| 2003年05月01日(木) |
現代詩手帖を読んで。 |
現代詩手帖の5月号を読みました。特集は「『読者』いま詩はどこに届くか」。 読者の少なさ、書店での本の扱い、価格の高さなどなど、あえて読者と書かずに「購読者」と書かれてその状況をはっきり記しているかたもいました。 で、現代詩の世界では「投壜」という言葉がキーワードになっていましたね。
野村喜和夫さんが、去年の秋に秋吉台で行なわれた現代詩セミナーで読者と作者の関係は「投壜通信」と語ったことが波紋を呼んだんです。否定もあれば肯定もありました。それだけ象徴するような言葉なのでしょうね。
ぼくはそれだからどう、とは考えられないでいます。 壜を投げる、というのは壜の中にメッセージを入れて海に流す、あれです。ポリスの「メッセージ・イン・ザ・ボトル」です。
詩の需要がないわけじゃないぞ、と書く方もいて、その引き合いに出されるのがネット上の自分のサイトで詩を発表している人。あんなに多いじゃないか、というわけ。なんだ、ぼくらのことじゃん。 そのこと以外はネットに関してはそりゃあもう、ほぼ全否定。「あんなもんは自己満足」でおしまい、という人もいました。
ネットに可能性を見出した鈴木志郎康さんのサイトのことなんかは全然書かれていなかったな。 あるいは活字でだめだった中年がネットでのさばって、酷な批評で若い新人の芽を潰しているという指摘も。なんじゃ、そりゃ、ですな。 谷川俊太郎一人勝ちについての念のいった説明とか、茨木のり子さんの詩集が爆発的に売れたことの理由は「老人受け」だとか。なんだか読んでいて暗澹たる気分になってしまった。
穂村弘さん、平田俊子さん、今井義行さんの文章はとてもおもしろかったけれど。 いつも投稿している欄の選者、井坂洋子さんもアンケートに答えるかたちで一文を寄せていたけれど、もう「我が道を行く宣言」。そうでしょうね。「にもかかわらず詩を書く」ということは。そういう声のほうをぼくは支持したい。
ただ一つはっきりしているのは「詩を愛しているかどうか」あるいは「詩を生きているかどうか」。詩人が問われるのはまさにこの点だと思います。
「愛する」という点では、たしかに自分で書いている人で他の詩を読まない人がとても多いのはそのとおりだと思います。詩集を読まない「詩人」ですね。べつに読まないからどう、とは言えないかもしれないけれど。
そんな本を読んだ翌朝、ミメイさんの作品と保坂和志さんのメルマガが届いていて、ミメイさんの作品は相変わらずとてもよかったし、保坂さんのメルマガも生き生きしていてとてもよかった。
ま、ネットのことをボロクソに書かれても別にかまわないけれど、ネットにはこういうものもあるんですよ。と書いたってネットなんか見てないんだろうな。
やっぱり、ぼくはぼくの道を行くしかないと、方向が見えたという意味でとてもよい「現代詩手帖」でありました。
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