| 2003年05月27日(火) |
静かでゆっくりとした刻 |
昨日に引き続き、コンテンポラリー・ハワイアンを聴いてます。男性ヴォーカルのケアリ・レイチェルに対して、女性ヴォーカルでよく聴くのが、ロビ・カハカラウ。 透明感があって風と海を感じるにはもってこい。音楽がそう感じさせるのと、彼女がそれを感じながら歌っているんだろうなと思わせるところが、好きです。 リピートにして聴いてるのは”I can‘t make you love me”。恋を失いそうになりながら朝を待つ歌。明けてくる高い、高い朝の空をイメージしています。 ほかにもネイティヴの優れたシンガーはいるのだけれど、ロビはポップでアーバンを感じさせます。「ハワイ」という冠をとったらどうだろうとも思うけれど、ゆったりとしたリズムとのびのびとした声はやはり「ハワイ」なんだろうな。 曲がかかっている時の時間の感覚が違うんです。
通い猫の子猫たちが毎晩、隣家の敷地に落ちて出てこられずに泣いています。出られないのがわかっているのに、屋根伝いに降りて、最後は地面に落ちるようにジャンプしているらしい。そのたびに隣家の奥さんに、ダメだよ、もう、落ちちゃと叱られているんだけど、また繰り返す。 となりの家には寝たきりのおじいさんがいるので、とても迷惑をかけているのではと思って、うちの物干しのアルミの柵に簾を横に通して壁のようにし、下にダイブできないようにしました。考えてみれば野良なんだから好き放題やるのは当然で、いやなら追っ払えばいいんだけど、あのままでは母子ともに死んでしまうので、餌をやっているんだけれど、ダメな所はがんとしてダメと怒らなければ。 ほとんど飼い猫ですね。
こういうことがあるたびに保坂和志さんの「猫に時間の流れる」にでてくる、『猫はわかっているのと同じくらいわかっていない』という言葉を思い出します。まったくそのとおりなんですね、これが。 保坂さんのこの本には『猫は人のメタファーでもなんでもない』というくだりがあって、そのことでぼくの詩を点検をしてもみたのでした。あの、それってとても楽な詩のでき方なんです。
だけどぼくの詩では猫は南風を見るだけ、柴犬は胸を張るだけ、と思いを付与しているのは「ぼく」なんですよね。そこらへんはこれでいいんだ、と。 簡単に言えば猫や犬をメタファーにすると「クサイ」んですよ。というか人の勝手なんです。それにはそうじゃないかなと思っていて。 だけど、「いいんだ」とは思ったけれど、理論的にはもっともっと「薄く」スライスして積み重ねるような詩に書き換えているところです。
いちおうサイトにアップしてある詩はすべて「可変するテキスト」です。今、いつできるかわからない「紙の本」めざして整えて書き継いでいる原稿もサイトにアップしたものが多いのですが、全部書きなおしています。書きなおしていないのは「光の織物」と「マリオネットの朝」。このふたつはこれ以上はいじれませんでした。
さてと久しぶりに晴れてきました。時間があれば自転車に乗りたいですね。
ではでは。
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