FILL-MIND [フィルマインド]心情記 

   
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2003年06月28日(土)  ■同じ心■

自分と同じ顔を持った人は、世の中に三人はいるという。
自分と同じ心を持った人は、何人いるだろう。

人と人が全てに通じ合えるとは、触れ合いの中で切実な願望がつくり出した妄想だろう。寸分違わない理解を共有できる存在など、実際にはいない。

けれど、現実にはあり得ないと知っていても、通じ合いたいと願った気持ちがそこにあるように、出会いを幸福に変換させられる能力が、同じ心に気付かせるのだ。

輝かしい未来は新たな人との出会いにおいても、たいていは期待通りには進まない。
どんなにきらびやかに光っていても、近付いて触れれば真の姿には、裏も影もある。

でも、現在とはいつも色褪せた世界なのだとしても、そこには、多くの同じ思想を抱く人がいる。同じ安堵を理解する人がいる。同じ困難に立ち向かう人がいる。

それらの人の存在を肌に感じて、幸せの意味に気付く。

じわじわと芯に染み込んでくる一方通行の道で、私は今、同じ心を喜んでいる。



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2003年06月25日(水)  ■喜び■

その人の書く文章を読むと、いつも思ってしまう。彼は人に幸福を送る天才だと。

人の幸せな状態を垣間見れた時、なぜこんなに胸が暖かくなるのか不思議に思う。

「今、幸に満たされているんだ」

溢れ出てくる喜びの洪水に、周りもその波を感じて潤いを得る。
こんな刺激を受けた時、私は人と人を繋ぐ純度に感謝しないではいられなくなる。

ここで、書いてしまうのは気が引けるしおこがましいけど、

「あなたがそこで幸福に素直でいてくれるから、私もここで幸せを確認できた」

今、そう伝えたくなった。

できれば、私の言葉で、どこかで誰かが同じ波を感じてくれるような、そんな人間でいられるよう、今日を生きていきたいと思った。

幸せを感じとれる人に感謝したい。
出会えた幸運を喜びたい。
ありがとうと、伝えたい。



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2003年06月22日(日)  ■胡桃の家■

少し前に、一週間有給休暇をとって実家の片づけをした。
母の一回忌を先月終え、そろそろ本腰を入れて母のものを整理しなければならない時期でもあり、こればかりは放ったままではしておけない娘の役割なので、思いきって数年ぶりのまともな休暇をとった。

行き詰まっていた仕事づけの毎日からも、いい加減抜け出さなければ心がどうにかなりそうだったので、ちょうどいい機会だったと思う。

実家を大掛かりに掃除するのは、母が倒れた四年前と今回で二回目で、前の時は何かにつけ涙がこぼれて仕方なくて躊躇してばかりだったけれど、今回は感傷に浸り過ぎるでもなくこなせたのではないか。

てきぱきと、捨てる判断がつけられるようになったのは、リアルな記憶が遠のいたせいだろうか。それを寂しいと感じるよりも、やるべき仕事ができるようになった安堵のほうが大きかったことに、時は未来に向いているのだと思えた。熟す時期というものはそうやって、自然に訪れてくるのだろう。

片づけながら、林真理子著書の「胡桃の家」を思い出していた。
私は彼女の作品の中で、一番この短編集が好きだ。

実家は既に築二十年の分譲マンションで、物語りに出てくるような胡桃の油で黒光りする柱もなければ、歴代の骨董品があるような旧家でもない。

それでも一家族が積み重ねてきた歴史がそこには有り、父と母の若い頃のアルバムとか、年代ものの食器や道具などを発掘するにつけ、両親の作り上げてきた「家」を感じないではいられなかった。

母の人生は、この家で幸せだっただろうか?

箪笥に収まりきらないほどの着物や洋服の数々と、それらを着て嬉しそうに姪や甥の結婚式に夫婦で笑う写真を伺う限り、幸せだったと信じたい。

想いは継がれて行くものだという証しを「家」は物語っている。
手が真っ黒になりながら過ぎた数日間は、私の中にその意味を染み込ませた気がする。
「胡桃の家」で著者が描こうとした世界が、少しだけ理解できたのかもしれない。

一週間の休日は、自分にまともな精神を戻すに足りる時間だったのだと思いたい。





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2003年06月20日(金)  ■緩やかに生暖かい風は、どこかなつかしい■


自分に正直に真摯であり続けるとは、簡単のようでいて厄介な課題だ。

自分探しという言葉がノスタルジックに大衆的になって久しい。
多かれ少なかれ、人は問題を抱えているし何かに悩んでいる。

自分が何者かということさえわからなくなって不安に陥って。
いくつになっても、どんな立場にいても、誰でもが、つまづいたり立ち止まったりしながら歩いているのだろう。

人の不幸は蜜の味とささやかれるように、他人の悩む姿は悪意なしに、おいしく映る。
その言葉の裏にはその時、他人事で傍観していれば自分の現実を直視せずに自身を痛めずに、人の情感を知れる気軽さがあるゆえではないか。

相手の身になって考えるとは、突き詰めれば自分のためになっている裏返しだ。

外側の世界はめまぐるしく、気を奪われていると時間がたつのは早い。それは楽しい反面、時々浪費でもある。

自分を見つけ出し、正直であり続け、いつも真摯に立ち向かう。なんとも厄介だな…。


一応創作がメインなのに、半年以上まともにできない中途半端なFILLをこれからどうしていこうかずいぶん悩んでいる。

思いついた先が、やはり探求に行き着くので、今まで通り進めていこうと思いつつ、それをネットでやる意味があるのだろうか…と考え込んでしまった。

こんなふうにネットの片隅で思い悩んでいる人間が一人くらいいてもいいかと思いながら、少し忙しさから免れて、午後の仕事の合間に、久しぶりにさぼってここに書いている。

夏休みのような気だるい陽気は、梅雨が終わったのかとさえ思わせる。
夏の風がブラインドを揺らす、昼下がりのルーティンワークが過ぎていく。



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2003年06月13日(金)  ■恋路■

あまりいい趣味ではないかもしれない。でも、人の恋路ほど目を見張る展開はなくて、ついその行方を追い掛けてしまった。

近づいてはくっつき、脇見をしては離れ、また引き寄せ合い。男と女のあらましはいつの時代も大差なく繰り返されている。その時、傍観者な私は疑問詞や感嘆詞を織り混ぜながら、呆けてばかりになる。
むしろ、醜態に悔やんだり、衝突に迷ったりする人の姿に入れ込んでいる。そこには人としてあるべき情の宝庫に見える。

不思議と、流暢に解決策が想い浮かぶのは、きっと人のそれだからわかるのだろう。他人事のそれらに当事者だった頃の迷える自分を思い出し、心は火照る。

誰しもに、恋の悩みに悔やまないでいて欲しくて、悔やみたくないと念じている。
人を思って湧き起こる感情のひとつひとつは、それがたとえ嫉妬や自己満足やわがままだけだったとしても、決して悪ではないと思うのだ。一人の人間を想えた情熱こそ尊く、身勝手だとしても、恋に心が肥えたことを喜べるならば、決して影などそこには落ちてはいない。

傷つかない恋などなく、傷つけない恋もまたない。
人とふれあう時、穏やかさだけしか存在しない関わりなどあり得ないし。争いは好ましくないけれど、攻めぎあいの応酬に成長や進化が著しいのは人間の性でもあるのだから。

傷つけあうことも、怒ったり、感情があらわになったりすることも悔やむに値しない。そこにある出会いの幸運を喜こべる心を私はいつも信じていたい。

破れたり、ぶつかったりする愛情の不器用さに、何故か私は感傷的な祈りをこめたくなる。人を想う享受は、許容の深さを知るという答えが心に刺さる。

自分を許し人を許して、受け入れていくために、愛情という感情の盾を駆使して人は生き延びる道を見つけていくのかもしれない。

あなたたちも、そして私もまだ、生き延びている。愛情は枯れてはいない。きっと、人は許し合えるだろう。


 
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