ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年05月15日(日) 犯罪と精神障害

殺人などの重大な犯罪が起こった時に、裁判で問題になるのは、被告は精神に異常を来たしていなかったか・責任能力を問えるかどうかという事だ。精神鑑定され、精神異常・心神耗弱であると判断されれば、判断・責任能力なしとされ無罪、そうでなく、責任能力有りとされれば有罪となる。被告の未来にとってこの差は大きい。
この大きな差を齎(もたら)す判断は「責任能力がある」「責任能力がない」という二つの言葉だが、その二つの言葉の分かれ目というのはそんなにはっきりと分けられるものでないし、明確な根拠があるわけでもない。
 例えば大阪の池田小学校で児童八人を刺し殺してしまった宅間守は責任能力ありと見なされ死刑になったが(事件については沢山の記事が有るが、とりあえずhttp://www.kachijiten.com/news/murder.html)親や元妻や社会に対する怒りが如何に大きいとは言え、それを大量殺人の理由にするには飛躍があるし、宅間を傷付けた本人にではなく無関係の子供をターゲットにしたのは見当違いだし、一人の苦しみを八人の命で鬱憤を晴らすのはバランスも悪過ぎるのも誰の目にも明らかなはずだが、宅間本人だけにはそのようなレベルを超えて怒りや妬みや絶望的な苦しみが圧倒してしまった。
こういう彼の状態を判断能力を無くした状態と理解する人も居るだろう。
苦しみが個人的レベルの限界を超えると病気になったり、それまでやらなかった事をするかも知れない。自殺するかも知れない。鬱病になるかも知れない。正直な商売を止めてしまうかも知れない。ギャンブルに走るかも知れない。酒に走るかも知れない。限界を超えた時に本人がどのような道に行こうとするかは意識的なものとは限らない。苦しんだ挙句「観音菩薩が見えた」という事にでもなれば宗教家になるかもしれず、それを他の人に言ってしまえば分裂病として救急車を呼ばれる事も有り得るのだ。
宗教家も詐欺師も精神異常も自殺も殺人も苦しみから逃れる方向の違いと考える事もできる。
どの方向に行くかは本人の生い立ちや知恵や健康状態や余裕や苦しみの性質などによって変わるが、それも本人の意識的レベルを超えた総合的なものだと言えるだろう。


いなっち |MAILHomePage

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