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2005年07月17日(日) 非戦、非競争主義 その2

僕の生き方が大きく変わったのは、1年半ほど前。
僕は、非戦、非競争主義者のつもりで生きていたつもりだった。
でも、いつの間にか最も競争の激しい世界に巻き込まれていた。
僕は、3時間の睡眠で働き、戦い続けていた。

午前4時に就寝する生活が日常になっていた。
結果的に僕はマトモに歩く事すらできなくなり、転倒して骨折した。
心療内科ではなく、外科に行った。
外科で治療を受けて、そもそもの原因が自律神経がぶっ壊れていることがわかった。
3時間睡眠が日常な人間の身体が正常であるはずがない。
人間ドックでは、いつもA評価だった。
僕は鉄人かも、という驕りもあった。
でも、僕はまっすぐに歩けなかった。

外科から心療内科に移り、医師は即座に休職すべきだ、と言った。
このままだと死にますよ。
会社側からも、すぐに休職すべし、との指示が下った。
うつ病などの疾患は、本人がごまかしていれば、表面化しづらい。
僕は、骨折していて、外科的にも異常が表面化していた。
誰がどうみても異常だった。
原因を追求していくと、極端な睡眠不足に行き着いた。
人間として、生物としての限界を超えていた。
僕は、ただただダラダラと遊んで暮らす休職生活を始めた。

休職して暇になってしまうといろいろと気付いた。
暇なハズなのに、全く退屈しない。
一人でいてもじゅうぶんに楽しい。
異常な環境のなかで生きてきた僕が、忘れていた事をたくさん思い出した。
僕は音楽が好きだったのだな、僕は絵を描く事が好きだったのだな、僕は文章を書くことが好きだったのだな、僕はクルマやバイクが好きだったのだな、僕は本を読むことが好きだったのだな、僕は映画を見ることが好きだったのだな。
時間が取れないせいで、忘れていた感覚だった。
仕事が趣味なのではない、趣味を強引に仕事にしているのだ、と僕は主張していた。
でも、趣味を仕事にしている、といいつつも、多くのものを忘れていた。

僕はかなりヌルい環境で育った。
ゆとり教育世代ではないのだけれど、必死になってお勉強をしなくてはならない、という世界ではなかった。

僕が子供の頃、夕食は夕方の6時だった、
夕方の6時に家族が揃って食事をする。
僕の父は高校教師、母はピアノ講師。
父は、授業が終わったらすぐに帰宅し、仕事は自宅に持ち帰っていた。
母は、自宅で夕方までは子供を対象にピアノを教え、夕食後は音大受験の高校生に受験対策のレッスンを行っていた。
子供の頃の僕にとって、夕方の6時に家族が揃っていることは、日常の風景だった。
夕方の6時に家族が揃って食事をして、その日にあったことを話す。
7時頃から僕は、テレビを見る。
両親はそれぞれ自宅で仕事をする。
今の時代ではなかなか想像しづらい平和な家庭だ。

僕は夕方の6時に家族が揃って食事をする、という世界で育った。
それが僕の原風景なのだ。
僕は独身だけれど、家庭を持ったとして、そのような家庭が築けるか、というと120パーセント不可能だろう。
日付が変わるまでに帰宅できればラッキー、といった家庭にしかならない。
週のうち何日かは仕事で徹夜して帰宅しないだろうし、休日も仕事に出かけていくだろう。
子供はグレるだろうし、夫婦仲はむちゃくちゃになり、あっという間に家庭は崩壊するだろう。
僕の家族の原風景と今の僕の置かれている環境の落差はとてつもなく大きい。
僕が未だに独身である理由はそこにあるのかもしれない。
両親は、戦う事、競争することを僕に強いてこなかった。
僕は、平和な世界で育った。

僕は、たまたまお勉強ができた。
理科や算数は僕にとってゲーム機で遊ぶことと同義だった。
パズルで遊ぶ感覚で、理科や算数のお勉強をしていた。
本を読むのが好きだったので、国語や社会の成績も良かった。
小学生の僕にとっては、お勉強は遊びだった。
遊びだから熱中する。

小学校時代の途中で、僕の特異な性向に担任の教師が気付いた。
担任の教師は、僕を自宅に呼び、特別授業を行うようになった。
僕は、学年に見合った授業や宿題は僕の好奇心を満たせなくなっていた。
担任の教師は、新しいゲームソフトを与えるように僕に特別の宿題を出した。
僕は2学年うえの宿題を与えられ、休日には担任の教師から特別授業を受けた。
遊び、としてお勉強に熱中する僕は、面白い実験材料だったのだろう。
教師である僕の父にとっても、担任の教師にとっても、僕が遊びと同じ感覚でお勉強に熱中す姿は興味深いものだっただろう。

僕にとっての特別の授業や宿題は、新しいゲームソフトを与えられている事と同義だった。
僕はお勉強マニアだったのである。
純粋に算数の文章問題を解く事、実験をともなう理科のお勉強が楽しかった。
遊びとお勉強が同義だった。
僕は特別に扱われる事になった。

そこには戦いも競争もない。
ただ、お勉強がおもしろかったから、遊びとしてお勉強をしていた。
学校で、僕がお勉強ができる子供として扱われる事、同級生に対して比較にならない才能、というような他者を意識したり、相対的な価値観はなかった。
面白いからお勉強をする。
簡単なお勉強ではつまらないし、飽きてくるので、難易度を上げてもらう。
算数のドリルなんかは、ただの作業に過ぎなかったので、面白くもなんともない。
面白くするためには、タイムアタックでドリルを何分で完了するか、が遊びになっていた。
タイムアタックだけではすぐに飽きてきたので、難易度を上げるために2学年上のお勉強をしていた。
子供の頃の僕にとっては、同級生との相対的な比較は興味がなかった。
何なんだこの子は?

競争原理はなかった。
たまたま成績も良かった、に過ぎなかった。
僕は他者との競争を意識することがなかったし、何らかの目標があったわけではなかった。
田舎で育った僕にとって、有名私立中学に通うことは事実上不可能だった。
私立中学には自宅からは通えない。
ただただ、遊びとしてお勉強をしていた。

中学に進学したら興味はお勉強ではなくなっていった。
僕は音楽に傾倒していった。
毎日ギターを弾く事に全てのエネルギーを注ぎ込み始めた。
僕は、お勉強に興味を失い、あっという間に、学業的には普通の子、になっていった。
中学生以降、マトモにお勉強をしたことがない。
事実上の小卒、と僕が自称する理由である。

グレたわけではない。
好奇心が音楽に向かい、お勉強に対する興味がなくなったからだった。
僕は、興味のあることには全精力を注ぎ込むのだけれど、興味のないことには、何もしない。
あっという間に僕の学業成績は普通の子供になっていった。
相対評価に興味ないので、自分の成績が下がっていく事には何の興味もなかった。
もともと非戦、非競争の僕にとって、成績ランキングがどんどんと下がろうと、どうでも良かった。

絶対評価でしかない音楽のほうが楽しかった。
音楽は、ある程度の最低レベルを達してしまえば、あとは感性や趣味の世界である。
好きか嫌いか、合うか合わないかの世界。
音楽の優劣は相対的ではなく、絶対的である。

就職するまで、僕は非戦、非競争のまま育った。
就職して十数年が経ち、ようやく戦争、競争の真っ只中にいることに気付かされた。
身体が人間の、生物の限界にまで達していることに気付かされた。
ぶっ倒れて、仕事をストップさせて、ようやく自分の非戦、非競争主義を思い出した。

僕は二度とハードワーカーにはならない。
僕は、非戦、非競争主義者だ。
立って半畳、寝て一畳。
多くは望まない。
清貧でいい。

相対的に勝つことには、既に興味がない。
地味に生きていければ、と思う。




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孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように

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