雑記のバックナンバー←遡る進む→


2003年03月30日(日) うぇぇ〜ん、またクレしん映画に泣かされちまったよぅ

くそぅ、いい作品作りやがってぇ、原監督め...。

毎年、この春の番組改編期に次回作の宣伝も兼ねて放映している『クレヨンしんちゃん』の劇場版。昨年に公開された『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』が大評判だったので、録画しつつ鑑賞する。

いつもこの時期に何気なくテレビを付けていると1年前の映画版作品をやっているので幾つか観る機会があったが、クレしん映画は私的には本当にハズレがない。特にここ3年間は素晴らしい出来になっている。2000年の『嵐を呼ぶジャングル』では物凄いアクション描写と男に生まれたからには誰もが一度は通るヒーローへの憧れをたっぷり練り込んだストーリーに涙し、翌2001年の『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』では物がなくても希望があった過去の時代に夢を見続けている悪役に共感しつつ、いま現実の世界に希望を見い出し必死に未来へと生きようとする野原一家の姿に号泣(これ、30代後半以降なら絶対泣くと聞いてたのに78年生まれのおいらですらわんわん泣かされた)したワタクシ、当然この『戦国〜』でも涙が止まりませんでしたよ。

身分の違いに阻まれた悲恋モノのストーリー、劇中での車に馬がどんどん引き離されていく場面や合戦前夜に庭の木から花が次々と落ちていく場面などの暗示的な描写、泣く映画という評判からしてこの作品の準主役である又兵衛が命を落とす事は予想できたものの、まさかあんな風にして亡くなるとは...。命の儚さをまざまざと見せつけられた気がする。又兵衛が息を引き取る間際に受け取った脇差しで金打(きんちょう)するしんちゃん、現代に戻った後に「あっ、おまたのおじさんの雲だ」と空を見上げる野原家族、天正の地で同じ様に涙を流しながら空を見やり、「おい、青空侍」とつぶやく廉の姿で締め括られるまでの数分間は涙なしでは観られない。そして、クレジットとともに流れるダンス☆マンの「♪遠く遙か向こうずっと見つめてる君は何を探しているの……」という歌声にまた涙が止まらない。けれど、悲しいながらも実に爽やかというか、清々しいというか、重苦しく終わらないところが唯一の救いといえるのではないかな、と個人的には思う。

それにしても、この映画、恐ろしい程に時代考証がしっかりと為されている。特に合戦シーンは見応え十分。畑を荒らして相手を挑発したり、鉄砲・弓矢に続いて投石で攻撃したり、竹垣でそれらを防ぎつつじわじわ進軍したり、日が沈んだら引き上げたり、と当時の戦ってえのはこんな感じやったんやろなー、と思わせる描写と迫力ある動画にただただ圧倒。しかも、お子様に配慮して敵兵を殺すえげつない場面は極力フレームアウトして声だけで表現している。この一連のシーンは近年の大河ドラマ以上と言っても過言ではない。その他にも、廉が水を飲む所作であるとか、手を振ってお付きの人間から「はしたない」とたしなめられるくだりで姫から目をそらす家臣であるとか、城郭の構造とか、兎に角リアリティがありまくりで本当に感心した。

時間移動の描き方も秀逸。しんちゃんが文箱を埋める事によってはじめて他の家族が天正2年にやって来る事が出来る、というのは無理がなくていい。最後に野原一家が元の時代へ戻っていく様子も見送る廉の表情ひとつで表現されているのも素晴らしかった。元々落命する運命にあった又兵衛がしんちゃんに命を救われながらも結局は亡くなってしまうという歴史改変モノの王道を取りつつ、又兵衛に大切な人と国を守る働きをさせる為にやってきた存在であるしんちゃん達がその又兵衛の死によって現代に帰れる事になる、という設定もこじつけ臭くなくてとても良かった。

ギャグ漫画の映画にも関わらずあまり爆笑する場面のないこの作品ではあるが、ちゃんといいタイミングでテンポ良く笑かす所を挟み込んでクレしんらしさを保っているのも流石。敵の本陣で刀と間違って手にしたボディブレードでの一撃、続いて股間への頭突きで敵の大将をノックアウトさせるシーンには腹を抱えて笑い転げた。やっぱり喜怒哀楽全ての要素が詰まっているからこその『クレヨンしんちゃん』だと言えるだろう。そしてクレしん作品全般の根底に流れ続けている家族愛。「しんのすけのいない世界に未来なんかあるかっ!!」と方法も判らないのにすぐさま過去に行こうとするひろし、敵将に斬りつけられる我が子を捨て身で守るみさえ。家族の大切さ絆の重さを決して説教臭くせずに受け手に伝えているのも好感度大。「おじさん、偉いんだろ。おじさんのせいでこんな事になったんだぞ。それなのに逃げるのか?」のシーンは是非ともフセインとブッシュに見せてやりたいもんだ。

いやー、しっかしホントにいい映画っす。個人的にはしんちゃんがいつものキャラでちゃんと大活躍する前作の「オトナ〜」の方が好みだけど、この作品もとてもイイ!!批評サイト等をあちこち見て回ったら“別にクレしんでやらなくても”的な感想をちらほら散見したけれど(中には実写で出来る、というのもあったけどコレの合戦シーンを実写で出来るだけの予算が今の日本映画界にあるんだろうか?)、やっぱり適度にギャグが挿入されていて、しんちゃんがいつもの様にバカやったり悪者に啖呵切ったりするからこそ、重くなりすぎずに爽やかに笑って泣ける映画に仕上がっている様に思う。ま、この作品は間違いなく臼井儀人さんの『クレヨンしんちゃん』ではなく、『クレヨンしんちゃん』の枠組みを使った原恵一さんの時代物活劇ではあるけれど...。

そんなこんなで、録画しておいたのをもういっぺん頭から観ると更に泣ける泣ける。初見の時には何とも思わなかった、廉の握った塩の利きすぎた不格好なおにぎりを又兵衛が誰が握ったとも知らずに口に放り込む場面でもう嗚咽。ひろしから未来の話を聞いた春日城主が乱世の虚しさを悟るシーンで、結局はこの後に野原家族が活躍したところで廉の想いや願いは成就しないしこの春日という国も少し延命しただけでいずれは消滅するんだなぁ、とまた涙。しかしそういう悲しさ切なさと同時に、日本の先人達が築き上げてきたものの大切さ、日本人の持ち合わせてきた心意気、ぼーっと青空を眺める事が出来るのがいかに幸せであるのか、という事を教えてくれた様な気がした。子供にとっちゃあ難解で悲しいだけの映画かもしれないが、きっと何かを感じ取ったに違いないと願う。『フランダースの犬』をはじめ、子供向けでバッドエンドな作品がそれに接した子供に好影響を与えた例だって幾つもあるんだし。

ところで、クレしんって未だに“子供に見せたくない番組”の上位なんだってね(逆に見せたい方は『ドラえもん』や『サザエさん』等だそうな)。一応、今作品は文化庁メディア芸術祭大賞をはじめとして色々な賞を受けている様だけれども、それでもやっぱりPTAを牛耳るザマス眼鏡をかけた厚化粧なおばはん(←こんなステレオタイプな奴はそうはおらんとは思うが...)どもは「こんなお下品なの観ちゃ行けませぇぇぇ〜ん」とかやってるのだろうか。んなテレビアニメの影響をずっと受け続けながら大きくなる奴なんざいる訳ないし、悪影響とされるものから隔離された子供がどんな風になるかを考えた方が怖いし、第一に親がちゃんと躾してりゃ済む話だし(つーか、作品中でみさえは毎回げんこつ食らわせたりして悪い事はダメとやってるし)、そもそも原作は大人視点から見た子供の行動を描いた話が主であってその辺のガキが自然にやってそうな事をデフォルメしてるだけなんだから目くじら立てる程のもんでもないと思うんだが(親の立場だと捉え方は全く違ってくるだろうけど)。もし、今現在でもクレしんは害悪!とかやってる人がいたら、その人は恐らく中身を見ずに表層的なところでしかものを見る事が出来ない可哀想な人なんだろなぁ、と思う。

ところで、クレしんって現在40ヶ国以上でテレビ放映されているらしい。世界各地(たぶん規制掛かってる国もあるやろうけど)でガキが「ぞぅさん」とか「ケツだけ星人」とかやってるのかなぁ...。


2003年03月20日(木) イラク開戦(1) 妄想正義VS恐怖独裁――正しいのはどっち?

いま、こうやってキーを叩いている間にも次々と人命が奪われている、と思うと本当にぞっとしますな。一刻も早く終結へと向かって欲しいもんです。サダムとジョージ、はっきり言ってどっちもどっちだが、圧政で苦しんだ挙げ句に爆撃で更に苦しめられるイラクの一般市民が気の毒すぎてならない。

しっかし、アメリカの突っ走りっぷりはえげつないな。イライラ戦争の際に兵器類を供給しといて、いざイラクの軍事力が強大になりすぎたらそれを徹底的にぶっつぶしにいく。で、石油利権や軍需産業の在庫一掃セール&新兵器見本市の為に多くの非戦闘員が巻き添えで殺されていく。まるで日本国内で道路を整備するのと同じ様な感覚で安易に戦争をしかける。戦争なしではやっていけんのだろうか、あの国は。

他方、イラクはといえば、クウェートに攻め込むは、クルド人を虐殺するは、国民に言論の自由は与えないは、と独裁者による恐怖政治が延々と続き、幾度となく出された国連決議を徹底的に軽視。アメリカの国連無視も大概だが、イラクの側も自らの態度によって戦争に突入すべくして突入した感が強い。フセイン大統領がどっかへ亡命さえすれば戦争は回避され平和的に解決できたのに、結局は自国民の命を危険にさらす道を選んだ。逃亡もせず、かといって最近の国連査察を拒みもせず、という態度はちょっと不思議だが、ひょっとしたらフセイン大統領は亡命後にメリケン人による一方的な国際手配・軍事裁判を受けるぐらいなら徹底抗戦をした挙げ句に自らの死をもって戦争を終わらせ、歴史上の英雄になるつもりなのかもしれない。

それにしても、この戦争はどのようにして終焉を迎えるんだろう。イラクにはまともに反撃できる航空戦力なんてないだろうし、そもそも力の差は歴然とし過ぎている。でも、これだけ国際世論が反戦ムードに傾いているんだし、長期化すればアメリカは不利になるだろうなぁ。長引いて数十人ぐらい戦死者が出れば、アメリカ国内の「正義の戦争」だと信じ込んでいる層も掌返した様に反戦を叫び出すやろうし。そうなれば実質の勝者はイラク、という感じになるのかもしれない。国連決議を途中で放り出し、イラクに“存在するであろう”大量破壊兵器を使わせない為の先制攻撃で、デイジーカッターみたいなおっそろしい兵器をバンバン使用したら、それこそアメリカは世界を敵に回す事になるだろうし。

ただ、何となくアメリカは迷う事もなしに生物兵器なんかも含めた破壊兵器を使用しそうな気がする。湾岸戦争時のオイルにまみれた鳥の映像の件を考えりゃ、自分らで使ってそれをイラクがやった事にする情報操作なんて、少なくともアメリカ国内では容易そうやし。で、それを元に「ほれ、やっぱり向こうは大量破壊兵器を持っとったやんけ、国連もフランスその他も黙って俺の言う事聞いときゃいいんじゃっ!!」とこの戦争を正当化しそう。でも、例えそうなったとしても、誰もアメリカの暴走を止められやしないんだろうなぁ。ぶっちゃけ、アメリカVSその他の国連合で戦争やったってアメリカが勝利しそうだし。地球外生命が侵略してこない限りはこれからずぅっーとアメリカの世界支配が続いていきそうだなぁ。

まぁ、そんなこんなでこの戦争が終わった暁にはイラクにアメリカの傀儡政権みたいなのが誕生するんだろうけど、国内がきちんと民主化されれば結局はそんな親米政権はいらない、とあっさり次の選挙で引きずり降ろされて親イスラム政権が樹立される様な予感がする。もしもそうなったらアメリカはまたまたイラクを攻めに行くんだろうか。中東でアメリカンスタンダードが通用するとは思えないし、ずっと現在の様な状況がループしていくような気がする。

で、まあ我がニッポンはアメリカの攻撃を支持っと。ちょっと納得はいかないけど、仕方がないわな。所詮、我々の住む国はメリケンさんの属国なんだし。現在の平和な生活がアメリカの傘の下にいる事によって守られている以上、アメリカ追従しか防衛力もエネルギーも乏しい日本には選択肢がないもんね。この戦争、どの国も利権や戦後の経済効果といった損得勘定で賛否の態度を決めているんだし、感情や倫理を捨て去って日本の国益という一点で判断すれば、英米の後押しをしといた方がいいに決まっとる。ただ、犬みたいにアメリカ様にしっぽ振るだけじゃなくて、国連の場で「大量破壊兵器を有しているであろう国にはっきりとした態度を取らなければ、今後も幾らでも付け上がる国が出てくる」と、我が国には隣に脅威が存在しているからこそ敢えてイラク攻撃に賛成する、ってな旨の主張をしっかり国際社会に訴えておいて欲しかったな。この戦争の間にお隣の構って貰いたがり屋さんな国家元首がアメリカとの瀬戸際外交を展開する為にミサイル打ち込んでこないとも限らないんだし。

とはいいつつ、やっぱりこの戦争というかアメリカの態度には納得がいかない。だって、当たり前といっちゃあそれまでだけど、パレスチナでやりたい放題やってる国家にはいっさい正義の鉄槌を下さないんだもん。一方的に悪者扱いされてミサイルを撃ち込まれ続けられる国がある一方で、何やっても許される国があるのは如何なものか。


2003年03月19日(水) イラク開戦(2) お祭り感覚の“反戦運動”に思うこと

アメリカの中枢にいるネオコンサバな人達はどうか知らんが、誰だって戦争なんて好きじゃない。無関係なイラク国民が死んでいくのを喜ぶ人間なんていないに決まっている。はじめにその点をご理解頂きたい。

世界中で反戦運動が拡がっている。当事者であるアメリカ国内やアラブ諸国で大規模な反戦の動きが起きるのは当然なんだけど、この日本で行われている反戦デモには私は不快感しか抱かない。

国際社会がアメリカの暴走を阻止できないで実際に戦争へ突入してしまった今、日本の街角で反戦デモをやったりアメリカ大使館・領事館の前で集会したりするのに何の意味があるんだろう。戦争の早期終結を望むのならば、フセイン大統領の退陣要求ももっと声高に叫ぶべきなんじゃないだろうか。確かにアメリカの尊大な態度は目に余るが、長期間に渡って国連査察を妨げ続け、結果として戦争を引き起こしたイラクが一方的な被害者だとは私は思わない。“罪のないイラクの子供を殺すな”という人々はイラクの現政権をどう思っているのか。今回のケース、もしも国連決議によって事が進み、国連軍がイラクを攻撃したとしても“罪のない……”という抗議を国際社会にするのだろうか。戦争で無関係なイラク国民が犠牲となるのは心苦しいが、現政権が存続する事によってこれからも危険分子と見なされた人が虐殺されたり、経済制裁による物資不足で満足な治療が受けられずに多くの人々が亡くなっていっても構わないとでも言うのだろうか。この数年間、イラク他の独裁国家に抗議する類のデモや集会なんて少なくとも私は一度も見た事がない。

そもそも、我々の住む日本が平和なだけで、世界では至る所で内戦やら紛争やら小競り合いやら虐殺やら弾圧やら核実験やらが絶える事なく起こっている。それらに対して全く抗議の声を挙げなかった人がいざイラクで戦争が起きたら声高に反戦を叫ぶのは噴飯ものだと私は考える。いま相次いでいる遊園地の閉園や鉄道の廃線なんかで今頃になって存続を求めている人々(常日頃利用してきた人々を除く)と何ら変わらない。別に安全な日本でやらずに現地でやれ、とまでは言わんが、メディアで大々的に取り上げられる段階になってから声を大きくしても何の説得力もない。

上の方で私は日本はアメリカの属国だから後に歴史に断罪されるであろうが今回のイラク攻撃支持は残念ながら仕方がない、という様な事を書いた。ひょっとしたらこれに反発する人もいるかもしれない。でも、敗戦以後、ずっと自分たちの身の安全をアメリカに守られてきたのは事実だし、自国の防衛問題を語る事そのものがタブーみたいな雰囲気でここまで日本が来たのもまた事実。アメリカに頼らずにやっていくには不本意でも軍事力を増強していくしかない。反戦運動の中でも日本のアメリカ支持に反発している人達は憲法9条の改正を願っているのだろうか。それも反対と言うのならそれは間違いなく平和ボケというものだろう。

繰り返しになるが、アメリカの軍需産業や復興関連産業の中枢はどうか知らんが世界中の誰もが殺し合いなんて望んでいないに決まっている。今回の戦争に至っては表向きの理由なんて取って付けたものと皆判っているし、フランスその他の反対派も人道的見地からの理由からでないというのも判っているから余計に虚しさが強い。始まってしまったからには早期終結を願うのが普通の感覚と言えよう。でも、少なくとも日本国内で行われている多くの反戦運動は何かが違う。何故この戦争が起きているのか、という問題意識がすっぽり抜け落ちているのでは?と思えて仕方がない。いざ戦争が始まってしまったいま、訴えるべきは「戦争反対!!」みたいな綺麗事ではなく、どうすれば武力なしにイラクに国連決議を遵守させられるか、という具体的な問題可決の方法ではないかと強く思う(私自身は反戦運動するならアメリカに攻撃中止を呼びかけるとともにイラク側へフセイン一派の亡命+無条件査察の受け入れを即刻やるべし!と抗議行動するくらいしないと全く説得力がないと考える)。具体案のない、ファッション感覚の反戦運動は我々の目に見えにくいところで日々起きている圧政、それに伴う虐殺や餓死を間接的に支持しているのと同じじゃないだろうか。

まあ、なんだかんだ書いてるけど、私自身はテレビに映る反戦運動の映像にチラチラみえるお馴染みの各種団体ののぼりに強い拒否反応を起こしているだけで、実際には感情論ではなく冷静な捉え方による反戦運動もきっと各地で起きているんでしょう。全てがテレビで報じられている様なアメリカ領事館の前で地べたにしがみついたりしているバカ丸出しの反戦運動・集会ではないと信じたい...。

しっかし、北朝鮮問題が大きく取り上げられていた頃にはずっとだんまりを決め込んでいた人々が急に元気付きだしましたな。一部を除いて日本人は幾ら何でもそこまで民度は低くないぞ〜。ま、速攻でそれらの層の扇動に踊らされている人も少なからずいはりますが...。


2003年03月10日(月) 広島で民間出身校長が1年持たずに他界

尾道の高須小学校で、同校の慶徳校長が首を吊って亡くなっているのが発見されました。ポータルサイトのトピックス欄に「民間出身の校長が自殺」ってなタイトルがあったのを見た時にたぶん広島やろな、と思ったらやっぱり広島でした。これで何人目なんやろ...。

広島、特に県東部は「狼と七匹の子やぎ」とかひな祭りのひな壇なんかが“みんな仲良く”という理念に反するとして否定されたり、終わりの会で児童同士で批判合戦をさせたり、と色々と凄い話しを結構耳にします(実際に見た事ないので誇張されすぎなのかも知れないけれども)。恐らく、この校長先生も同県生まれで地元銀行出身なのだから、該当地域がどういう土壌であるのかを重々承知された上で赴かれた筈。それでも1年持たずに命を絶たれたという事は当地は相当酷い状況なんだろうな、というのが余所者の私の素朴な感想です。

それにしても、ここ数年で私が覚えている同県名物ゾク関係や先日の中川家関連を除いた広島発ニュースを挙げてみれば、養護学校長の自殺と見られる突然死、韓国謝罪修学旅行、美人教諭一家神隠し後ダム湖底で発見事件…、と教育関連の暗い話題ばかり。もうひとつ、小学校でウサギが大量惨殺された事件があったなー、と思ったら今回の高須小での事件でした。これは絶対に何かがあるぞ。近畿圏外に在住の方にはあまりピンとこないかも知れないけれど、これらの事件・出来事や広島という地域属性を絡めていけば自然と幾つかのストーリーが脳内を流れていきます。同じ様な印象を持っている人は決して私だけではないでしょう。

話は変わって、この事件の続報で、この校長先生は自分の挨拶に返礼しない教員らがおり、先生達に自分の思いが伝わらない、先生達の考えが判らない、と市教委やPTA役員に相談していて、投薬による鬱治療を受けていた、というものがありました。これが原因のひとつである事はほぼ間違いないでしょう。運動会の後片付けを校長ひとりに押し付けていたという情報もありました。私的にはどうしても、着任早々に職員会議で吊し上げられ、事ある毎に教員達や外部団体に一筆書かされて最後には卒業式の国旗国歌問題を苦にして自殺してしまった4年前の世羅高校石川校長先生の一件が重なって仕方がありません。勿論、放り込んだ後は現場の事態を予想出来ながら、教頭が二人立て続けに休職するという異常事態になっても殆どフォローをしてこなかった県教委・市教委の責任はかなり重いけれど、校長を死に至らしめるまで真綿で締め上げる様にして追い込んだ一部の排他的教員の罪は同じ様に重い。

それから、のおはなし。翌11日に広島県教組(日教組から分離した県全域で40%の組織率を誇る組合だそうな)が「民間人校長の拙速導入反対との申し入れを無視した結果、校長を死に追いやった」なる旨の抗議文を県教育長に提出、あくまでも民間出身校長のメンツにこだわった県教委の姿勢を批判しました。なんだかなー。失礼ながら、“我々の縄張りを侵す者には容赦しない”てな感じで個人的には受け取ってしまうんですが。まあ、校長をいびり倒したと思われる(←現時点では全く証拠はないけれども)教員が全教系の組合員やどこにも属していない人間である可能性、自殺の要因が教員以外のものである可能性も大いにあるかも知れませんが、まだ亡くなられた校長の初七日どころかお葬式も済んでいない段階で、弔意も哀悼の意も示さず県教委に抗議するという政治的行動を行っているのは如何なもんなのかと強く思います。

で、まあ広島・自殺(変死?)・卒業式という三点が揃うからには国旗掲揚・国歌斉唱も当然絡んでくるんでしょうが、なんでこんなもんで人が大勢命を落としたり身体を患ったりしなくちゃいけないんでしょ?私自身の国旗・国歌観なんて、日の丸はシンプルだなぁ、君が代は歌詞はよう判らん(強いて言えば“永遠の愛”がテーマかな)しメロディは陰気くさいし息継ぎしにくいなぁ(というか、学校の音楽の授業で習った事ないし、聞く事は多々あれど自身が歌った事なんてないや)、という程度。何故にちょっと入学・卒業式で日の丸掲げて君が代鳴らす(しかも歌う人少ない)程度の事に膨大なエネルギーを注ぎ込むのかなぁ。強制する側はこんな事よりも学級崩壊やらエロ教師やら抱えている問題への対策をもっと練るべきだし、抵抗する側も式での国旗・国歌ごときでライトウイングな道に突っ走る奴なんてまずいないんだし、いちいち精神の自由の侵害とか騒ぐ必要もないと思っちゃうんですが。こと、広島に関して言えば、君が代を一緒に歌った先生が授業から外されて何ヶ月も反省文ばかり書かされたり、国旗を掲揚しようとする校長・教頭を独裁者呼ばわりしたり、と反応が異常過ぎやしないかと思います。それに、教員が自らの思想信条に基づいて日の丸を掲げさせない、君が代を歌わせない、というのも生徒に対する立派な強要だと思うんですが……。普段、人権や平和の大切さをこれでもかと叫んでいるにも関わらず、結果として校長を板挟みにして苦しませて殺す人達の教育理念ってどういうものなのか知りたくて仕方ありませんし、挨拶もまともに出来ない教諭に教えられる児童が可哀想でなりません。

それにしてもこの事件、広島教育界の特殊性もさることながら、メディアのスルーっぷりもかなり異常だと感じますな。また広島で校長が自殺、という事でどんな報じられ方がされるのかな、と思ってテレビをじーっと観ていても、ちょろっと流れるだけ。Nステにチャンネルを合わせていたら一向にやらないでスポーツコーナーへ。なんじゃこりゃ、とN23に変えてみると「校長はどうして自殺したのか」という風なナレーションと共にジングル。おっ、恐らく反文科省的視点で否定的な報道しかしないと思っていたのに流石は23、事件背景に切り込んで本格的にやるんやな、と思ったのも束の間、フラッシュニュースの中で少し触れられただけというその他のニュース扱い(というかニュースバードで観たのと同じ事実報道のみ)。うーん、やっぱ筑紫さんは何年か前に(中略)から踏み込めんのか...。公的機関が腐敗した時にその状態を皆に伝えるのがメディアの崇高な役割だと思うんですが、この国のメディアもやっぱり腐りつつあるんだな、と再認識した次第でございます。消費者金融のCMはバンバン流せても深刻な問題提起はやらないしある種のタブーには決して突っ込まない、と。みんな自分がカワイイもんねー(かくいうワタクシメも決して人の事は言われへんが...)。

妄想混じりの私の戯れ言はさておき、この件、県警や県教委、そして文科省は絶対に真相究明して頂きたいと強く望みます。これ以上犠牲者が出ない為にも徹底調査して教育現場の膿を除去して欲しいもんです。

最後に、亡くなられた慶徳和宏校長先生のご冥福をお祈りいたします。   合掌


2003年03月09日(日) わさぶろー町長のリコールが成立

豊郷の校舎解体問題の発展がとうとう町長を引きずり降ろすまでになりましたな。取り敢えず、わたしゃ自身は何が何でも校舎を存続させるべき、と思ってはいますが、リコール云々は正直、どうでもいい。ここまでいくと○○VS△△の代理戦争にしかみえないもん。なんかテレビをみてると土建屋VS市民派みたいな構図になってるけど。

この件で私がちょっと疑問に思ったのは、結局あの校舎は危険なのかそうでないのかどうなのよ?という事。まあ、裁判所による工事中止の仮処分に対して「んなもんに法的拘束力はないっ!!」と突っぱねて解体工事を強行した(あれは単なるお引っ越しとか苦しいにも程がある弁明をしとった記憶があるが...)、という一点だけでリコールするに値すると個人的には思うけども、現校舎が“耐震工事を施してやればまだまだ十分使用”可能なのか否かをはっきりさせてから両陣営に闘って欲しかったな。なんかメディアの垂れ流す悪人町長のイメージだけが先行したリコール投票になってしまった感がある(無論、地域住民の方々の反○○感情があの高投票率という結果になったとは思うけれども)。前町長が一切の情報を開示してそれ相応の建て替え理論をアピールすれば、ひょっとしたら結果は変わっていたかも知んない。いや、そもそも情報公開すれば疑わしい耐震診断とかの裏付けとなって余計に不利となるかな...。

どっちにせよ、このリコール投票の結果で「建て替えはNO」という町民の総意が(僅差ながら)示された訳でひとまず現校舎解体&新校舎建設は凍結される訳だけども、その先はどうなるんだろ?なんか雨漏りがひどいらしいけど。早急に校舎の安全性を確認して、とっとと痛んでいる箇所を修繕するなり、危険な部分を補強・改修するなりして話を進めて貰いたいもんだ。この問題、壊したい一派と残したい一派の思惑ばかりが先走って肝心の現在この豊郷小に通っているガキンチョの事が置き去りにされている感が強すぎる。もしも、前町長の言う通り、今使っている校舎が危険であるのならば(当時の川砂入りコンクリの強度、同時期に行われた大阪城の再建よりもお金を掛けて作られている小学校である、という点を考えればさほど神経質になる必要もないんじゃないか、と私自身は思っているけれど)、校舎は適当に補修してただの保存物にしちゃって全校児童を近所にあるあの何故か無駄に立派な日栄小に転入させるべきだと思う。あんな狭くて人口の少ない町なら統合してもそないに問題はないだろうて。

しっかし、大野町長のキャラは勿体ないな。あの言動といい、『少年アシベ』に出てくる中華料理屋さんにそっくりなヘアスタイルといい、味があるもんなー。関西ローカルのハマコーさん、ポスト鋭ちゃんとしてテレビ・ラジオに出まくって欲しいなぁ、とか思っていたら今度の出直し町長選に出馬するんだってね。たぶん再選しそうな気がする。ちゅーか、個人的にはあの辺って住民相互間の監視・牽制が強そうやから低投票率でリコール非成立になると思ってた。で、まあ今回が僅か380票差という結果だから、恐らくあっさり大野さんはバックの支援を打ち切られない限りは返り咲けるだろう、と。何でも前回の町長選は不在者投票の時点で当選してたらしいし。もしも建て替え反対住民の中に恐らく混じっていたであろう外人(←ここでいう外人さんは高校野球で使う外人さんと同意)さんが主導となって候補者を擁立したら、別に△△を支持している訳ではないリコール賛成者は必ずしも投票しないやろうし、神戸市長選の時みたいに「市民派」がごちゃごちゃ揉めて候補者乱立したりしたらあっさり大野さんが独走するやろうし。まあ、無関係な外野からすりゃ、もっぺん大野町政が復活したらどうなるのか、禊ぎは済んだと再度校舎解体を強行すんのかなぁ、田中ヤッシーとの往復書簡バトルも再開されんのかなぁ、またまた町民からリコール運動起こされんのかなぁ、等々不謹慎ながら楽しみでもある。で、最後は彦根に合併されて正常化、となれば傍観者的には万々歳。

アフォらしい今後の希望はこの辺にしといて、最後くらいはまじめなおはなし。この一連の騒動でメディアはこぞって「日本社会の縮図」というスタンスで伝え、一部の良心的メディアは前町長周辺の事象にも踏み込み(プライバシー侵害というかあきらかに行き過ぎのも少なからずあったけど)、この問題の深い構図を臭わしつつ報じているのもあった。終わってみれば、この辺が現時点でのメディアの限界ラインなんだろなー、というのがよく判った騒動だった気がする。この騒動がヒートアップしていた頃に近畿の某所で起きた首長側近の不自然な死亡事件なんてすごく扱い小さいもんなぁ。


takebon |HomePage
DiaryINDEX←遡る進む→