ていた。
 
「案外しっかりしてるのね」
友人はまだなお手にコンドームを持ったまま言った。
 
「いちおう医療職だからね」
僕は言った。あまり関係なかった。
 
合理的に物事を進めるようにしている僕にとっての一番の課題が
コンドーム装着時間の短縮化なんだ。
ワンタッチ式とかも試してみたけど、やはりあの空白の「稲穂が垂れる」時間は逃れ様がないわけで
最初から着けてればいいじゃないかと思うけどそれはそれで興醒めしちゃうし
かといって着けないわけにはいかないし……。
そこで僕は考えたんだ。簡素化され合理化されたコンドーム装着法を!
例えばね、キミが仰向けにベットに寝てるとするでしょ、そこでね、
 
「ちょっと、声デカいわよ。バカ」
 
稲穂が垂れた。
2002年11月17日(日)  泣くということ。今でもそう思っていること。
「……くだらない。そういうときはね、泣けばいいのよ」
 
もう3年も前に付き合っていた彼女が言った言葉。
僕はあの時の状景を今でもはっきりと覚えている。
 
彼女のワンルームマンション。アイボリーのカーペット。火がついたままの煙草。
ガラス製の小さな灰皿。無意味な海外ニュース。気の抜けたビール。安物のワイン。
食べかけのポテトチップ。マンションの窓から見える「ロッテ」の看板。
 
彼女は、当時僕が抱えていた過食症の象のように重い悩みを
「くだらない」の5文字で片付けた。
その言葉は突然 首もとに冷たい缶ジュースを当てられたときのような冷たさがあった。
 
そしてその青天の霹靂のような冷たい言葉のあと「泣けばいいのよ」の7文字で言葉を締めた。
その言葉はベランダの洗濯物を穏やかに乾かす初春の陽光のような温もりがあった。
 
「泣けばいいのよ」
 
彼女はもう一度その温もりと優しさに満ちた言葉を繰り返した。
そして僕は泣いた。自発的な涙ではなく、それは自然に湧き出できたような涙だった。
そのとき初めて自発的ではない涙は自制できないということを知った。
 
僕は彼女の前で、「ロッテ」の看板が見えるワンルームマンションで、
飲みかけのビールの前で、消えてしまったタバコの前で涙を流した。
 
そして自制を失った涙から
涙をこらえる事は「強さ」ではなくて「弱さ」だということを教わった。
泣きたいときに泣ける「強さ」を持とうと思った。
不可抗力に注ぐ悩みから黙々と耐える「弱さ」を克服しようと思った。
 
強いからこそ涙を流せるんだ。
弱いからこそそれを隠そうとするんだ。
 
そう思った。
 
今でもそう思っている。
2002年11月16日(土)  正常量反復使用。
実はこの7日間、1日も休日がなくて心身共に疲労が激しくて
これは、もう、駄目だ。
と思っていた7日目に僕の肘が薬剤師さんのオッパイに当たって嘘のように疲労が吹っ飛んでしまった。
 
かの精神分析の創始者フロイトは活力の源としてリビドー(性の衝動)という概念を導入したが
それもあながち嘘ではないと思った。
肘にオッパイが当たっただけで疲労が回復するなんて男って簡単にできているんだなと思った。
 
願わくばもう一度オッパイに当たってみたいと思った。
明日からの2連休返上してもいいから。働きアリになっても構わないから。
永遠に貴女の元で働きますと薬剤師さんに忠誠を誓うのです。
 
嗚呼あの感触を今一度味わえるならば辛くはないわこの東京砂漠って感じです。
この荒廃した砂漠の中のただ1つのオアシスなんですオッパイは。
あの感触が肘から僕の脳に伝わって、アドレナリンを 
 
はいここまで。これ以上自暴自棄な文章を書いちゃうと自己嫌悪に陥っちゃう。
僕はお箸が落ちただけで自己嫌悪に陥っちゃうんです。
 
普通のセックスより、今日のようなほんの一場面の方が興奮するのは
一種の性倒錯なんだろうか?
 
僕の大好きなフロイトは性倒錯としてサディズムとマゾヒズム、露出狂と窃視症、あとフェラチオと肛門性交、フェティシズムを挙げていたと思う。
フェティシズムも挙げてたっけ?ちょっと忘れてしまったけどフェティシズムも性倒錯だったような気がする。
 
それにしてもフェラチオが性倒錯なんて、やっぱり性の概念も時代によって変化するんだなぁと思った。
時代というか文化というか。
 
とにかくオッパイが肘に当たったことが嬉しくって嬉しくって。
2002年11月15日(金)  八方美人の苦悩。
僕は別に職場の人間関係で悩んでいるのではない。
職場の人間関係に付随するものに悩んでいるのだ。
 
どこの病院にも多かれ少なかれ医者と看護婦の対立というものは存在する。
たいてい医者は男で、当然看護婦は女。
そこには男女間関係の縮図というか拡大図というものが存在する。
 
僕たちのような看護士は、職業的な立場から中性的な意味合いが強く
「男らしさ」というものを求められない代わりにこの男女間の中間に立つ潤滑油のような役割を請け負いやすい。
 
例えば、看護婦さんが医者への不平や不満、怒りやマイナス感情を僕にぶつける。
まるで僕が医者であるかのように(この場合、医者の「立場」の代役なんだけど)僕を罵倒する。
 
どうなってんのよまったく!医者はね指示だしてそれでおしまいだけど私たちの仕事はそれからなのよ!
私たちがどれくらい苦労してんのかわかってんのかしら!それちゃんと伝えといてよ!
 
僕は「はぁ、まぁ、そうですよね」と曖昧な返事をしながらそれらの言葉を頭に入れる。
そして医者の元へ走り、その走っている間に、頭に入れた様々な汚い言葉を
自分の中で噛み砕き、消化し、加工して、当たり障りのない表現に変換し医局のドアを叩く。
 
「失礼します」
 
そして僕は先ほどの不平不満を、まるでそんなものは鼻からなかったように丁寧な言葉で話す。
 
「うん。看護婦さんたちの言ってることもわかるよ。しかしだね……」
 
そして医者は医者なりの看護婦への不平不満が始まる。
僕は「はぁ、まぁ、そうですよね」と曖昧な返事をしながらそれらの言葉を頭に入れる。
そして看護婦の元へ走り、その走っている間に、頭に入れたこと難しい言葉を
自分の中で噛み砕き、消化し、加工して、当たり障りのない表現に変換してナースステーションへ戻る。
 
※(くりかえし)
 
僕は職場でこのような立場にいます。
 
今日、先月赴任してきた新しい医者に
「キミはこの病院の情報センターのような役目をしているんだね」
と嫌味なのか本心なのかよくわからないことを言われた。
 
それは紛れもない真実なんだけど、隠しようのない事実なんだけど
 
看護婦さんから
「あなたは医者にも看護婦にもいい顔を通そうとする八方美人なところがあるわね」
と言われて
 
う〜〜〜〜〜ん。と
象のあくびよりも長い時間1人で首をひねって仕事の続きを始めた。
2002年11月14日(木)  ゲット・バック。
猫を轢いた。
 
午後8時。僕はビートルズを聞きながら夜の田舎道を走っていた。
友人の家からの帰りで助手席にはもらったばかりの缶ビールが6本とワインが1本乗っていた。
車なので晩酌することを断ると友人は帰り際にスーパーのビニール袋に入ったビールとワインを渡した。
 
「この前のお礼だよ」
そう言って友人は酒の入ったビニール袋とビートルズのCDを差し出した。
「もう聞くこともないだろう」
友人は3日前に4年も付き合っていた彼女と別れた。
 
僕達の年齢で4年付き合った彼女と破局するのは致命的で、仕切り直しといっても
次のワールドカップが開催される頃はもう30歳を向かえるのであって、悠長に恋愛なんてしている暇はない。
と僕はそう思わないけど友人はそう思っている。
 
僕は、友人とその彼女との思い出の曲らしいビートルズを聞きながら夜の田舎道を走り続けた。
助手席ではビニール袋の中でビールとワインが重なり合う音がまるでビートルズの曲に合わせて手拍子をしているようにカチカチと聞こえた。
 
友人の4年間と、ビートルズと、ガソリンの残量を考えているときに、その猫は現れた。
その茶色い三毛猫は、僕の車の数十メートル先で道路を横切った。
ヘッドライトに照らされたその猫は何かを追っているように足早に道路脇の茂みに入ろうとしていた。
 
しかし、途中で立ち止まり、突然何かを思い出したように、もと来た道を引き返してきた。
その時はもうその猫と僕の車の距離は数メートルだった。
轢く前の一瞬、その猫は僕の方を見た。
過剰にヘッドライトに照らされたその猫の瞳はさほど驚いている様子もなく、目の前の出来事を冷静に受け止めようとしているように思えた。
 
そして車の下でゴツンと何かを砕くような音がした。
「何か」ではなくて、それは三毛猫以外の何物でもなかったのだけど。
 
僕は今日、初めて猫を轢いた。
最期の猫の瞳と、4年もの月日を積み上げてきた愛の終末を迎えた友人の瞳。
助手席の缶ビールとワイン。
 
そしてカーステレオからは『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』がそんな悲劇を嘲笑うかのように流れ続けていた。
2002年11月13日(水)  勝負するとき。
いつものように待ち合わせ場所に遅れた僕は
いつものようにわかりやすい言い訳をして、あまり寒くもないのに「寒いね」と言った。
彼女の頬が少し紅潮しているのは寒さではなくて怒りのせいだということは一目瞭然だった。
 
「あの信号さえ青だったら……」
まだなお続く僕の言い訳を遮るようにして、マフラーで顔を半分埋めたまま彼女は先に歩き出した。
今日は彼女の23回目の誕生日。
 
僕達は付き合ってるわけじゃないけど、2人で食事に行くということはそれなりの間柄であって
今日だってまだ一言も喋ってくれないけど、機嫌がいい時はそれなりに会話も弾むし笑顔も見せる。
だけど今日みたいに機嫌が悪いときは本当に一言も喋ってくれない。目さえ合わせてくれない。
歩く早さも違うし歩幅も違う。タバコばかり吸うしショルダーバッグも少し乱暴に振っている。
 
こういうときは本当に困る。掛ける言葉が見つからない。
僕が考えていることは自責の念のみ。言い訳なんて逆効果。
逆効果なんだけど、どういう言葉が効果的なのかわからない。
11月の夜空の下、彼女の背中を見ながらただただ途方に暮れる。
 
今日は彼女の誕生日なのに、当の本人の機嫌が悪い。
どんな災難が降りかかってもどんな逆境の中にいようとも、誕生日くらいは機嫌良くありたい。
自分の生まれた日くらいは眉間の皺を消していたい。
僕が遅れてしまったのは悪かったけど、たかが20分の遅刻で1時間も怒ることはないじゃないか。
性格にいうと18分だけどね。  ね?
 
「 …… 」
 
あの2人は絶対喧嘩しているカップルだと傍目から見てもわかるような表情で
彼女はパスタを口に入れずに何重にもフォークに絡ませていた。
僕はこういう状況のとき、彼女の機嫌よりも周囲のことを気にしてしまうので小声で彼女を慰め続けた。
しかしこれも逆効果となり、ますます彼女の態度は硬化してしまった。
 
あぁ、帰りたい。
 
僕は彼女の顔を見ずに冷えてしまったパスタに向かって心の中で呟いた。
 
「あ、誕生日プレゼント。はい、おめでとう」
 
僕は最後の手段を使った。プレゼントはこの最初の店で渡すつもりはなかったけど
そうせざるを得ない状況だったのだ。
 
プレゼントを手に取った彼女の表情を注意深く観察する。
一瞬、それは一瞬だったけど彼女の表情がほころんだ。
 
さぁ、勝負はここからだ。
2002年11月12日(火)  廊下に佇む女。
仕事が終わり、辺りも暗くなり、アパートの階段を上ると、女性が一人泣いていた。
 
正確にいうと泣いていたのではなくて
擦れ違いざまに、一瞬だけ目が合っただけなんだけど、その瞳には確実に涙を流した形跡があった。
 
歳の頃20代後半。特に美人でもないし、別に美人じゃないってわけでもない。
タイトストレートのジーンズにニットジャケット、千鳥柄のオレンジのマフラー。
アパートの廊下で泣くために着こなされたような格好で、
アパートの廊下で泣くために神様に配置されたような女性だった。
 
僕は足早に部屋に帰り、ストーブに火をつけた。
部屋が暖まる間、ベランダの洗濯物を取り入れ、メールをチェックした。
 
>昨日待ってたのにどうして来なかったのよ!
 
という内容のメールが友人から来ていた。そういう用件はメールじゃなくて電話ですればいいのにと思った。
電話をすると「昨日待ってたのにどうして来なかったのよ!」とメールと一字一句違わず同じことを言われた。
そういう怒りはメールに書けばいいのにと思った。
 
お腹が控えめに鳴ったので控えめな夕食を買いに再び外へ出た。
その女性はまだアパートの廊下に立っていた。
特に何かをしているというわけでもなく、まるで廊下の手すりがいとおしいように
深々と手すりに両手と顔を埋ずめていた。
 
ここから飛び降りるんじゃないかと心配がよぎったがここは2階なので、
飛び降りたとしても死にやしないし、足の骨さえ折れないかもしれない。
野次馬的予測を立てる。
「彼氏に追い出された」 もしくは 「彼氏が帰ってこない」
 
まぁどっちにしろ僕には関係がないし、こういうことには無闇に足を突っ込まない方がいいということは
これまでの人生で嫌というほどわかっているので、ただ足早に彼女の横を通り過ぎようとしたその時、
 
「……あ、ちょっとすいません……」
 
階段を一歩踏み入れた僕の背後で彼女が呼び止めた。
野次馬的予測を立てる。
「この部屋の人、いつも何時頃帰ってきますか?」 もしくは 「秋風が、身に染みすぎて……」
 
まぁどっちにしろ僕には関係がないし、こういうことには無闇に足を突っ込まない方がいいということは
これまでの人生で嫌というほどわかっているので、半ば無愛想に返事をする。は?なんですか?
 
「財布……落ちましたよ」
 
あ、あぁ、ゴメンゴメン。
2002年11月11日(月)  夢と希望とベクトルが。
今でこそ看護師なんてやっているけど、僕はプロレスラーを目指していたのです。
 
高3の頃、学校が終わる度にジムに通って、竹刀を持った山本小鉄のようなトレーナーのもと、筋トレに明け暮れていたのです。
 
今この話をすると誰も信じてくれないけど、当時は僕の進むべき道はプロレスラー以外考えられないと本気で思っていて、
30歳までには新日本プロレスのIWGPジュニアチャンピオンになってやると悠長に思っていたものです。
 
僕の前歯の1本は実は差し歯で、高3の頃どっかの駐車場でどっかの怖いお兄ちゃん達とケンカをして
思い切り顔を殴られてその時に歯が折れて、殴った相手のこぶしも血まみれになるという
まぁ、今で言うと若気の至り?みたいな。ことばっかりしてました。
 
ケンカといえば19歳の頃、相手の肋骨をあれしたことはいいとして
とにかく僕は健全な精神のもと健全な肉体を作り、プロレスラーを目指していたのです。
 
どこでプロレスラーを諦めたのか。
どこで看護師を目指し始めたのか。
 
そこに明確なラインは存在しません。
ジムに通い、体を鍛え、歯を折られ、骨を折っているうちに、
その、なんていうか、相手を労わる気持ちとか、客観的な視点とか、いろんなものの尊さとか
そういうものが自然に湧き出てきたのです。
 
まだ、うまく言えないけど、パンドラの箱の隅には、希望のようなものが眠っていたのです。
 
当時、早くもパンドラの箱を開けてしまった僕は様々な災難に見舞われました。
思い出したくもないから思い出さないけど、それなりに涙も流したし、感情を爆発させたこともありました。
 
言うなれば、今の僕は、あの「当時」の抜け殻なんです。
「僕」というパンドラの箱はすでに開けられて、希望が見えて、打算的になって
今の僕がいるんです。
 
プロレスラーを目指すという今思うと笑い話のような過程に、様々なヒントが隠されていて
そのプロセスの中でそのベクトルが変わり、タイガーマスクのような華麗なマスクマンになる替わりに
いつの間にか白衣を着て注射をしたり食事介助をしているのです。
 
失ったものも多いけど、得たものも多い。
なんだか人生を振り返る酔っ払いのような口調になってしまったけど
まぁ、そういうことです。
そういうことなんです。
2002年11月10日(日)  お化粧ってタイヘン!
コスメ。世の男性がそうであるように僕もコスメには全く関心がない。
彼女がどんな口紅を使っているか、どんなファンデーションを使っているか、何色のアイカラーを塗っているかなんて真剣に考えたことがない。
 
それは地理の授業でロシアのツンドラ気候を学ぶことくらいそれは他人事で関係のない話で
頬に塗る真っ赤なチークなんて、赤く燃える対岸の火事程度にしか思っていなかった。 
そこで僕はこの場を借りて謝罪しようと思う。
 
ゴメンなさい。なんか、よくわかんないけど、誤解してました。
 
友人2人と外食に行った。そこで出たコスメの話。
僕はまたかと思いバレないように小さな溜息をついて外の景色を眺める。
この手の話題になるといつも決まって同じ単語が繰り返される。
 
どんなマスカラが目元をはっきりさせるかとか、どこのグロスは艶があるかとか、何色のマニキュアが流行ってるとかこの手の話題が延々と続くのだ。
しかたなく僕はいつも決まってタバコを吸うか、「へぇ、そうなんだ、ふぅん」なんて気のない返事を繰り返すしかない。
 
どんな乳液が保湿してくれるかとか、どこの化粧水が潤いを与えてくれるかとか、誰が使っている美容液が気持ちいいのか……。
えっ?ちょっと待って。乳液と化粧水と美容液って全部一緒じゃないの?用途とか同じじゃないの?
 
「バカね。違うに決まってるじゃない」
 
友人は見下した目で僕を見る。
そして資生堂のスタッフでもある友人の「コスメ論」が始まった。
 
まぁ、そのコスメ論はともかく、乳液と化粧水と美容液が全く別物だったということに驚いた。
毎日毎日女性は出勤前に何層も何層も様々な液を顔に塗っているのだ。
 
僕はてっきり顔洗って乳液つけてファンデーション塗って口紅塗って終わりなのだと思っていた。
なのにどうして女性というものはたったこれだけなのにいつまでも鏡の前に座りつづけるのだろう。ほら、もう、時計見てよ。10時過ぎたよ。10時に出発しようって言ったのはキミじゃないか。
 
と思っていた。コスメを軽視していた。ゴメンなさい。キミたちはいつもそんな苦労を強いられているのか。
男性は3分で髭を剃り、女性は30分で3層ものコーティングを施すのか。
 
今夜僕はまた1つ女性に対して寛容になれました。
お化粧ってタイヘン!
2002年11月09日(土)  シンプルライフシンドローム。
いつもの友人がセーターに首を突っ込んで遊びに来た。
 
「サムー!なんでカギが閉まってんのよ!」
 
開口一番怒られる。鍵が閉まっているだけで怒られる。彼女はいつもお満月。
僕は僕のルールで生きているし彼女は彼女のルールで生きている。
僕は滅多に部屋の鍵を掛けないし
彼女は僕の部屋に鍵が掛かっていると――それは必然的に――怒りを露にする。
 
思い通りにならなければ怒る。
世の中も僕の部屋に遊びに来た彼女のようであってほしい。
コソコソと愚痴を行ったり、ワァワァと泣き叫んだり、グィグィと酒を仰いだりしないでほしい。
シンプルであって欲しい。
 
まぁ世の中がシンプルだったら毎日こんな日記書いてないんだけどね。
世の中が複雑だからこそ、その数だけの物語があるんです。なんてね。ねぇ、聞いてる?
 
「知らないわよ。シンプルだかテンプラだかわかんないけど、あ、そうだ『固めるテンプル』ってお風呂の水も固まっちゃうって知ってた?もうプルンプルンに」
「え!?ウソ!?そいつは、すげぇや!」
「ウソよ。そういうワザとらしいリアクションはやめなさい。そうやってワザとらしくオデコを叩くのもやめてちょうだい。もう、イライラする」
「なんだよひどいよ話し振っといて!」
 
世の中がシンプルだったらこういう会話もきっとなくなる。
合理的な社会はきっと僕と、僕を取り巻く友人たちを駄目にする。
 
「あ、そうだ。11月18日って何の日か知ってる?」
「なんだよいきなり」
「今日はその日にまつわるイベントで忙しかったのよ」
「へぇ。腹減ったね」
「終わりかよ!その話題終了かよ!自分の無知をさらけ出したくないだけで話題から逃避するのかよ!」
「男のような口調はやめろよ」
 
「じゃあ何の日か当てて」
「うん。十一月十八日で、十と一をつけて十と八をつけて土木の日。当たってる?」
「当たってるわよ。わからない振りでもしてよ。つまんない」
「さっきワザとらしいリアクションはするなって言ったじゃないか。で、今日は何のイベントだったの?」
「……土木フェスタ」
 
「大変だね、OLさんも」
「ほっといて」
2002年11月08日(金)  超複雑。
「足引きずってるからって仕事が減ると思ったら大間違いよ」
 
いつの時代にもどこの病院にも人に厳しい看護婦さんはいっぱいいる。
昨日のソフトボールの試合で大腿ニ頭筋断裂という大怪我をした僕に待ち構えていたものは
激しい痛みと哀しい言葉と厳しい現実だった。
 
「あっ、ゴメンね」
 
わざと僕の太腿に軽く膝蹴りをしていく事務員さん。
いつの時代にもどこの病院にも人に厳しい事務員さんはいっぱいいる。
昨日のソフトボールの試合で大腿ニ頭筋断裂という大怪我をした僕に待ち構えていたものは
耐えがたい疼痛と許しがたい意地悪と高らかに響く悲鳴だった。
 
痛み止めの注射と鎮痛剤を服用しているとはいえ、この痛みは計り知れないものがある。
泣いてみようと思ったけど、男は簡単に涙が出ない構造になっているらしく
僕の涙腺はなかなか感情に伴った反応をしてくれない。
 
それはそうと今日の昼休み、
「今日はあそこの寿司屋のランチが500円なのよ」
と誘われてお母さんの歳と同じような主任さん2人とランチを食べに行った。
 
相変わらず足は痛かったけど800円の定食が今日だけ500円という魅力的な値段は
60分という昼休みの時間だけ僅かながらその痛みを忘れさせてくれた。
 
「足、大丈夫?」
 
料理が運ばれてくる間、主任さんは心配そうに話し掛けてきた。
朝は「足引きずってるからって仕事が減ると思ったら大間違いよ」って厳しい言葉を投げ掛けた張本人なのに仕事を1歩でも離れるとすごく優しい。
 
「他の看護士さんは大切な奥さんがいたり彼女がいたりするでしょ。あなただけいつまで経っても彼女がいないから気を遣わないのよね。可哀相な気がするけど」
 
 
 
ちょーふくざつ。
2002年11月07日(木)  運命の6球目。
ソフトボールの試合。
 
「今日もしかして中止とかですか?」
 
僕は誰もいないグランドに1人立って先輩に電話する。
 
「ていうかお前、場所間違ってるよ」
 
市内にあるもう1つのグランドに急いで車を走らせる。
試合開始ギリギリに到着。準備運動もキャッチボールもしないまま僕は俊足1番バッター。
 
「ユニホーム ズボンの中に入れろ!」
 
監督に小学生のような怒り方をされてバッターボックスに立つ。
相手のピッチャーはニヤニヤ笑っている。ナニクソと思いバットをブンブン振り回して構える。
そしてセーフティバント。姑息だ。僕は姑息な1番バッター。
 
ボールはサードの方向へゆっくりと転がる。理想的なバントだ。
間に合う。1塁まで全力疾走。僕はこのチームで1番足が早い。
風のように走りハヤブサのように手を振り1塁を踏む。そして転倒。華やかに転倒。
 
「アウトォ!」
審判がこんなに大きく言わなくてもいいじゃないかと思うくらい大きな声を挙げる。
「タ・タイム!」
僕も審判に負けじと大きな声で言う。転んだとき太股が「ブチッ」と音を立てたのだ。
 
チームメイトが掛けより足にアイシングをする。
泣きそうな表情で監督を見上げる。
「今日は控えがいないからそのまま続けてもらうしかないな」
非道な一言。この足で外野なんて守れないよ。
「じゃあセカンド守れ」
いや、そういう意味じゃなく。そういう意味だとしてもファーストくらいにしてほしいよ。
 
真剣味も闘争心もなく、ただただ泣きそうな顔で試合は進む。
監督、これじゃバッターボックスにも立てないよ。
「全部ホームラン打って歩いて周れ」
本当に非道いよ監督!
 
僕はもう何十試合とこのチームで試合をしているけど今までホームランは1本しか打った事がない。
ホームランなんて無理。ありえないよ。
 
2打席目。歯を喰い縛ってバッターボックスに立ちキリッとピッチャーを睨む。
カウント2ストライク3ボール。勝負の6球目。
 
カキーーーン!
 
ボールは雲に吸いこまれるようにぐんぐん伸びる。外野は後ろへ走って下がる。
ボールはまるで翼を与えられたようにフェンスを超えようとしている。
まさか、まさか……ホームラーーーン!
 
なんてね。ありえないよ。
 
試合帰り、病院へ直行。不精髭のお医者さん。
「大腿ニ頭筋が断裂してますね」
 
ありえないよ!
2002年11月06日(水)  桃源郷のような頬とビールとメール。
新婚の友人の家へ遊びに行った。
新築の町営団地のチャイムを押すと、友人の奥さんと生後5ヶ月の赤ちゃんが出迎えてくれた。
 
「いらっしゃい」
奥さんが言う。赤ちゃんはニコニコ笑っている。ニコニコニコニコ笑っている。
「うぉーー!!可愛いーーっ!!」
僕は団地の玄関で大声で叫ぶ。
「ま、あがれよ」
友人が奥の部屋から出てくる。
僕はそれを無視して桃源郷に浮かぶ雲のような赤ちゃんの頬をプニプニ触っている。プニプニプニプニ触っている。
 
「はいお土産」
僕は赤ちゃんに目線を釘付かれたまま、無造作にお土産を渡し、
出きる限りのおかしな顔をして赤ちゃんを笑わせようと必死になる。
 
「わっ、なんだよこれ」
友人はお土産の袋を開けて驚いた声を挙げる。
「いや、赤ちゃん喜ぶかなと思って」
僕は相変わらず玄関で赤ちゃんのおでこを撫でたり髪の毛をベッカムヘアにしようと必死になっている。
「こんなんで喜ぶわけねぇよ」
友人は笑いながら応える。友人が一番喜んでいる様子。
 
お土産の中身はモアイの形をしてティッシュケース。モアイの鼻の部分からティッシュが出る仕組み。
「ま、お前らしいグッドチョイスだ」
その言葉を聞いてようやく僕は靴を脱いだ。
 
「今日は憐れな独身男性の為にオレの奥さんが晩飯を作ってやったんだ」
友人は自分で作ったわけでもないのにやけに胸を張って言う。
「ホ、ホント!わ、すげー!すげーなー!」
僕はこういう時は役者になれる。
 
刺身とエビフライとサラダと豆腐ハンバーグ。
 
豆腐ハンバーグは昨日も食べたような気がする。流行っているのかしら。
「それじゃあ乾杯」
僕と奥さんはビールで乾杯する。
「先に乾杯すんなよ!」
友人は泣き出した赤ちゃんを一生懸命あやしている。
 
「貸して」
奥さんは友人に赤ちゃんを渡すように促がす。友人は素直に赤ちゃんを渡す。
赤ちゃんは素直に泣き止む。
「 ……。」
友人は乾杯もせずに残念そうに俯いてビールを飲む。
 
「う〜ん。お前も一丁前のパパになったんだなぁ」
僕はかつての高校時代の同級生に向かっていう。
「お前もそろそろ落ち着くべきだな」
友人が人生を悟ったような口調で呟いたその時
 
>こんばんは〜( ^3^)/ ヒマだよ〜(T-T) 遊びに来なぃ?
 
僕の携帯にホステスからのメール。一瞬にしてほころぶ表情。
 
落ち着くにはまだ早い。
2002年11月05日(火)  19歳の現実。
短大生が僕の部屋に遊びに来た。
遊びに来たのではなく彼氏と喧嘩して泊まるところがないのでとりあえず安全そうな場所へ避難してきたという感じ。
僕だって時には狼になるときがあるんだよ。
 
短大1年生の19歳。モンパチ大好き。僕はモンパチよくわかんない。
「ねぇねぇモンパチのCDないの〜?」
ないよ。知らないよ。聞かないよ。
「じゃあ何でもいいから音楽かけてよ」
はいはい。椎名林檎とかどうですか?
「いいね〜」
それじゃあ懐かしの『無罪モラトリアム』
 
「私ね、『やっつけ仕事』って曲が好きなの。あ〜しくじった〜しくじった〜♪まただわ〜ユーノー……あ、メールだ」
 
彼氏からのメール。
「もームカツク!ほら見てよ!」
彼女は僕に携帯電話を差し出す。
 
>吹っ切れないならいいよ。許す許さないじゃなくて(>_<)
 
「意味わかんないよ」
僕は正直な見解を述べる。
「顔文字の使い方も適切じゃないような気がする」
更に正直な見解を述べる。
 
「ね!ムカつくでしょ!?」
いや、僕は特にムカつかないけど。だから意味わかんないし。
「あ、晩御飯まだでしょー。作ってあげるー」
なんだかすごく会話の進展が早い。
 
彼女は短大の栄養衛生管理科か何かそういう学科に通っている。
「冷蔵庫開けていーい?」と冷蔵庫を開けながら言う。
 
「じゃーん!できました!」
料理の過程の進展が早いのは彼女のせいじゃなくこの文章のせい。
豆腐ハンバーグとサラダと玉子のスープ。
 
「美味いねーさすがだねー。こんなに料理が美味いとは思わなかった」
「でしょー!プリクラいるー?あ、メールだ」
本当にものすごく会話の進展が早い。全然ゆっくり話ができない。
 
>今日どこに泊まるの?オレには関係ないけど(◎_◎)
 
「やっぱり顔文字の使い方がおかしいと思う。それ以前にどこに泊まるかメチャクチャ気にしてるような気がする」
「あ、おかわりいる?」
全然聞いちゃいない!
 
その後彼女は勝手に風呂を溜めて勝手にお風呂に入っている。
僕はその間にこの日記を書いている。
 
彼女は生理中なのに先に風呂に入ってしまった。
生理中だとわかるのは、さっきトイレに入ったらトイレ脇にビニール袋が置いてあったから。
中身はいうまでもなく、最近の若者について深く考えさせられたことも言うまでもなく。
2002年11月04日(月)  48時間の恋人6。―――エピローグ
現実に戻る。
朝起きて仕事をして部屋に帰って決まって風呂上りに友人から電話が来る。
「今からご飯食べに行かない?」と。
「さっき風呂に入ったばかりなんだ」と言うと
「それはあなたの勝手じゃない」と言われる。この反論は納得してもいいものか。
 
その料亭は、市街地の奥深くにひっそりと佇んでいた。
歴史ある門構えに木彫りされた料亭の名前。
歴史ある女将さんに部屋を案内され、僕と友人3名は座敷に腰を降ろす。
 
「あなたはね『和定食』にしなさい」
「これ、多いよ。あんまりお腹空いてないんだ」
「バカね。『和定食』はね、たった300円高いだけで『さしみ定食』に天ぷらがついてくるのよ」
 
僕の隣に座った友人は得意気に言う。
現実に戻ってから僕はあまりお腹が空いていない。
 
「食べきれなかったら私が食べてあげるから」
 
友人はやはり得意気に言う。マフラーを外しテーブルに両肘を立てる。
 
「じゃあ私『千成御膳』にする」
 
テーブルの向かいに座っていた友人が言う。
『千成御膳』の写真が載っているメニューを見る。写真に収まりきれない程の料理の数。
僕は現実に戻る戻らない以前にこんな豪勢な料理は食べられない。
 
テーブルにそれぞれの料理が運ばれてきて食事は進む。
話題はここ数日音信不通になっていた僕についての話題。
空白の48時間の話題。
 
「限定された恋をしていたんだ」
 
なんて文学的に言ったとしても一笑されるだけなので「別に何もなかったよ」と言った。
もう、それは終わってしまったのだから。料理が少々高いとしても、もう、ここは現実なのだから。
 
冷たい雨の中、店を出てカフェに寄った。
レモンコーヒーを飲みながらカフェの入口を見ていたら、1組のカップルが入ってきた。
その女性は一度逢った事のある女性で、何かの折にお酒を飲んだような気がしたけど
いつ、どこで、どうやってグラスを交わしたか覚えていない。
 
その女性もそう考えているようで、僕たちは何度か視線が合ってその度に記憶の糸を辿るというあてのない作業を強いられた。
 
しばらく考えて、記憶の糸を切って、視線のシャッターを降ろした。
 
部屋に帰るとメールが届いていた。
 
>ただいま。本当にありがとう。最高の2日間でした。
 
雨は静かに降り続けていた。
洗濯機は来たるべき稼動を浴室の隅で待ち構えていた。
2002年11月03日(日)  48時間の恋人 4(白い衣) 5(48時間)
『白い衣』

残り24時間の朝を迎えた。
空は生憎の曇り空で、道路は昨夜降った雨で濡れていて、その上を救急車が走っていた。
彼女が7時に合わせた目覚まし時計を止める。
 
「おはよー」
「おはよう」
 
彼女は起きて僕は再び眠る。そして再び起こされる。
 
「おはよー」
「おはよう」
 
テーブルの上には朝食が準備してあった。ご飯と味噌汁と、昨夜の残りのおかずと作ったばかりの卵焼き。
「ゴメンね。卵焼き、少し焦がしちゃった」
謝るのは寝坊した僕の方なのに彼女は本当に申し訳なさそうに言う。
 
彼女は長旅で疲れているはずなのに、昨夜は夕食を作ってくれた。
僕がしたことといえば食後に食器を洗ったことと焼酎のお湯割りを作ったことだけ。
あとは風呂に入ってスポーツニュースを見て焼酎を飲んで、尽きる事のない話題に終始した。
もう緊張感の欠片も感じないのは時間の所為。
 
「今日も温泉に行こう」
 
彼女が温泉好きだと知って、僕は火山の街に生まれたことを感謝した。
鹿児島は石を投げれば温泉街に当たる。
『龍神温泉』浴衣を着たまま入る一風変わった温泉。
混浴なのは僕が意図したわけではなく、しかしそれを知らなかったわけでもなく、
まぁ、そういうことで、
 
浴衣を着たまま入らないといけないのは『龍神様』に肌を見せるといけないからという理由らしい。
 
「不思議な感覚だよねー」
薄い生地1枚まとってお湯に浸かった彼女に僕は戸惑う。
戸惑うどころか周囲の人も皆薄い生地1枚。
おじちゃんもおばちゃんも茶髪のお姉ちゃんも若奥様も浴衣1枚。
薄い生地はお尻に張り付いてその形を浮き立たせ、乳房を覆いその形を際立たせる。
 
僕がもし高校生だったら一度湯船に浸かったら二度と上がれないような状況。
真っ裸よりもその白い生地をまとった体の方がエロシズムを喚起させると思う。
僕はそう思う。大人になったからこそそう思う。
 
「うん、僕は少し、恥かしい」
お湯の中で何度もめくれる浴衣を隠しながら懸命に動揺を隠す。
「旅の恥は掻き捨てって言うもんね」
こういう時の女性って強いと思う。
 
竜神様に肌を見せることなく、思春期のような性欲の高揚もなんとか抑えて
湯船にじっくり浸かって、2人で露天風呂に面した海をいつまでも眺めていた。
 
今日の夕方に、彼女は京都に帰る。
 
僕はそのことについてずっと考えていた。


『48時間』

「それじゃあ、また会おう」
 
大阪行きフェリーの発着所。大きな荷物を抱えた人たち。鹿児島弁と関西弁が入り混じる不思議な空間。
僕はジャケットの襟を立てて小刻みに震えて、彼女は48時間の思い出が詰まった荷物を抱えて立っている。
 
午後5時30。突然の大雨で空は厚い雲に覆われ、道路は早くもヘッドライトを反射している。
フェリーは意味もなく大きく、必要以上にその悲しい存在感を誇示していた。
 
チケットを握りしめる彼女の手を取ろうか迷う。
例えここで手を取ったとしても、時間が延長するわけでもないし、フェリーが欠航するわけでもない。
戦艦のように巨大なフェリーはどんな高波にも、いかなる天災にも耐えられるべき構造をしていた。
 
視界に治まりきれないその戦艦は、僕達の想像を超え、
非日常的な空間は、僕達の非日常的な時間に妙に馴染んでいるようだった。
 
「ありがとう。とても楽しかった」
 
別れ際、彼女は小さく頭を下げる。
その余所々々しい仕草に、少し悲しくなる。手を取ろうか迷う。
様々な選択がよぎり、それは様々な角度から考察された消去法で削除されていく。
 
「現実」という重み。「非現実」という意味。
「日常」という現象。「非日常」という悲哀。
 
「……元気で」
 
すごくありきたりな言葉で僕達は別れた。ありきたりな言葉しか思いつかなかった。
フェリーへ昇る階段の途中で彼女は振り向いて小さく手を降った。
 
僕は静かに目を閉じて、静かに手を降った。
 
雨は冷たすぎて、時を刻み続ける時計はいささか早すぎた。
 
―――それはドラマティックでも感動的でもましては悲劇的でもない
1つの電話から始まった恋の物語。
明確な始まりがあって、確実に終焉を遂げる限定された恋物語。
2002年11月02日(土)  48時間の恋人 2(時計の針が進むとき) 3(時計の短針十二を刻む)
『時計の針が進むとき』
―― そして僕は京都と同じことくらい彼女のことを知らない。
知っているのは本名と、年齢と、どこか親しみを抑揚させるその声だけ。
顔もお気に入りのCDも好きなブランドも知らない。そして僕達を繋いでいるのは決まって深夜に掛かってくる電話だけだった。
 
「はじめまして」
 
僕は駅の売店でお土産を物色している女性の背後から声を掛けた。
電話をすればすぐに彼女の場所はわかるけど、直感で――こういう場面での直感は往々にして外れるものだけど――声を掛けた。
 
彼女は僕の声が耳に入らなかったように鹿児島の特産品を選んでいた。
「黒砂糖」を戻してそれから「かりんとう」を手に取った。
 
「これいくらですか?」
 
僕はその一部始終を眺めていた。
緊張感が作り出した空気に最初の「はじめまして」が流されてしまったので、しばらく彼女の後姿とその手と、その手に取った「かりんとう」を眺めていた。
 
「はじめまして」
 
僕は再度、初対面の挨拶を試みた。注目すべきは彼女の頭。
僕の挨拶に対して彼女の頭に「?」マークが浮かび上がったらこの女性は初対面でも竹馬の友でもなく、それはただの赤の他人ということになる。袖触れ合わずに多少の縁を感じることもなく終わってしまう通りすがりの人となる。
 
「あっ、はじめまして」
 
彼女は電話の声と同じ声音と口調でニコリと微笑む。
僕もニコリと微笑む。この「ニコリ」は安堵に満ちた微笑み。
 
この瞬間から僕達の48時間が始まった。


『時計の短針十二を刻む』

「ようこそ火山の街へ」
 
名古屋といえば金のシャチホコが思い浮かぶように、僕も鹿児島に大いなる偏見を込めて言った。
名古屋はローソンだってあるし桜島は毎日噴火するわけじゃない。
 
「はじめまして」
 
僕たちはもう一度初対面の挨拶を交わした。
あれだけ電話で語り合ったのに、その顔を、その姿を、この目で見るのは初めてなのだ。
だけど初対面のような感じがしないのは
 
「あなたが緊張感を与えないから」
 
僕は再びニコリと微笑む。口元が引きつっていないことを確かめながら。
僕だって初対面の女性が助手席にこちらを見つめて喋っていたら緊張しないわけにはいかない。
 
「長旅お疲れ様。まずは温泉でゆっくりしよう」
「ヤッター!」
 
彼女は助手席で両手を挙げて多大なる嬉しさを表現する。
彼女が笑うごとに僕の潜在的な緊張感も緩和していく。
 
『レインボー桜島』 読む限りでは温泉とはわからない名称。
「ゆくさおじゃったもした」
受け付けのおばちゃんに観光客に対する洗練された方言で迎えられる。
「え?今何って言ったの?ねぇ、何って言ったの?」
おばちゃんはニッコリ微笑んでいる。おばちゃんにしてはしてやったりの心境なのだろう。
「ようこそいらっしゃいましたって言ったんだよ」僕は彼女に説明する。
おばちゃんは再びニッコリと微笑み返す。「どうぞごゆっくり」
 
火山地にはありがちなマグマ温泉だけど、僕にとっても温泉は久し振りで、ここ最近仕事で溜まっていたストレスをゆっくりとお湯の中に溶かす事ができた。
 
「気持ちよかったねー」
 
彼女は少し蒸気立った頬を赤らめながら言う。
 
「知ってる?鹿児島の人は温泉上がりに必ずコーヒー牛乳を飲むんだ」
「うん。それって一般的」
 
彼女は冷静な見解を述べる。2人の距離が最短で縮まる秘訣は『ボケとツッコミ』だと思う。
古典的だけど、そうだと思う。僕みたいな人間は、そうだと思う。
 
その後、薩摩切子というガラス細工の見学に言って、商品のあまりの高さに驚き、
尚古集成館という博物館に行き、鹿児島の歴史を学び
フェリーに乗って、桜島を眺めて、記念撮影をする頃には
 
いつも以上に早く感じる24時間が経過しようとしていた。
2002年11月01日(金)  48時間の恋人1。―――プロローグ
それはドラマティックでも感動的でもましては悲劇的でもない
1つの電話から始まった恋の物語。
明確な始まりがあって、確実に終焉を遂げる限定された恋物語。
 
―――――
 
「私、鹿児島に行こうかなぁ」
彼女は電話口でそう呟く。
3回目の電話、鹿児島では雨が降っていて、京都では少し肌寒くなっていた。
「ははっ。そうすればいいよ。たまには現実逃避でもすればいい。鹿児島はね、現実逃避にうってつけの場所なんだ」
「どうして?」
「辺り一面溶岩に囲まれてるから」
「ステキ」
「灰が降らなければもっとステキだと思う」
 
彼女は京都に住んでいる。僕は京都のことをよく知らない。
高校の修学旅行で1度だけ行ったことあるけど何も憶えていない。
唯一憶えていることは京都のホテルで慣れないビールを飲んで布団の上で吐いたことくらいだ。
 
そして僕は京都と同じことくらい彼女のことを知らない。
知っているのは本名と、年齢と、どこか懐かしさを喚起させるその声だけ。
顔も職場も趣味も知らない。そして僕達を繋いでいるのは決まって深夜に掛かってくる電話だけだった。
 
「昨日ね、チケット取ったの」
5回目の電話の彼女の声はいつもより弾んでいた。
「ふぅん。誰のライブ?」
僕は故意にとぼけてみせた。何のチケットかなんて、何の想いが込められているかなんて
5回もの電話の会話で、ある程度察することができた。
 
「10月31日、夜行列車で鹿児島に行くことにしました」
 
彼女は壇上に立って重大な決意を述べるときのような口調で言った。
それは僕にとっても重大な決意を要するものだった。
 
「そっか……。それじゃ本格的に溶岩に囲まれて現実逃避をするってわけだね」
「そっちには1泊2日しかいないんだけどね」
「それじゃあ、観光案内をしよう。温泉にでも行こう」
「ホント!?ありがとう。なんだか恋人同士みたいだね。……2日間の恋愛」
「うん、そうだね。48時間の恋人だね」
 
現在11月1日午後11時。48時間の恋人は今、夜行列車に乗っている。
そして明日の朝、西鹿児島駅に到着する。
 
それはドラマティックでも感動的でもましては悲劇的でもない
1つの電話から始まった恋の物語。
明確な始まりがあって、確実に終焉を遂げる限定された恋物語。

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