| 1999年04月24日(土) |
天童荒太著「永遠の仔」上・下 |
それぞれつらい過去をもつ3人の男女は子供の頃の一時期を同じ病棟で過ごした。そこで3人はある犯罪を犯し罪を共有することになるが...。 子供による犯罪が多発する現代にあって多分その病根を探ろうとする意図があるようだが、この小説では当然ながらその原因を親のあり方に求めている。 そしてさらにその親には親があり...。悲劇は繰り返されるというが、子供は親の呪縛から永遠に解放されることはないのだろうか。子供にはそれをはじきとばす無垢なものが、生まれつき持っている筈の真っ直ぐにのびていく力というものはないのだろうか。 あまりにひ弱な今の子供たちには 昔は確かにあった筈のそういった力が欠如しているように思う。だから親の葛藤の影響を直接受けてしまい、人格さえも崩壊されてしまうのではないだろうか。 確かにヒロインの不幸は、どうしようもないものに思える。 父親が実の娘を云々という話は先日のシドニーシェルダンで読んだばかりのせいか、このようなテーマで小説に書くこと自体に腹が立つ。 的外れな怒りであることはわかるが、こういった題材を読み物にしてしまうところになんともいえないものを感じる。そのような父親というのは早い話が異常なのである。 異常なものをあたかも社会現象のように小説でとりあげてベストセラーになってよいものだろうか。 加藤諦三は子供を愛せない親に育てられた人間がいかにゆがんだ存在になるかを何度も何度も繰り返し語る。 どの著作を読んでいても 又かと思うほどそのテーマが出てくる。 実際に加藤諦三がそういった親に育てられたらしく、そこここにその恨みが噴出している。 ここ7、8年は読んでいないのでもうそろそろ親から解放されたかも知れないが(しかし、数年前に加藤が訳して話題になった「インディアンの教え」は親に心底愛された子供は親の愛を失うことを恐れなくて済むのでどこまでも親から離れて冒険をすることができるというようなことが書かれていたので、相変わらす...と思ったものだ)加藤諦三ですら、親の呪縛から逃げられないのかと思うと、今の子供がひ弱であるというだけの理由はなりたたないのかもしれない。 感受性の強い子供が 単に嫌いなだけのまたしても私の独断に過ぎないかも知れない。 私自身は青春時代、感受性など、人間としての贅沢品だと思っていた。 長く書いた割にあいかわらず書評になっていない。 親の呪縛から解放されるには、まず親を神格化したい自分に気づき、親も又一人の人間なのだと悟ること。等身大の親を発見すること。 人間の無償の愛などというものは滅多に存在しないことに気づくことではないだろうか。99・4・24
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