日々のあわ
あかり 



 真っ当だと思うこと。

長男Rは絵を描くのが大好きで、嬉々としてお絵かき教室にも通っている。
金曜日はJGの仕事が休みなので、少し離れた教室まで彼が送り迎えをしている。

そして今日、長男Rは夫JGにひどく叱られた。
出かける準備をしているときに、長男が絵を描く道具を粗末に取り扱ったかららしい。
「道具を大事にしろ」とJGはとても怒った。

JGは子供達を叱るときかなり熱く叱るんだけど、必ずその後にじっくり子供と話をする。
何故怒ったのか、どうしていけないのか、こんどは静かにゆっくり話す。
子供達もしょんぼり聞いている。

このときも彼は帰宅してから息子に何故叱ったかをじっくり話していた。
私はといえばそんな二人のやりとりを皿を洗いながら知らん顔して聞いていたのだけれど、
ふと聞こえてきた話に思わず吹き出してしまった。






「大好きな絵を描く道具をなんであんな乱暴に扱ったの?・・・ボソボソ(このところ声が小さくて聞き取れない)
・・・・ネロだって絵が描きたくてしょうがなかったのに紙が買えなかったんだよ?
牛乳運ぶ仕事をしながら、もらった紙を大事に大事にして絵を描いたんだよ・・・そういう子も居るんだよ?だから云々・・・」







ふ、フランダースの犬?!

例え話がフランダースの犬だよ!
“そういう子も居る”って!(ゲラゲラゲラ・・・と下を向いてひそかに笑う私)

もう可笑しくてしょうがないんだけど、真面目に話している夫と神妙に聞き入っている息子を前に笑えるはずもなく。
こうして日記に書いてみた。

間抜けてるよ。だけどとても真っ当だと思うよ。
母もその場に居たら同じように叱ったと思うよ。

その後JGは皿を洗う私の横で何事もなかったように、
「今日のさ、Rの絵、よかったよ。すごくいいと思った。」と報告した。

脳内ではパトラッシュが走り回ってたけど、それは内緒にしておいた。






2005年01月30日(日)



 いのちの食べかた

【いのちの食べかた】森達也:著

「今の子供達って、魚が切り身で泳いでいると思っているんだって!」
「あはは〜ほんとぅ?まったく今の子供達は!信じられないねっ!」
「じゃあさ、ケンタッキーフライドチキン型の生き物がいると思ってる子もいたりして〜」

いつかテレビでそんな話を聞いた。
なんだか「今の子供達」が「呆れてしまう人たち」だと言わんばかりの言い方に閉口してしまった。

でもね、それは大人が教えてあげないと、語ってあげないと、知ることができないことでしょう?
家の台所で魚を下ろす場面は見ることがあっても、「動物を屠殺する」というのは身近にはないことだからね。
私だって一日何トンの牛や豚が人の口に入るために屠場へ送られるか意識して考えたことなかったし、
恥ずかしながら彼らが最後どんな風に命を終えるのかもぼんやりとしか知らなかった。そして、そこで働く人々の仕事について考えたこともなかった。

この本は小学生や中学生くらいの人に向けて簡単に書かれていて、メッセージも明確で、人はほかの多くの命を食べて生きているということをもっと知らなくちゃいけない。と何度も書いてある。

「じゃあ、もうお肉食べない。そんな可愛そうなことしない。」っていう話じゃないの。(最近なんでもこんなふうに解決しちゃう人をみるけど、そういうんじゃないんだよ。)
読み終えて、強烈に胸に残ったのは「知ることが大事」という著者のメッセージ。
鈍感になって麻痺してしまう怖さもあらためて感じました。

私は、子供達が自分で読めるまでは話して聞かせようと思う。そして、是非、多くの子供達に読んでもらえるように薦めたい。

それからね、「魚が切り身で泳いでいる」と思っている小学生なんてそんなに居るもんじゃないと思いますよ。
なんか、面白おかしく小ばかにしたように言われると嫌ですね。そんなふうに言う大人にも読んで欲しいです。





2005年01月24日(月)



 ソウルメイト

それは例えば旅先であったり、学生時代の他愛も無い日常であったり、命がけで企画したプロジェクトを遂行したときであったり、
誰かが死んだときであったり、自分が死にそうになったときであったり、様々な場面が考えられるのだけれど。

ある一時期にものすごく濃厚に人と関わり合うことがある。
もうそこに他人の入る隙は無くて、時間も空間も何もかも自分達のためだけにあるような感じ。
多分そんな出会いをして共にそんな時を過ごして、別れの予感もなかったとしたら、きっと「この人は私のソウルメイトだわ」とうっとり思うだろう。異性同性問わず。

だけど、そんな関わりあい方をするとかなりの確立で「別れ」があるように思う。経験上。
活き活きとした興奮状態でありながらどこかで「ここで別れたらもう二度と会うことはないだろうな」と醒めてみている、というか、解ってるような諦めているような気持ちがちゃんとあるのだ。不思議なことに。

そのくせ、私はもうずっとそういう「解っている気持ち」を見ない振りしてやってきた。
そんなことしても容赦なく離れてしまうものは離れてしまうのに、別れることに弱っちな私は“そういうこともあるのだ”と思うことができなかった。認めてしまえば楽なのに。


それが最近結構自然に受け入れられるようにやっとなってきた気がする。
どうしてだか、もう会えない人たち。たとえあってもあの時のような関係は築けないのも解っている人たちを私の日常から切り離す。

そう考えると、今わたしが営んでいる日常に、すでに決まっていたかのように当たり前のように居る人こそがソウルメイトなのかもしれない。
他愛の無い話しかしなくても何年もの歳月変わらず笑いあえる人とかね。

生きていく流れの途中でちょとっとぶつかる石みたいに、揺らいで刺激されて目が醒める。これこそが本来あるべき姿だと思い込む。
だけどしばらくするとまたいつもの流れに戻り先に進んでゆくのだ。

「あの石にぶつかることはもうないんだなぁ」と切なく思ったりしながら。


2005年01月09日(日)



 新年です。

事始諸々、こちらに書いてあります。手抜きでごめんなさい。
皆様本年もどうぞよろしくお願いします。

1日は夫の実家へ。
2日は自分の実家へ。

どーん。と正月太りをして帰ってまいりました。ごっつぁんですっ。

美味しい美味しい。母達の手料理は本当に美味しい。
自分のお雑煮も美味しいけど(笑)、彼女達のお雑煮はそれぞれとても美味しく、
芸術品です。

今日は普段あんまり見ないテレビを見たりしていました。
「化粧師−KEWAISHI−」がやってましたね。
映像の美しさに魅入ってしまいました。
大正の頃の文化風俗、本当に素敵です。着物の美しいことったらないですね。
ストーリーはちょっと甘いっていうか、いまいち全て掴みが甘い感じがして物足りなかったのですけど、俳優陣や衣装をぽわんと観ているだけで結構満足した映画でした。
お化粧が、今のメイクとは趣が違うというか、色っぽくて。
メイクセラピーと言われますが、まさにそれで、女達が化粧によってどんどん変わっていく。単純だけど女性とはそういうものなのですよね。
しかもあんな「職人」に素顔を委ねるその行為が色っぽい。女優さん方、演技なのかなんなのか、恍惚とした表情をされています。
私はですね、あき竹城さんにお化粧してあげたらいいのにと思って見ていました。
あき竹城さんの役柄、痛々しいくらいのいじめ役でした。

あぁ。もう明日から仕事が始まります。
早いな。
「飛躍」の予感もなく(暗)、淡々と幕があけた2005年です。
でも芯を強くする一年に、きっとする。それだけは思っています。




2005年01月03日(月)
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