独白「文字式」

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2002年06月30日(日) 呼吸を止めて(後輩の演奏会を見に行く編5)

先日の日記で、「オルケスターは美しい」などと
普段は使わないボキャブラリーを用いて
(そのため、めちゃくちゃこの日記を仕上げるの
時間がかかってしまった・・。)
熱に浮かされたようなことを書いてみたが、
今日は具体的に話を展開する。

まず、その美しさを形作る要因として、
プレイヤーの衣装をあげたい。
彼女たち(たまたま女子大だった)は、
白いブラウスと黒いスカートに身を包み
しずしずと舞台にのぼっていく。
舞台、というはりつめた空間に
モノトーンの配色が実に映えるのである。

また、衣装だけでなく、
その立居振る舞いも要因としてあげたい。

マンドリンプレイヤーは
席に座るやいなや足をさっと組み、
楽器を小脇に抱え、
指揮者のタクトが動き出すのを待ち構える。
緊張からか、背筋はピンとはっている。
この光景が、なんだかすがすがしい。
プレイヤーの緊張が、客席にも伝わって
演奏が始まるまで、ついどきどきしてしまう。

また、客席からは
プレイヤーの横顔が見えるのだが、
彼女らは銘々、指揮者や譜面台を
真剣な、そして緊張感に溢れた眼差しで見つめている。

そう、ステージの美を形作るもっとも大きな要因が
この、真剣で緊迫した若人の横顔なのである。

めったに見れないよね、真剣な横顔って。
(深刻ってのは意外と見る機会があるんだ)

で、なんでこんな力説をするのかというと、
例え、音楽に興味が無くても、
その美しさを見に、ぜひ、
お近くのマンドリンオーケストラのコンサートに
足を運んでいただきたいからである。
(横顔を見るだけでも良いもんですよ。)

ステージの美を作り上げるもの、
それはモノトーンカラーから溢れる緊張感。
プレイヤー、そして観客までもが
静寂の中、一体となって
白いタクトが宙を舞う瞬間をまつ。

そして、指揮者がタクトを操るやいなや
いままでの緊迫した空気から、
感情が解放され、音楽となって溢れだすのである。

ライブはやっぱり良いもんだねえ。


2002年06月23日(日) 先輩モード(後輩の演奏会を見に行く編4)

(味が)想い出の喫茶店にて
腹ごなし、というには尋常じゃない量を食べおわり、
(サラダとチキングラタン、2100円、優に3人前はあった。)
いよいよ演奏会に赴くこととなった。

道中、手土産(お菓子)を買い、
演奏会場の受付をしていた人に手渡す。
普通なら、手渡した段階で、
「どなたへのプレゼントかがわかるように、
こちらのシールに、お名前など書いて、貼り付けてください」
などと、声がかかるのだが、

なんだかはっきりとしない対応をされて、
「いまどきの若者は」と説教したくなる。

こんな瑣末なことで腹を立てるとは、
人間の小さいやつめ、と
おっしゃる向きもあろうかと思うが、

もう演奏を聞く前段階で、すでに
「先輩モード」に入っているため、
必要以上に目を光らせて物事を見ているため、
つい、瑣末なことも気になってしまうのである。

ここで、「先輩モード」について説明しよう。
「先輩モード」とは、
過去に自分が経験してきた出来事と同様なことを、
現在実行しようとしている後輩に対して、
「自分のほうが既に経験を済ましている分、
後輩に教えられることがあるに違いない」
という強い思い込みのもと、
必要以上にあら捜しをしたり、ついには
説教をしたくなってしまう心の状態である。

この、「先輩モード」の際に発せられた言葉は、
主に、昔の経験則に基づくものであるため、
同じようなイベントでも、環境や状況が異なっていると
役に立たない意見だったりすることがままある。

しかし、後輩は、後輩であるがゆえに、
「先輩モード」トークをよく聞いてくれるため、
先輩は、しゃべればしゃべるほど、
「先輩モード」が増長していき、
完全に説教になってしまう、という厄介なものである。

ただし、時には、
古くからの経験則が、役に立ったりもするので、
「先輩モード」を完全に否定することはできないのだが。

(で、個人的には「先輩モード」に入りやすいので、
せめて、人への気遣いとユーモアだけは忘れないようにしよう、
と、自戒を込めて記しておく)

さて、
受付を済まし、開演のベルが鳴る。
楽器を片手に、しずしずと席につく
若きオルケスターのメンバー。

ううむ、美しい。

自分で弾いてる時はわからなかったが、
ひょっとしたら、とても美しいことをしていたのでは、
などど、ふと思ったのであった。

次回の日記は、開演時に感じたこの感覚について、
もすこし詳しく書きます。


2002年06月17日(月) 空腹讃歌(後輩の演奏会を見に行く3)

トイレで腹を立てたりしながら、
かわいい後輩の演奏会での健闘をイメージしつつ
平静を保っていた私なのであったが、
演奏会場に向かう前に、学生時代よく通っていた
サ店で遅めのランチをとることにした。

全然本筋と関係無いが、
この「さてん」って響きはなかなか気持ち良い。
カフェ、よりも、喉の乾きがおさまる感じがする。
文字にしてみるとなんだか変だが。

で、そのいきつけのサ店行った理由なのだが、
学生時代の思い出に浸りたいから、というわけでなく、
非常に食べ物が美味しいからである。

例えば、その店では、
スパイシーな味わいの中に、トマトのひき肉のうまみが
十分楽しめるキーマカレーや、
良質の牛乳とチーズをたっぷり使い、
口あたりが滑らかで優しげな味わいのグラタンや、
クリーミーな舌ざわりと酸味が上品な
自家製マヨネーズでいただけるサラダ、
などがいただける。

しかし、そんな絶妙で、繊細な味わいの店なのに、
その基本的な味わいだけが繊細なのである。

量の側面から料理を検証してみると、
ツナグラタンを頼めば、多きなグラタン皿の白い海のまんなかに、
缶そのままの形のツナが浮いている。
パスタ(味は非常に美味しい)も
食べても食べても麺が汁をすってなかなか減らないし、
なぜか、にんにくまでもが大盛りサービスになってたりする。

また、塩分濃度にものすごいばらつきがあり、
日によっては、塩気を感じさせないカレーやグラタンが出てくる。
塩気の無いグラタンは、暖かい牛乳の中に、
柔らかいマカロニが浮いているようなものだ。

なぜ、基本はしっかりと美味しいのに、
レシピが破天荒なんだろう…。

でも、なんだか癖になる味なので、
近くに来る用事があると、
行きたくてしょうがなくなってしまうのだ。

ちなみに、店の雰囲気は、
レンガ通りにただずむ、隠れ家、といったような
シックでおしゃれな感じであり、
店の中は、ステンドグラスが飾ってあったり、
バックミュージックにはジャズが静かに流れていたりと、
実に大人の雰囲気なのである。

そんなおしゃれで上品な雰囲気の中、
出てくる料理が、顔くらいの大きさの皿に盛られたグラタン。

変な店だよな。

多分、次の日記こそ、
マンドリン話が出てきます。


2002年06月13日(木) 白い妄想(後輩の演奏会を見に行く編2)

過去の甘美に浸るべく、
後輩のマンドリン演奏会に行くことにしたのだが、
演奏会の会場は、自宅から電車で2時間くらいのところである。

2時間、小旅行じゃねえか。
旅といえば、グルメと出会い、って事で、
昔良く通っていたサ店によって、美味いものでも食べてから、
良い音楽でも聞こう、とちょっと家を早く出る。

後は出会いだけだな、ふふん、
なんて思っていたら、
出会ったのである。

嫌な出来事に。

それは、道中でのトイレのことであった。
乗換駅でちょっと所用でトイレにむかったのだが、
4、5人のおっさんが、床掃除マシーンをだらだらと動かして
トイレまでの道を磨いている。

まあ、なんだかみんなやる気がなさそうだけど、
おそらく、その仕事は1人でできそうだけど、
でも、お仕事ご苦労様だなあ、なんて思いながら、
用を足しに白い陶器に向かっていくと、
そこには、社会通念上はいらっしゃるはずの無い性別の方が
一生懸命、白い陶器を磨いていた。

おおっ、恥ずかしい。
でも、ここで足さねば、脳内に毒素がまわってしまう、
と、やきもきしながら、
ちょっと離れたとこで用を済ましたのである。

その時は、なんぼなんでも、女の人の横は恥ずかしいなあ、
くらいにしか思わなかったのだが、
身体のすっきりと共に、頭がすっきりしだすと、
むくむくと怒りが込み上げてきたのである。

「ひまそうにしてたおっさん、お前が磨け」と。

正直、掃除業務の事情等はわからないので、
これからの主張は、誤解かつ偏見に満ちたものになってしまうかもしれないが、
あえて続ける。

怒りと共に、なんでおっさんが磨かないのか考えたときに
ひょっとしたら、マシーンは男の仕事、
磨くような細かい作業は女の仕事、っていった
決めつけによる分業が暗黙のルールになっているのではないか、と思ったのである。
だから、たとえ、どんなに暇そうでも、おっさんは便器を磨かないのでは、と。
そして、仕事の多寡にもかかわらず、
女だから、男だからって理由で、思わず賃金格差があったりしてと
思いこみは膨らみ。

差別的で不合理極まりない仕事の分配が、
お客様(トイレ利用者)に不愉快を与える、というその無駄さ加減に
なんだか、気持ちが重くなったのである。

杞憂だったり、
ただの妄想だったらいいんだが、でも
結構日常で不合理な無駄って多く無いか?

ああ、どんどん日記がマンドリンから離れていくが
次の日記は戻って行く予定。


2002年06月09日(日) 追憶(後輩の演奏会を見に行く編1)

「千葉県民の会」編、「ぽえざる編」と、
日記というよりは「ぽえむ突撃レポート」の様相を示している
当コンテンツ“独白文字式”ではあるが、
今日からは、詩からちょっと離れて、
5月初旬にあった後輩のマンドリン演奏会について記載する。
今日の日記ははいきさつ編。

ところで、マンドリン、というのは、
びわ、のようにちょっと丸っこい形をしていて、
てろてろてろてろてろてろてろてろ、と
高音で切なく青々しい音を奏でる楽器なのだが、
私は、学生時代にマンドリンオーケストラ(マンドリンクラブ)に所属していて、
そこで、マンドリンを演奏していたのだ。

学生時代、私がどうやってマンドリンを弾いていたかというと、
楽器を懐に抱え込むようにしながら、
メロディーに合わせて揺れまくる(まわりがあまりのってなくても)、
という実にはた迷惑で激しい演奏をしていたのだが、
こういうふうな弾きかたになったのは、
元来からの性格の、節操の無さと享楽的な部分が大いに影響している。

と、いうのも、
当時、ものすごい演奏が上手な楽団の楽団員が、
身体を実に愉快に揺らしていたので、
あ、おいらも揺れたら上手くみえるかしら、なんて
節操も無く真似したのがきっかけであり、
そうやって楽器を弾いてみたら、あまりにも楽しくなってきたので、
楽しいことはどんどんやってみよ、というような気持ちから、
過剰なまでに揺れるようになったのである。

こんな風な事を書いていると、
詩はあんなに厭世的なのに、演奏はずいぶん熱情的ではないか、
(実際、「ハンペン工場の歌」という詩について厭世的と言われた)
と驚かれる方もあるかもしれないが、
「想い」を表現するツールという点では共通する詩と音楽でも、
音楽は、音の波が直接身体を揺さぶるので、
身体からわきあがる情熱、をあらわすのに良い気がするのであり、
必然演奏していると熱を帯びてくるのである。
(それと比して、詩は、個人的には、
頭の奥からにじみ出るような感覚があり、
同じ想いでも、思想に近い部分の表現に適している気がする。)

で、学生時代のマンドリンオーケストラ(クラブ)の想い出が、
甘く美しい(笑)ものであったので、
過去を思い出し、甘く美しい(笑)想い出にたゆたうべく、
後輩のマンドリン演奏会を見に行ったのである。


2002年06月02日(日) ラララ(ぽえむばざーる編17)

長きに渡って書きつづけてきた
ぽえむばざーる編だが、
最後、総括的に旅を振り返って終わりとする。

まあ、旅を降り返る、といっても、
「良く食べ、良く話し、良く笑い」の愉快な2泊3日であった、
の一言で十分なのであるが、
そういいつつも、詩に深くかかわったのは事実であり、
今後のポエム人生やホームページ運営の刺激になった。

で、なにが刺激になったかと言うと、
「行為には結果がともなう」ってことの
再認識に尽きるのである。

ぽえざるに参加したことで、
実際に詩集を間近に読んでもらえることを体験出来たし、
自分のホームページや投稿した詩を見ていただいた方から
「あ、見たことあるよ」なんて声を実際に聞けたりした。

ああ、自分のやっていることが何かしら影響があるもんだなあ、
と思って自分の活動を振り返ってみると
詩集のあとがきで、照れ隠ししてみたり、
自分のホームページのリンク集はやたらデッドリンクが多かったりと、
やたら自分の中途半端な部分が見えてきたりもして、

なんかやったら、なんかが起こるんだから、
なにかをやると決めたら、
きちんとやろう、って思ったのである。
で、私の場合は、
詩を書きたいし、書く、と決めたのだから
きちんとやる=きちんと詩をかく、なのである。

では、きちんと詩を書く、ってどんなことだろうか。
こういう問いかけは、
詩とは何か、って概念に直結することなので、
自分のものの見かた、考え方によって
つねにぶれて行くものだと思うが、

現段階での私の答えは、
自分が描いた言葉、その言葉によってイメージされるものが、
本当に自分の心の声に忠実といえる作品を書くこと。
これが、きちんと詩を書くことなのである。

果たして、そんな詩がホームページにアップされるのか、
今後の私に乞うご期待、なんて書いてしまうと、
ものすごく肩の力が入ってしまいそうだが
力みすぎると心が見えなくなるので、
鼻歌交じりくらいがちょうどいいのかな、なんて思う。

何が書けるかわからないけど
ラララ自分の想いに忠実に。

しかし、それにしても長いレポートであった。
(すでに日記の枠を越えている)
1週間くらいお休みをいただいて、
また、日記を再開する予定。


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