ライヴドアの堀江氏の動向が毎日、テレビを賑わせている。 彼はいわゆる「IT革命の寵児」だ。 彼だけではない。ぼくがブログを置いているアメブロもドリコムも、その創業者は新聞の経済面で取り上げられるITの旗手である。
資本のシステムや戦略についての感想はこれといってない。ただ粛々と事は進むのだろうと思う。
ぼくが気になったのは堀江氏の日記である。 当然、彼もブログを運営していて、日記の更新をしているのだけれど、過去に遡っての「日記」がテレビの画面に何度も登場していた。
それを見ているうちに、昨日読み終えて、今、もう一度細かく振り返っているブルース・チャトウィンの、エルンスト・ユンガーに関する、ある一行がとても気になりだした。
『すでにこの時彼は、全体主義のもとでは、日記形式が唯一可能な文学表現である、と確信していた』 という一行である。
エルンスト・ユンガーは第一次、第二次の両世界大戦を兵士として戦ったドイツの作家である。第一次世界大戦における輝かしい戦歴ゆえに ヒトラーに批判的な態度を取りつつも投獄はされなかった。だからといって彼はナチスの暴走は止めなかった。ひそかにヒトラーに抵抗する意志を持ちつつ、ヒステリックな態度から一番遠いところに彼はいた。 もっと冷徹な目で20世紀を見ていた。
そして、チャトウィンの引用を読む限り、日記には自己の複雑な思想と態度が美しい散文で書き込まれている。
彼は軍籍に復帰し対フランスのジークフリート戦線に赴く。上の抜粋はその頃のものである。そして彼は日記を書いた。残虐な処刑の描写も彼の日記にはある。 彼の『日記�機櫚掘戮呂修慮絅侫薀鵐垢能佝任気譟�大反響を呼んだ。 (ドイツ文壇からは締め出され続けた)
全体主義体制下での作家たちのあり方は日本でも戦後すぐに問われたものであったと思う。 実際に戦闘行為を担い、生きて帰還して人たちの言葉は重い。単純な一つの考えにも経験にも収束され得ないものである。 一方、国内にいた「大人」はどうであったのかという問いも、いまだに有効だと思う。
経験は違うけれども、いままた同質の危機感が覆っていないか。 不意にそんな気がした。
多くの人がブログに日記を書く。昔と違うのは「公開」ということだ。「繋がる」ということと。
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