浪漫のカケラもありゃしねえっ!
DiaryINDEXpastwill


2001年12月31日(月) 大晦日におばさん襲来/宝物も他人の目にはゴミの山

出勤前にレス書きをしていたら、朝7時半に親戚のおばさんが来訪。「ちゃんと掃除して片づけないと、正月も近いのに恥ずかしいぞ!」と叱られて。「どこに行くんだ!」と言われても、あの〜、わたしゃ他人様の会社が冬休みに入ってるこの時期も仕事ですがな。出勤ギリギリの時間までの貴重な自由時間が〜。このパターンよくあるんですが。(たたき起こされることもあったし(笑))
帰宅したら、廊下に置いてあった本の山がゴミとみなされて袋詰めにされていました。ああ、やっぱり。寝室のモノは無事だった。さわらないで、と言っといて良かったわ。(^^;)
そして今年の終わりもボロボロになった文庫本(ゴーストライターを主人公にしたデヴィッド・ハンドラーのホーギー・シリーズ)再読の喜びに浸ってます。

どうやら私の本は、親戚にとっては「大量のゴミの山」で、再読再々読の楽しみで捨てられない気持ちは理解してもらえないみたい。ボロ家の柱がたわむ本の量や文句を言われないように整理整頓できない自分も悪いんですが。
かつて自宅で葬儀や法事を行うために、留守中に本を捨てられたり、目の前で物置や玄関の外の地面に放り出されたことも何度かあります。
生活費を削って買った高価な写真集や洋書、辞書やソフトのマニュアル、CDのインナースリーブやブックレット、創刊号から買って資料にしていた音楽誌、10年以上かけて記事を切り抜き集めたスクラップブック、ミュージシャンの生写真、幾たびも読み返し喜びを与えてくれた数々の物語。
助けられるモノを生ゴミの袋や泥の中から拾い集める惨めさ。あの時のショックは思い出すだけで寒気がします。
救出が間に合わずゴミセンターに運ばれ失われたモノがどれだけあるか、いまだにわかりません。ファンジン活動や創作の材料でもあったから、自分の身体が切り取られた気さえしました。
人の価値観はさまざま、諸行は無常なり、永遠にすべてを抱え込んで置くことは出来ない。記憶は時折うそをつくけれど、一番大事なモノは頭の中にある。そう思って開き直るしかないんですが。いつか便利な街に引っ越したいから身軽に持ち物は少なく、とずっと思ってたはずの自分のこだわりがどんなに大きいか、あらためて驚いたりもして。(笑)
今はHP作成の材料用にネット接続してない我が友からミュージシャンの資料をたくさん預かってるので、これを返す前にぶっ倒れるわけにはまいりませんにゃ。


2001年12月30日(日) 冬景色/ブーツを履いて出勤

雲は低く垂れ込め、山間にけぶる霧とつながって見える。
このあたりは雲海の中にあるよな高地ではないけれど、そんな景色を見ると雲の中に住んでいるようで、なかなか気持ちがいい。

ウチの方は山間にぽつぽつと小さな集落があるという感じなので、ホンのひと駅違っても全然つもってない町もあります。そのときの風向きなどにもよるけれど、大きな市や町に発展している地域は他より積雪量が少ないor降雪してない場合も。たとえば数十センチの積雪(&屋根から玄関前に落ちた雪)をモコモコのアノラックに防水仕様のロングブーツ姿でかき分けて出勤したら、職場は雪の気配もない晴天でみんな軽やかにスカート姿で「その格好どうしたの?」と言われたりとかね。(笑)
これは、雨の場合も同じ。だもんで、折り畳み傘は必携、普通の黒スエード風に見える防水仕様のロングブーツを愛用。膝までのゴム長の方が雪国には便利だけど。たまには天気の悪い場所が逆のパターンもありますが、重装備の冬支度や傘はしばしば大恥かきなのです。(笑)


2001年12月25日(火) シティボーイズのコント/言葉の背景の共通の認識

物心ついてから数十年ひそかに悩んでたんで、思い切って尋ねてみてよかったわ。(笑)
見えるモノと見えないモノのことを考えていたら、シティボーイズの大昔のコントを思い出しました。
3人がキタキツネ3兄弟に扮してて、大竹「オマエ、まさか目が見えてないんじゃないか」きたろう「そんなことない。見えるよ」大竹「じゃ、空はどんな色だ」きたろう「青だよ」大竹「青ってどんな色だ」きたろう「そ、空の色だよ」大竹「だから、その空の青色はどんな色か説明してみろよっ」斎木「ちょっと待て。青ってどんな色だ」大竹「....そ、空の色だろ」斎木「だから、どんな色だ」大竹「....誰にも説明出来ねえよ、そんなもん!」
斎木しげるときたろうの大ボケふたりに切れまくる大竹まこと、シティボーイズは今も好きですが、これは妙に記憶に残ってます。

言葉は共通の認識が存在することを前提にしていて、それがなければそれぞれが感じる世界を言葉であらわすことは難しい。文化や時代が違えば、言葉のもつ意味もかわってくる。
作品や言動を通じてそれを表現する人もいる。表現する能力、受け手の感覚、それぞれに違いがあっても手探りで近づこうとする。
互いが実際にどんな世界をその脳内に描いているのか、推し量りかいま見ることもできても、正確にはわからない。わからないからこそ、驚きがある。日々変化し続ける心の鍵穴に、差し込まれた鍵の一部がぴたりとはまりこむ瞬間。心が共振する感覚に、打ちふるえこみ上げる思い。得がたい宝物ですにゃ。


2001年12月24日(月) 星座とアナロゴン/視界から消えない謎の模様

ひさしぶりに晴天の夜空。冬は星が鮮やかに見える。見上げれば、空に輝くオライオン。澄んだ夜の大気に、狩人の星座の躍動。
さわやかなクリスマスになるかな〜。

わかる星座って、オリオンとカシオペアに北斗七星くらいしかないんだけど。一度パターンを記憶してしまうと、それ以外のものに見えないのが不思議。
顔文字なんかもそうだ。海外の「;-P」なんて最初は何じゃこりゃと思ったけどさ。
○の中に「・_・」と配置すると、人の脳はそれを顔としてパターン認識する。そういう記号を「アナロゴン」というらしい。っていうのを読んだのは、たしか小松左京のエッセイだったな。現在の自分の土台を作ってくれたのは、この人達のようなSF作家達の作品群のおかげだ。

他の人が見る色は自分が見てる色と同じなんだろうか、って考えてた頃がある。左京さんのエッセイでもそれにふれていた。脳をTV受像器と考えれば、同じ設計仕様の受像器は同じ像を結ぶ。それが答えだった。まあ、ときどき自分の受像器の微調整がズレてるんじゃないかと思うことはある。

暗い夜空を見ていると、チラチラと明滅するモザイクのような模様が動き回る。普段はその存在を忘れているが、どんな景色を見ても目を閉じても、それはフィルターのように視野を覆って消えることがない。暗い方が目立つけれど。
目の筋肉を動かしたり神経を集中させると、明滅する色とパターンが変化する。明るい光源を見た痕跡のかたまりも、しばらく残る。視神経への刺激が、脳内で色や模様に翻訳されているのだろうか。
子供の頃から、これが見える人は他にいるのだろうかと、不安でたまらなかった。家族に話したら、眼科に連れて行かれた。視力はよすぎるほどだった。
集中時に視野に明滅する星の存在を、大薮晴彦の小説に見つけたときは、少しホッとした。それ以外にこれが描写されているところを見かけたことはない。
誰か同じモノを見てる人、他にいません? いなかったらどうしよう〜。(^^;)


2001年12月19日(水) ダッシュ村/かやぶき屋根とオドロとトチ餅

初めて「ダッシュ村」をのぞいてみる。おお、意外と軽いじゃん。写真画像は軽くて文章も短め。
TOKIO、軍手・長靴・タオル卷き・ヘルメットに地下足袋の似合うオモロいアイドルになったなあ〜。SMAPの料理修行以来、最近のジャニーズ系は芸能界以外でも通用する技術の習得に熱心そうだ。(^^;)

かやぶき屋根のおうちは葺き替え用のカヤ集めがたいへんなので、こちらではほとんどなくなってしまった。母の実家の囲炉裏は祖父母が養蚕や山仕事をやめた頃から使わなくなり、囲炉裏の位置にはストーブがでんと置いてある。
昔その実家へ歩いてる途中「最近は誰もカマドや風呂たきにつかわんから、オドロをとって山の手入れをする者もおらん。昔はどこの山も、植林をしなくともキレイだった」と母が言った。オドロというのは、山の細かい下草や雑木のことだと言う。いわゆる「おじいさんは柴かりに」の「柴」やね。

トチ餅は栃の木の実を灰でアク抜きし、お餅の中に混ぜてつく。香ばしいような独特の風味があって美味しい。このアク抜き用の灰は、海の塩を吸った輸入材や合板などの建材の灰を使うとひどい味になるから、山の木だけを使った灰。一時期はアク抜きをしてくれる人が減り、ウチも餅作り用の手配にいつも困っていた。
最近は特産品として注目されてきたのか、近所のスーパーや土産物店でも見かける。トチ餅もヨモギ餅も、家で作ってたのとは餅米との比率の違いで薄味気味だが、子供の頃を思い出す懐かしい味に頬がゆるむ。
学生時代、文化史の授業で「トチの実のアク抜きをしてを食べる文化が縄文時代あったが、その文化は現在では絶滅した」という講義があった。ズッコケたね。「....先生、ウチでは今も食べてるよ〜(^^;)」
若い講師も驚いてズッコケた。彼の学んだかぎりでは「絶滅した」となってたらしい。ウチの地方は田舎すぎて学術的な資料収集の網にもれたのか、それとも絶滅危惧種な縄文人の隠れ里か。(笑)
年が明けた最初の授業で、講師には「話の種に食べてみるよろし」とウチで作ったトチ餅をプレゼントした。トチ餅は、その後数年して京都駅の土産物店でも見かけたし、TVのグルメな和菓子店の紹介でも見かけている。文化史を学ぶ人達は、今頃トチ餅を食べてるだろうか。教える資料の中に「絶滅」の文字はなくなっただろうか。


2001年12月18日(火) 友人来訪

我が友は、あいかわらず突然やってくる。私が留守だったら、どうすんねん。(笑)
よさげな仕事先を教えてくれた。私には絶対合ってると感じたらしい。引っ越しを考えてみてもいいんじゃないかと話題が出るのは毎回のことだ。
辺鄙なところに住んでると、仕事先までの交通費の負担で苦しくなっちゃうのはたしか。猫をどうするかが大問題なんだけどね。

ふたりで食べ物の買い出しに行ったら、カボチャあんやサツマイモあん入りの今川焼きがあった。食べてみたら、正統派のつぶあんの方が好みだった。クリームあんもなかなか美味しいけれど。今川焼きの皮が厚いから、濃厚な味の方が相性がいいのかしら。


2001年12月13日(木) 狂牛病騒動で海産物屋は大忙し/キャットフードの表示

バイトで海産物屋さんに派遣された友人。お歳暮などの注文が増えるので派遣社員が雇われたのだが、冷凍輸送のナマモノ・干物・瓶詰めの加工品など種類が多いのと、今年は狂牛病のせいで気が狂わんばかりに忙しくて、派遣の子も長続きしないそうだ。友人も交通費が出ないバイトなので辞めたいけど、人がいなくて辞められない状態だって。お歳暮商戦の山場はもうじき終わるけど、それまで体力が持つのかな〜。
高級ステーキ肉やすき焼き肉お歳暮を高級松葉ガニや海老・ハタハタなどのお歳暮に切り替えてるお客さんが続出。あちこちの旅館・食堂などのメニューも、まだ肉を敬遠して海産物に切り替えている状態。その注文数も半端ではない。一件の注文が数百〜数千になるからさあ。
地元産の魚だけでは足りなくなって、海外から空輸という話も。
友人のバイト先では、あまりの忙しさに大の男がマジでポロポロ泣きだしたそうな。本人なんで自分が泣いてるのかわかんなってよけいパニックという、こわ〜いお話。

地元の人達は、今冬はたいへんそう。兵庫県日本海側(但馬地方)は「但馬牛」でも有名な地方だ。「神戸肉」や「松坂牛」というのは、もともとはこのあたりの生まれの「但馬つる牛」という和牛を買って育て上げる。
異常プリオンの発生率上がるので、欧州では三才以上の牛は食用にされてないという。国内でかつて高値がついていた和牛は、三才以上の処女牛。ふんだんに穀物を与えビールを飲ませブラッシングして世話をして、やっと見事な霜降り肉になる。
高価な種付け料をとれる賞取り牛、子牛を生ませる畜産家、その子牛を買い育てて転売する畜産家、多くの者が今回のニュースで打撃を受けた。地元のニュースでは牛のセリ値暴落に、売ることをあきらめて帰る人も少なくないそうだ。セリ市で売れなくても、餌を食べさせなくてはいけない。牛が売れなければ、餌代が出ない。つぶれる農家も出るかも。

買ったキャットフード袋に「肉類・ビーフエキス・ミートボーンミール(牛骨粉)不使用」のでかいステッカー。(^^;)
前に使ってたキャットフードの袋を見ると、しっかり使ってる牛骨粉。....オレ、キャットフード食べたことあるんだよねー。「電波少年」でナスビが食べてたから、あ食べられるんだって。チャレンジャーだったかも。(爆)
今さら怯えても味見しちゃったモノはしょうがない。狂牛病騒動のさなかに牛肉を美味しく食べてます〜。


2001年12月12日(水) 『切腹』を見たのだ!

年末、TV放映映画の顔ぶれが侮りがたい。今夜の関西地方での深夜放映の映画は、小林正樹監督作品『切腹』。
出演は仲代達也に三国連太郎だ。邪悪も愚かしさも演じられる好きな役者さん達。
夜中に起き出し放映前の解説を読み、さあ録画して再び寝よう....としたのに思いっきり寝そびれた。
あまりに重厚な骨太い作品ぶりで、目が離せなくなってしまったのだ。物語の残す印象ときたら、その痛烈な皮肉さ、無惨さ、歯ごたえありすぎ〜。
井伊家の庭先を借りて切腹をしたいと申し出る浪人の登場から始まる。その口実で押し掛ける浪人達に金品を与えて立ち退かせる他家の噂に、先頃も強硬な態度をとったばかりの井伊家家臣達。井伊家の家老と浪人は、それぞれの無惨な物語を語り始める。
ヒゲを伸ばした顔の中に目だけが光る浪人役は仲代達也、対峙する家老役が三国連太郎。座したままの長丁場の語りそのものは淡々と、それゆえに回想シーンの惨さや苦悩と怒りの激しさが際だつ。浪人の微妙な声音と表情。それが破局の予感と緊迫感を盛り上げ、ラストに圧倒的な奔流となって襲いかかる。なんという脚本だ。こいつを真っ向から受けて立つとは、すごすぎるぜ、仲代達也!

小林正樹監督作品って、あんまり見たことがなかったんだ。ううむ、ヘヴィですごかった。解説見ると、世代的には黒沢明や市川崑と同じ時代の人ってことだ。
モノクロームの世界の画面構成の妙味も、素晴らしいものだった。古い作品だから解像度も今と差があって、ありありと映し出すというわけにはいかない。模糊とした陰影の塊にしないための照明や撮影の計算。
白砂におちる屋根の影、据えられた刀・槍先の角度や丘の稜線までも、すべてが語りたい対象に視線を収束させている。光と影が生む肌と布の質感。ちくしょう、『陰陽師』の画面構成したスットコドッコイ達にこの見事な画面の妙技を見てほしいもんだなあ。(^^;)
モノクロ育ちの監督達、昔は唇を青く塗ったり(これはかなり初期?)泥水に墨汁入れて(『七人の侍』)コントラストを出した作品もあったらしい。
そいえば、市川崑監督は、最近もわざと色調を落とした画面の作品を作っている。色調を落とされた人体は、そのフォルムと質感をあらわにする。古い時代の写真のようだが、独特の雰囲気。


2001年12月11日(火) 「浪人街」を見逃したのだ(T_T)/蓮司様と魔子様の第七病棟

深夜ネット巡回中ふとTVをつけたら、深夜映画の「浪人街」の最後の数十分。
うわあ、原田芳雄、勝新太郎、田中邦衛、石橋蓮司、中尾彬....、クセモノで私好みの俳優ばかり。それが大人数で血みどろ大立ち回り。原田芳雄なんぞ半裸で血刀ふるって、男らしさが匂い立たんばかり。ちいいっ、わかってたらタイマー録画しておいたのにぃ。
石橋蓮司が悪役やってないのは珍しい。最近は三枚目な上司役とか多いけど。

蓮司の異様な迫力に最初にひかれたのは、横溝正史原作の映画「悪霊島」。『ぬえの鳴く夜は怖ろしい』な角川映画で、金田一耕助役は加賀丈史。岩下志摩をその夫の篠田正浩監督が撮ると遠慮会釈もなくすさまじいと感じたのを覚えてる。
この映画の予告編やオープニングのナレーションは『1980年、ジョン・レノンが死んだ。金田一さん、あの時代はいったいなんだったのでしょう』。そんで「レット・イット・ビー」が流されるんだ。『あの時代』じゃなく『僕らの青春』だったかもしれんけど。
蓮司の演じた男の部屋には、なぜか詩人の中原中也の写真が飾ってあった。私も中也の詩や伝記を読んでたので、その写真に「うっわー、きっついのう(^^;)」と思ったよ。

TVでは悪役や時代劇のバカ殿役の蓮司さんだったが、ある日「ぴあ」の欄外情報に花園神社で行われる「状況劇場」公演に『客演:石橋蓮司』の文字。昔は根津甚八も在籍していたという唐十郎の「状況劇場」赤テント。その次が石橋蓮司主催の劇団「第七病棟」の公演、唐十郎作の「ビニールの城」。いやー、すごかった。
浅草の閉鎖した映画館「常盤座」の舞台に水をはった穴を作りそれを効果的に使っていた。蓮司自身が演出、緑魔子とともに主演して、ゴールデンアロー賞の演劇部門をとった。
「第七病棟」は数年ごとにしか公演をしない。緑魔子様いわく「蓮司がね、お金は自分がTVで作ってくるから、おまえは舞台のことだけ考えてなさいって言うの」だそうである。演劇人の愛だあ〜。
というわけで、蓮司様をTVで見かけると、『今日も蓮司様は「第七病棟」と魔子様のために頑張ってるのだ〜』と思ってしまう。
小さい劇団出身の人って、アクが強くていいな。舞台ではどんな姿なんだろうとよく思う。風間杜夫や萩原流行を見かけると、いまだに舞台でテンション上げて目がギラギラしてた姿を思い出す。すっごいかっこよかったんだよ〜!


JAJA |MAILHomePage

My追加