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2003年05月12日(月) 葬儀は伝統に則った完璧に様式化された一大イベント

祖母の葬儀が終わり、お世話になった方々への挨拶回りも数件を残すのみとなり、ようやく多少休む事ができた。

今回、葬儀中に感じたのは、葬儀というものの形式美だ。
葬儀屋の完璧なマニュアルや段取り、僧侶の読経。
葬儀は完成された様式美の一大イベントだと思った。

三人の僧侶の合唱にも似たお経を見て、これは立派なライブパフォーマンスだと思った。
芸術として美しいのである。

そして、葬儀は全てが合理的だ。
日本の古来からの伝統のようなフリをしつつ、全て合理的に計算されている。
例えば、焼香の順序、席順。
これらは血の濃い者が上位となる。
地位などは全く関係がない。
弔電の読み上げ順にしても、全て亡くなった祖母との関係の濃さのみで順番を決めた。
弔電を送ってきた人や葬儀への出席者には当然、政治家が出てくる。
選挙活動の一環だから。
僕達は祖母と本当に関係のあった政治家以外は、全て「その他」の扱いにした。
そして、食事にも全て意味がある。

葬儀は結婚式と異なり、準備時間がほとんどない。
今回も祖母が亡くなってから、通夜までは24時間。
葬儀までは40時間ほどだった。
たったこれだけの時間で、一大イベントを滞りなく遂行しなければならない。

そこでは、プロフェッショナルとしての葬儀屋の果たす役割は大きい。
葬儀屋の言う事はすべて、合理的で無駄がなかった。
10分の無駄もない、完璧なスケジュール。
食事の手配、交通の手配、花等の飾り付けの手配。
全てが完璧だ。
素晴らしいプロフェッショナルだと思った。

葬儀は伝統に則った完璧に様式化された一大イベント。
結局のところ、伝統というものは、合理的なものなのだ。




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