FILL-MIND [フィルマインド]心情記 

   
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2002年11月30日(土)  ■ストイック■

もしもこれからの人生に、今ある持ち物の、たったひとつしか持っていけないとしたら、私は、創作ができる魂をと、乞うだろう。

安住も地位も、肉体すらなくていいのかもしれない。想っていられるなら、描いていけるなら、他は何もいらない。欲しいと願う浮き世の様々は、想う力で実らせればいい。人は微力な塊だけど、自分を信じていられる時、エネルギーは充分な力を宿す。

その強い信念だけを抱えていられるなら、幸福は身近に寄り添い続けるだろう。

偏屈なこだわりなど、ほとんどは持っているに値しないものばかりだ。

ストイックな生活。

果たして、本当のその意味を知る時は来るのだろうか。




Lost in logic * 3 * 更新しました→ FILL-CREATIVE へ


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2002年11月29日(金)  ■伝聞■


面白い記述に感じた作文。
発端はある作家がどこかで読んだという出来事。

『ある日本人が外国人の知人宅のパーティに招かれた時のこと。彼はリラックスが過ぎ酔いつぶれ、その家の寝室で深夜まで眠入るという失態をおかしてしまいました。起きて事を把握し恥じりながら帰宅後、しばし醜態と無礼の詫び方を思いあぐねたそうです。数日後のある夜更け、寝入りしなだった彼の自宅へ、そのホスト宅の主がほろ酔いにウィスキー瓶片手に、いっぱいやろうと前ぶれもなく訪れてきました。その時彼は、主の真夜中の訪問という無礼への怒りよりも、嬉しいと思ったそうです。失態を失態で返す思いやりに痛み入り感謝した。という暖かいお話。』

そのエピソードを私はあるサイトで読み、紹介者自身は、失態を失態で返せる度胸も度量もない時は、それ以外の場で目一杯に優しくしていようと、自分を戒めて締めくくっていました。快い結末。

暖かさを感じたのは言うまでもなく、その話と登場した両者の懐の厚さとに感じて書物に記した作家と、さらにはそれを紹介したサイトオーナー、またそれをここで書きたくなった私。

その感動の連鎖がたまらなく嬉しくなりました。胸打つ感動とは他の誰かの胸も打ち、繋がって人々に伝えられていく。素敵な伝聞。

言葉とはそうやって使われてこそ、その価値を発揮すると、私は思ってやみません。

少しでもその連鎖に加担できてとても嬉しい。繋げてくれた方々へ、ありがとう。


※参照サイト「真夜中のタクシー」 ※対象文11/27雑記より ※(要約:「ことばの力」川崎洋/岩波ジュニア新書)
濁りのない文章と、実物大の人を描く創作のあるサイトです。私の数少ない巡回サイトのひとつ。皆にも、ホッとできる場所であればいいな。

※創作の続きは明日、更新します。



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2002年11月26日(火)  ■ノスタルジー&パッション■

自分ではフィルに書いている物語りは、特に一貫したイメージングのもとに創作しているつもりではなかったのだけど、第三者的に眺めてみると、通して流れてるテーマがあることに気づいた。言葉の後ろにある背景は 「郷愁と情熱」 そんな感覚。

感謝と感動を伝えるために書く衝動に勢いをつけてきた。
書いていける日々は、結果として実に楽しいと、やっぱり思える。
私は、自分が感動したくて、創作が沸き起こっているのだろう。

もちろん根を詰めた創作には、自らの破片を削ぎ落とすような苦しさにみまわれる日もある。そこを超え書き終えられて、大きな安堵と喜びが胸に立ち上るものなのだけど。

いや、まだ、そんな感想を書くには分不相応な自分だった。
私にはまだ、これから佳境を書かなければならない。ただいま連載の出筆中。

第二回目更新しました。どうぞ、クリエィティブをご覧ください。
お立ち寄りありがとうございます。

Lost in Logic * 2 * はこちら



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2002年11月24日(日)  ■創作開始■


やっと、書きはじめています。(連載です。GREATIVEにて先行更新していきます。)

一番感傷的になれる秋に、ペンを置いてしまうとは…。

一日、一週間、一年。巡るサイクルの中で、書き続けることの大変さ。
私のように感受性の激しい性格では、とてもしんどいことだと実感しました。

WEBで書くことを覚えてから、私は随分と創作へのスタンスが変わりました。
職業作家を目指す人たちの、真剣な姿勢にも圧倒されたし。


ずっと過去の書けない時期を、一生に一度の大作を書くために熟成の時が与えられているのだと思っていました。

もしも、その過信に従うならば、きっと今は熟れた実を放出する時だと思います。
やっと、スタートラインに立つ資格を得たのだとも受け止めています。


純文学とは商業生産物とは違い、テクニックだけではない、着眼点だけでもない、何かが加味されていなければ、完成されないものと私は思います。
その何かとは、言ってみれば魂みたいなもの。
そこが、作家が芸術家と呼ばれる所以ではないのでしょうか。

なんてことは、同類項の作家達は当たり前に語っていることで、わざわざ私が繰り返すものでもないですが…。


魂を磨くために授かった感受性と、与えられた様々な想いの発端。
それらを還元するために、私は文章を芸術へと結び付ける役割を担う。

私が創作に向ける極める意志は、その一点のみ。

書く度に確認し、諦めるまいと思い起こされます。

そんな、回りくどい私の文章ですが、好む方はどうぞ楽しんでいってください。いつもありがとうございます。









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2002年11月17日(日)  ■着実に進む道■


強がりで意地っ張りで、奇異で極端。
それらはマイナスな性格である反面、強い個性をつかさどる要素でもある。裏を返すと、頑固で情熱的で、ユニークなこだわりとも、言えるのだ。

本当は、そんな裏腹な自分の性格を今さら記すまでもなく、十分すぎる程私は自分を知っていた、と思う。それくらいの経験と試練くらいは、人並みに越えてきたはずだ。

それでも自分を見失って深刻になり、わかっていながら、深く傷付いたり、傷付けたり…。さらには、理解を得られない幻滅に、自分をかばうように綴りたくなってしまった。そんな、救いようのない愚かな自分を知って、今、情けなく思っている。
9月16日の設立以来、ここ心情記で愚痴のような心の趣をここまで書き連ねておきながら、反省するのはあまりに遅すぎるけど…。

詰まるところ、窮地から救いあげてくれるものは、自分の足下以外にはない。未知の世界からでもなく、新たな出会いからでもなく、ましてや救世主が現れるわけでもない。
自分が自分で、自分のいる場所を認め、自らを知り、縁強く繋がる人たちを信じる以外に、救いはどこにも存在しないのだと思う。

こんな愚かな自分につきあわせてしまった今までを、とても恥じている。もっと、もっと、私は真摯でなくてはならない心が沢山ある。純粋に深くありたい。と願う。

そして、いつもいつも思う。こんな私を心配してくれる、気にかけてくれる行為に、感謝が尽きない。
できる限り、私の持てる力を尽くして、その暖かさに、優しさに、感謝を伝えていきたいと、誓う。

自分自身が幸せに生きていくこと。諦めないこと。私らしく居続けること。心の深層に辿り着いて描けること。
それが何よりの、理解と出会いへの恩返しになるのだと、信じている。

そう思えた、今、創作はまた果てしなく深いテーマを私につきつけた。

時間はかかると思うけれど、いつか、達成すべきものに行き着きたいと、今はただ、着実に前に進もうと思っている。





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2002年11月14日(木)  ■不条理■

どうしてこんなに貪欲なのだろうと、時々自分を思う。

皆大切で、皆失えない。今、手の内にあるものだけさえ途方に暮れて嘆いているのに、新たな出会いは絶えず私に可能性を挑む。
その都度、与えてくれる何かを得ようと止まない。傷つくことも悲しむことも知っているのに、何故いつも愚かさを繰り返すのだろう。

訪れるものすべてが欲しくて。
縁あって出会えたわずかな理解者を、本心から誰も失いたくないと願ってきた。失わずに吸収し続けられる方法を模索するのに、感情はいつも邪魔をする。失うように仕向けていく。悲しみは責める。

何かを代償に何かを失うという考え方は私は本質的には嫌いだ。
何かにとって変われるものなど、始めから継続に値するものではなかったと考える。何者にも変えられない価値というものを尊ぶ。あるいは、その時の役割を終えたから、自然の摂理のように、失われていくのだと思う。

逆の立場なら、私ではなくても良かったから、始めから私がそこにいる必要はなかったのだろう。あるいは、私の役割はまっとうされたから、離れていくべきして離れていったのだ。

失えないと足掻く時、それを醜態だと私は思う。思うのに足掻く。人は不出来な生き物だから。よけいに悲しさが増していく。

人の出会いにある不条理。失わせる仕組み。迷い。悩み。
私は貪欲な自分を、考えざるを得ない。



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2002年11月12日(火)  ■仕事のこと■


どちらかと言えば嫌いな所の方が多い。私と言えばいつも生意気で、はむかったり、怒らせたりばかりだ。従えなくて、悔しく泣いた日も幾度もある。

それでも情熱的な意欲、ひたむきな姿勢、諦めない粘り、すぐに起き上がる不屈の魂。

私はそこから多くを学んだ。また、こんな私から多くを吸収してくださった。

人との信頼ってそういうものだと知る。

そういう人の下で私は仕事をしている。私は人知れずそれをとても感謝している。関わる少しでも多くの人たちに、知って欲しいと願う。私の生きている場所。情熱の在り処。その場所の良さを。

私は仕事が好き。周りの人たちのこともちょっと嫌いだけど好き。

それが伝われば嬉しいと思って、今日もこの場所で頑張っているのだ。と思い出された月曜日。




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2002年11月10日(日)  ■リニューアル■

エンピツ日記サイトに、なんでも詰め込んできた「FILL」ですが、かなり無理を通したサイトづくりをしてきました。そろそろ限界だったので、やっとそれなりのサイトをつくるに至りました。

ここまで仕上げるまでに、参考にさせて頂いたサイト、触発されたサイトには、感謝がつきません。と言っても勝手に参考にさせてもらってたのですが…。

また、10月31日から更新はストップさせていましたが、更新はせずとも、ほぼ、毎日、何か書いていました。日常の忘却防止と、感情の趣を残しておくためと言うべきか…。

空白にしておくのも勿体無いので、全部あげておきます。
お読みになりたいもの好きな方は、一覧表示でどうぞ。 → FILL-MIND 2002年11月一覧

 

さすがの私も、いささかお疲れな休日。創作物にたどり着ける日は相変わらず遠そうです。これでは本末転倒ですね。……。

リニューアルは果たしましたが、今まで通りのんびりやっていきます。
それでは、皆さんよろしくお願いします。


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2002年11月09日(土)  ■復活へ・刺激の人たちへ■

--良い人になりたいと語った人。
知った時からいっぺんにその世界が気に入って、つくり出す文章に自分と同じ感覚を感じてもっと知りたいと思った。想いを伝えきらない前から、恐れをなして下心な媚びに恥じて、気弱な臆病さは、こっそりと覗き見に甘んじる。巧みな類似を喜んで、密かにセンスをいただいて。影響される出会いとは、いつも秘め事のようなドキドキ感も一緒についてくるから、そんなスリルも楽しんだ。

--文章はテクニックだと言い切った人。
高飛車な言い回しは敵を多くつくるタイプだったけれど、センスは抜群に良くてその自惚れを納得した。自分を偽らずにさらけ出せる強さに惹かれて、私も創作を続けようと奮いたった。今も、私はあいかわらず反論できる術も持たずに、地団駄 を踏んで彼の高飛車ぶりを眺めている。この悔しさと劣等感は、どれ程やる気のこやしとなっただろうか。

--ただ心の深層を解き明かし、なぐるように綴っていた人。
文章が優れているというわけではないのに、人を引き込ませる訴えは半端ではなかった。そこからどれ程の勇気と意欲を分けてもらっただろう。刺激がこぼれ出して、創作欲が止まらなかった。激情のままの、極端過ぎる自分の露呈から、激しさの裏側にある切なさを知る。私はいつもそこをみつめて書きたいと感じているのだと思えた。

--ひたすらに毎日創作を続ける人。
もの悲しい心の奥をあっさりと言葉に変換させてしまう、その世界に魅了された。圧倒されて感動して、創作とFILLへの想いに火がついた。影響されて、劣化コピーのような稚拙な文書もいくつかつくって…。勢いは到底、真似できなかったけれど、人の可能性の深さを思った。私にもできると思える勇気をもらって、FILLをつくってゆけた。

*  *  *
この一年で創作の出会いを思った時、彼等のことを思い出します。出会って、感性を奮わせて、刺激を受けた人たち。

FILLに上げてある文章に少なからず影響を及ぼしています。出会えなければ私は書いてゆけなかっただろうし、FILL開設もありえませんでした。改めて感謝をここに記しておきます。 (&念じておきます。)

しばらく、書けなくなってしまったのは、あまりに早い喪失の速度に、得ていく喜びが追いつかなくて、言葉が重いだけの代物にすり変わってしまったから。

感性とは、辛子みたいなもので、辛味で旨味をひきだすことと似ている。食べなければ加減も覚えず涙の出る辛さも知らずにいられるけれど、知ってしまってからは、それがなくては味気なく美味しさは半減してしまう。 淡々と同じ旋律を弾くメロディは落ち着いていて好き。でもエッジのきいた鋭い音は心を弾ませる。 みな、それらと同じ。

感動と勇気と想いを分けてくれた人たち。ネットで知ることのできた機微。いつか誰かに私も返せるようでありたい。その感動の分をきっと。

また、この気持ちに立ち帰って、また書いていきたいと思えるようになりました。待っていてくれた皆様ありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いします。





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2002年11月08日(金)  ■怖いもの 震わすもの■


スプラッタムービーといわれる、血ばっかり一杯出る映画は私は好きではない。

とは言え、わりとストーリー性のある怖い映画は好きだ。
それも深夜、真っ暗な部屋で独りで画面に向かう、なんていうマニアックな見方を好む。
「リング」を見た時、私は自分のそんな変癖を知ることとなる。本当にあれは怖い映画だったから。


「リング」のハリウッドリメイク版が先週の土曜より公開されている。早速会社の子が見に行ってきたらしい。

ハリウッドと言えどあの怖さ加減は本編には敵わなかったらしい。貞子役も可愛くて怖さ半減だったそうだ。
やっぱり。CMからしてあまり怖くなかったし。

でも、怖いもの見たさを地でいく私はそっちも是非見たい。
劇場では思う存分怖がれないだろうから、ビデオが出るまで待ってみようかとも考える。そのうち見るのを忘れるパターンの可能性大だけど…。

テレビなどで、思いがけずに偶然見てしまったというのは、また怖さを増す。
確か「ペットセメタリー」を深夜眠れない夜に何気なく見てしまった晩もそうだった。

あの時はあまりに痛くて凝視していられず、たまりかねて途中で消してしまった。でも気になってますます眠れなくて、結局つけ直して最後まで見ることとなった。

季節はずれな恐怖ムービーなど、ますます寒さが増してしまいそう。

人を笑わせることも大変な仕事だけど、人を怖がらせるのもかなり大変な仕事だと思う。
エンターテイナーとは、いかなる場合も容易くはないものだ。

人の心を震わすもの。震わす言葉。究極の恐怖にも笑いにも共通するそれら。
恐いけれど見たいと思う気持ちは、そんなところに本質があるのかもしれない。

心を動かされる感覚とは、なんであれ日々を潤わすことに欠かせない重要な要なんだと私は思う。


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2002年11月07日(木)  ■幸の鍵■


人は誰しも、選んだ場所で選んだ人と選んだ生き方に模索する。

ある時、そこは意思にそぐわず運命が決めた行く先かもしれない。
不可抗力に流されて、たどり着いたのかもしれない。

それでも、自分にしか舞い降りなかった人生を、自分だから歩んでいるのだ。
それは試練でもあるし、また喜びにも成り得る。

私はずっと、このロジックたったひとつを解き明かしたくて、言葉を探し歩いているのだと思う。

絶壁に咲く一輪の花のように、誰にも認められない力強い幸を、知る人間でありたい。
なぜそこに生きるかの意味を説いていたい。なぜ出会わせたのかを知りたいのだ。

もう目前には、雲を超えるような聳える山しか残っていないけれど。私はそこを登り続けていたい。

やっと片隅から、瀕死の心を拾い上げてきた。この想いを無くしてしまわなくて良かった。と安堵する。

訪れるチャンスを迎合して生きよう。
どんな運命だとしても、選ぶ鍵は、何者でもない自分自身がいつも持っているのだから。


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2002年11月06日(水)  ■富士の朝■


今朝、通勤電車から富士山が見えた。
こんな雲のない快晴の日には、車窓から覗ける遠い彼方に、うっすらと頭を見せる。
満員電車の乗る位置も重要で、窓際で後ろ方面を見通せる所をキープできないと、ビルの間をくぐるそれに出会えない。

富士が何をしてくれるわけではないけれど、会えた日は嬉しい。
決して移り気な変化で人を悩ませない。不動にそこに居続け、その日の運を占うようにこっそり顔を出す。

今日はいい日であれと白い頂きに祈った。
降車後の足取りは少しだけ軽いような、そんな心持ちだった。




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2002年11月05日(火)  ■11月の人■

かっこよい人だった。

きっと今までに胸を焦がした恋の数も、ひとつやふたつではなかったのだろう。とても雄弁で感動屋で激情家だった。

想いへのひたむきさに夢中になった。話好きで寂しがりやのくせに、人とのつきあいが下手でいつも傷ついてばかりいた人。彼の姿に自分の分身をみつめて、胸を痛めた時も幾晩もあった。

11月になると思い出す。なつかしさと淡さと。胸に広がる想い出の人。
この頃の季節は温泉に浸かって痛めた腰を癒しているかな。

遠い空の向こうの、幸せを祈っていたい一人だ。
素直になれないままでごめんね。今も私は同じように、同じ失敗に悩んでばかりいるけれど。

同じ悲しみは抱かずに生きていて欲しいと、切に願って。天高く秋を仰いだ。





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2002年11月04日(月)  ■個性の文化■


類は友を呼ぶ。という言葉がある。

かっこいい人の周りには、かっこいい人が集まっている。

サイトめぐりなるものを、ここ最近、遅ればせながらしていた。
らせんのように連なっていくサイトを追い掛けていたら、世の中の人たちは凄い、という感嘆に行き着いた。人の生み出す創造力は底知れず尽きることがない。

WEBサイトの特徴のひとつを、リンクだと言う人は多い。
そのサイトがどこに繋がっているのか、どう繋がりをつくっていくのか。
文章を読むよりも雄弁に性格を物語っている側面が伺える、と言うのだ。

なるほど、私もそう思う。センスのいい人には、本当にセンスのいいサイトが貼られている。

おそらく、そこまでクリエイティブ魂に長けている人は、サイトをつくるすべてのパーツが、センスを物語る重要なファクターを意味しているのだろう。

隙がなく、余念がない。

そして万全に抜け目なく、自サイト紹介にも力を入れている。
組写真で有名なあるサイトには、目からウロコと言うか、思わずため息のこぼれる感動と出会えた。10ページ程度からなるアバウトページを順に開いていって、最後のページに辿りついた時の強烈な印象は、脳に焼き付いて離れない。天才とはこういう人をいうのだろうと思う。

飽き足らず惜しみ無い個性の流出。

文化は着実に新たな風を個人に宿している。インターネットの世界はなんと奥が深いことか。
そんな時代に私は、生まれてこれてよかったと思う。

なんだか、FILLのやっつけデザインが恥ずかしくなってきて、非常に触発もされた。私にもわずかに残っている創造魂を駆使して、全体をつくり直したい意欲にかられたのは言うまでもない。果たして、やる気がついてくるかが、問題だが…。

ま、その前に、置き去りになったままの言葉たちを、もう一度綴ってゆける自分自身の心を取り戻さなくてはいけない。

失語症の子供のように、冷たい部屋で凍っていく心を重く抱えてしまう時、希望はどこにも姿を見せなくなる。ひざ小僧を抱えて、じっと時の刻む音だけに耳をすましていた。

これからも、また同じようなやりようのない切なさに何度となく襲われるだろう。
また、同じように、止まらない涙に心が占領されてしまうだろう。

それでも、いいじゃないか。と思う。それが私なんだから。せめて私くらいは、自分を心から愛していよう。裏切らず、傷つけず、絶対的な愛情を自分に注いでいよう。
きっといつか、心ある出逢いが、人が、夢が、救いだしてくれる日もくるだろう。世の中、そうそう捨てたものではない。

私にだってまだやれる、きらびやかな個性に圧倒されて思う。
私にしかできない、私自身を必要とする、出会いのために。
きっと書ける。きっと書きたい。私自身を震わすもの。

個性を育むこと、それ以外に生きていく証など、何で示すというのか。強く生きたい。



※こちらは、11月4日に書いて、10月30日の欄にアップしておきました。この時、停止宣言をといて復活するだけの自信がなくて、ひっそり更新しました。みつけたFILLフリークの方はいるのでしょうか?(そんな人いるわけないってか!)というわけで、消さずに10月30日のページにもアップさせておきます。



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2002年11月03日(日)  ■秋を想う空■

雲に飲み込まれそうな高い空に、秋を思った。
ちっぽけな悩みなどとって足らないというように、広く雄大だった。

よく行くサイトの若い彼が、例えば自分におきた不幸な出来事を、簡単に笑い飛ばしていられる人になりたいと言っていたっけ。その真意には、悲しみを感じない冷たい人だと思われるのが喜びとでも言いたいような意図を含ませる。私もきっと二十歳の頃には思うことが沢山あった。もう忘れてしまった数々。

置きざりにしてきたものは、気付けば沢山になってしまった。それでも次から欲しいものが増えていく、窒息しそうな今がある。人はどこまで貪欲になれるのだろう。人はどこまで欲に真摯にいられるのだろう。

妥協することは簡単だった。諦めてしまえば全ては終わる。そんなことで壊れてしまうなら、全部壊れてしまえばいい。柔な心なんて。壊れて無くなればまたきっと生えてくる。


本当は、強がりを言う心中はズキズキと音をたてて痛みを訴えている。水を敷き詰めた器にあるように、ほんのわずかな振動で、こぼれだす時を待っているよう。

不安定な心持ちは良いとは思わないけれど、痛い時は痛いと、悲しい時は悲しいと、辛い時は辛いと言えることは、生きていられる恩恵だ。

心のままを偽らないでいる。沢山を失った代償に私が得てきたものだった。それを見失ってしまったら、今まで何を失ってきたのかわからない。貫いていって、傷つけたものたちへの私自身の報いでもあるというのに。

揺るがないはずの信念を簡単に放棄できるなら、悩むべきではない。妥協した先にある迎合など破綻して当たり前だった。

取り付かれる寂しさもやるせなさも切なさも、信じる気持ちがきっと救う日があるだろう。邪心は必ず抜け落ちる時がくる。

ちっぽけな悩みと笑い飛ばさなかったおごりと過信。

もしも、嬉しい時に嬉しいと、楽しい時に楽しいと、喜びに喜んでいると欲もなく語れていられれば、矛盾な悩みに陥ったりせずにすむのだろう。

夕焼けが私を諭していく。明日を力強く生きていたい。





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2002年11月02日(土)  ■陳腐な想い■

それを恋愛と呼ぶにはあまりに貧しい。ひたむきというには、あまりに陳腐。

沸きたつ欲望の赴くままに、その場の激情のまま、心も想いも、とってつけたようなそれら。時間の共有だけが至極だった。

芯にあるものに目を向けられなくとも、耳を傾けられなくとも、受け入れられなくとも、応える術すらなくとも、人は恋しさに寄り添って過ごしていける。

なぜ、心は気付くといつも、波打ち際に寄せられてしまうのだろう。なぜ、人は安住を望むのだろう。切なさと哀れさと。既に偉そうな言葉で許される時は過ぎていて、口寂しい語り癖は消えない。

安っぽいセリフに恥ずかしくならずにいられるのは、つまらない感覚ばかり尖ってしまったせいだろう。心にしまった伝えるべき言葉たち。吐き出せる日に辿り着けるのだろうか。

恋も信念も自分も、履き違えてしまわないように。想いの存在を無くしてしまわないように。真意に出会うチャンスを見逃さないように。生きていたい。

濁っていない情熱が、その場所に生まれ出でくるように。





 
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