| ∈凹な話で、ごめんなさい∋ |
| 2002年10月25日(金) |
昨日は、お天気よかったぁ。 ・・・に反し、昨夜は一日の出来事思い出し、落ちるトコまで落ちてしまった。
その日の前から、嫌な予感はしてもいて。 でも、ひさしぶりに会える人や、何ヶ月ぶりかの電車やその地に。 わくわくと期待もしていて。 でも、前者の方が、明らかに勝ってしまった、あっけらかんと。
どこに行ったかは、ここには書けないのですが。 以前書いた、ボランティア的なことのつながりです。 ちなみに、くどいようですが、あたしは、「してもらう側」。 それを、嫌と言うほど、気づかされた。
基本的に、障害者の自立を助けようというか。そういった主旨です。 前日まで、熱が出て、当日も38度近くあり。 右半身も痺れたまんま。 行くのやめようか、迷いながら、どちらかというと迷うべき選択法もなく。 最低限の責任をつらぬいて、半根性で。
広い会場の中、車イスを漕ぎ漕ぎ。 漕ぐのが努力、自立の目指すところなんだという雰囲気の中。 まだ、もっと努力して外に出ないから、車イスもろくに漕げないんだよと、言われないだけましかぁー・・・と。 目では、訴えていらっしゃる人もいたが・・・。
ふらふらの頭で、かつまだ電動車イスも届かない中。 どーしても現地まで、自力で行く自信もなく。というか、正確には行けるような状態でなく。 母に付き添いしてもらった。
自立=一人で外に出ること。 まず、たしなめられた。 病状のこと、今日の体調、話しても、「甘え」としか受け取ってもらえなく。 母が娘であるあたしの、現状をただ話しても、「娘をかばう過保護の親」として、より映る・・・という悪循環。
ボランティアは、してもらうだけではいけない。 フィフティーフィフティーの関係であるべき。
ただその場で、「ありがとう。」さえ素直に言えない。 心から言えないまま、口にした言葉は、きっと人のココロに届くはずもなく。
あたしは、甘えてるのかもしれない。 してもらえるだけ、もっと感謝しなきゃいけない。 でも、言葉にするだけでは、いかない。 そんなの、世間では通用しない。当たり前。 その言葉でさえ、出すのが心苦しくなって、つまってしまう。
そんな偽者の自分の笑顔が、悲しかった。苦しくて、早く、その場から離れたくて仕方なかった。
どこかで、あたしはいつも、誰かに気を使って過ごしている。 いつも誰かが、日常に必要とする。 機嫌損なわれることに、怯えている。
あの子のおかげで、そんな自分の毎日に、自信が生まれたのに。
これ以上、周りに望むのは、贅沢なんだろうか・・・。
「ありがとう。」 を、行動で表せない自分の体が、悔しい。 みんなの理想通りになれない。 ほんと、苦しくて、申し訳なくて、仕方なくて・・・。
生きてく、自信・・・なくしちゃった。
☆追記☆
このまま、鬱な気持ちで終わってはいけない・・・と思い・・・。 さっき、たまたまある方から言われた言葉。
「誰でも、人の顔色伺い、遠慮して、本来の自分を偽り生きている部分はある。」 「そのことを、自然に受け入れればいいんじゃないか。」 と。
なんとなく、ホーッともした。 そんな考え方もあるんだな、と。 あたしの今悩んでる原点との、「ズレ」はあるかもしれないけど。 でも、人は生きる限り誰しも悩みを抱えて生きてるし。 自分の思うように、自由に生きれるわけもない。 それは、健康であれ、病気持ってても、障害持ってても、人はみな同じ。
あたしは、誰の何の遠慮もする必要もないし、もっと気楽に、自分の人生楽しめばいい。 ただ、それだけ。 「一生懸命生きてるんだっ!」という確信があれば、堂々と胸を張ればいい。 それを、誰かに、とやかく評価されるつもりはない。
もっとがんばれ? あたしは、病気にも障害にも、甘えてるつもりもないよ。
あたしの毎日なんだ。 あたしの、人生なんだ。
あなたにとっては、つまらない価値のない人生に見えたとしても。 あたしにとっては、必要な大切な毎日なんだ。 同じ、毎日の繰り返しでも。
それで、悪いかっ。
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