ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年05月18日(水) 人生が二度あれば

きょう、お掃除のバイトをしている店で井上陽水の「人生が二度あれば」をカラオケで歌った。

父は今年二月で六十五 顔のしわは増えて行くばかり
仕事に追われ このごろやっとゆとりが出来た
父の湯のみ茶碗は欠けている それにお茶を入れて飲んでいる
湯飲みに映る自分の顔を見つめている
人生が二度あれば・・Oh
母は今年九月で六十四 子供だけの為に年とった
母の細い手漬物石を持ち上げている
そんな母を見てると人生が誰の為にあるのか分からない
子供を育て家族の為に年老いた母・・Oh
人生が二度あればこの人生が二度あれば・・Oh
父と母がコタツでお茶を飲み 若い時の事を話し合う
思い出してる夢見るように夢見るように・・Oh
人生が二度あればこの人生が二度あればこの人生が二度あれば・・・

僕はこの歌を歌ったが、作者の視点とは違っているかも知れない。
また、この作者の父や母の気持ちも作者が想像しているのとも違う可能性も考える。
父は湯飲みに映る自分の顔を見つめて満足しているかも知れない。
母は漬物石を持ち上げている人生を否定的に考えているとは限らない。
無事に子供を育て上げた事に誇りを持っているかも知れない。
野菜を育て、それで漬物を作る事に大きな興味と喜びを見出しているかも知れない。婦人会では石鹸を作って多くの人に喜ばれているかも知れない。
この歌の作者はまだ若い(当時)。身近な生活の雑事にも大きな喜びの可能性がある事に気付いていないかも知れない。有名になる事、金持ちになる事、世間的に偉くなる事に意義が有るように考えているかもしれない。そうでないかも知れないけど。では、どんな生き方なら意義深いと考えるのだろう?
尤も、僕はこの歌の作者と語り合った事も無く、その両親とも会った事もないのだから、こういう視点の違いに付いて書く事は単なる想像に過ぎない。
作者は自分の両親をネタにして書いているのでないかも知れないし、愚痴ばっかりで何の為に誰の為に生きているか分からないような老いた夫婦をネタにしているかも知れないのだ。
僕は「前世療法」という本を読んだ事もあるし、自分が地球外のどこかにいて地球上で生きた生を回想し涙ぐんだという体験もしている(これは来世体験?幻覚のカテゴリーに含まれる)。それでいて、人生は一度きりであるように感じる事こそ意味が有るのだと思う。一度きりであると感じられるこそ掛け替えのないものとして生きるべきなのだと。二度目の生も有るのだとしても、二度目の生も一度きりなのだ。
誰かの人生を、他の誰か成功者と考えられるような人の人生と比べて、つまらないものであるかのように思うとしたらそれもまた人生。しかし、人生は一度きりだし、その人生の意味は本人にとってどのように感じられるのかという事が比較する事よりも一層大切だ。僕は貧乏であっても有名でなくても、虐待されるような事があったとしても、今に生きる意味を感じる。オジギソウをチョンチョンして嬉しくなる。一年に1mmだけしか太くならないサボテンの将来を夢見る。石鹸を作って喜んで貰える。それもまた人生!





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