| 2003年04月27日(日) |
なにを「生きる」のか |
きょうは日曜日、久しぶりにすっきり晴れました。 京都新聞の日曜版はいつも2つの面を使って「読書特集」。新着の本の書評を中心とした読書の話題です。 「京のベストセラー」というコーナーもあって、どこまで行くかと思った「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が早くも2位に後退。代わって一位になったのが「バカの壁」養老孟司さん。これ面白そうだな。
「ブックサイト」というコラムもあって、今週はノンフィクションライターの吉岡忍さんが書いておられた。取り上げられた本はなんと、画像処理ソフトの「フォトショップ・エレメンツ2.0(アドビ社)」のマニュアル本数冊について。とにかく不親切で、わかりにくくて、吉岡さんの探している「技術」を書いてあるのは1冊もなかったそうなんです。
それは写真合成の時に、この部分は合成しましたよ、と白枠で囲みそれを枠ごと変形させたりする技術のこと。たぶんフォトショップではそんなことは想定してないと思うんですよね。むしろ逆にそんなことをするんじゃなくて、だれもが判読できないほど巧妙な合成ができるというのが「セールスポイント」でもあるのだろうし。
ぼくの興味を引いたのは、マニュアル本のことではなくて、そのソフトの優秀なこと。逸話として紹介されていたんですが、今回のイラクの戦場で撮られたという「キャパなみの写真」が合成だとバレたんです。吉岡さんは、これだけ優秀なソフトならそんな誘惑に駆られる輩も出てくるんじゃないの、と笑ってる。 だけどそれと、今考えているどう「生きるのか」ということが重なっていろいろと思うことがありました。
それは今読んでいる「言葉の外へ」(保坂和志)というエッセイ集で語られた「『記憶の外部化』と思考の衰退」という稿にも符合するし、他の稿でも保坂さんが触れている、クリエイターがエディターになってしまった、ということじゃないだろうかとも思えるんです。つまりはデータベースによる「記憶の外部化」の一つの弊害として。
データならばネットにいくらでも存在するし、あるいはその類型化もリサーチしやすい。バーチャルとリアルの攻めぎあいというまでもなく、バーチャルが現実なんですね。ただし、それはいつまでたってもリアルにならない現実。
で、ぼくの近くで考えればサイトはなんのためにあるのか、ということなんです。あるいは詩を書くこととは。 保坂さんの言葉を借りれば結局、それを「生きるのか」どうか、ということだとおもうのです。「それを生きているサイト」なのかそうではないのか。詩を生きているのか生きていないのか。
例えば薔薇、例えば京都、例えば猫、そういうものの紹介をサイトでする時のスタンスというのは、もっともっと引きつけたものでなければ、見る人も何も感じないでしょうね。どこにでもあるんだから。
以前にここでも書いたけれど、ぼくがどう感じたか、それはどうでもいいことに思えるんです。それよりも何があったのか、そしてぼくはどうしたのか。そのことのほうが大事のような気がするんです。感じるのはぼくではなく詩を読む人ですし。
「言葉の外へ」。今、88ページです。何度も読みたい本です。
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