今日もガサゴソ
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2004年03月31日(水) 12歳の頃

昨日、アタゴオルのことを書いて
12歳の時のことを思い出して
改めて書いておくことにしました。


私が最初に実家を離れたのは小学校6年の時、
入院のためでした。
右の耳の慢性中耳炎が単純なものではなくて
一度手術したのですが、3ヶ月ほどで再発して劇症化して
半死半生で盛岡の医大付属病院に転院したのです。
その病院へは列車で3時間の道のりでした。
当時、伯母が同じ病院の内科に3ヶ月ほど入院していました。
これは大変な救いでした。
(伯母は原因不明の植物状態寸前から生還しました。)
また、母方の祖父が倒れて、母は看護に通っていました。
私は一人で、付き添いなしで入院することになりました。

医大付属病院では3週間おきに
髪を剃り、手術室で9時間以上に及ぶ
手術を局部麻酔で9回受けました。
半年入院していましたが、その間に
私が見たものはおびただしい人の死でした。
失明するという宣告に耐えきれず身投げする人もありました。
医療費が続かす、家族から死んでくれと頼まれている人もいました。

手術や治療の痛さ辛さは
病気の症状の苦しさよりも酷いものでした。
でも、深く進行する病気なので、放っておけば
病巣が脳に達して命が危ういのです。
まわりには子供がいませんでした。
細菌による感染症も問題で小児病棟のささやかな学級にも
入ることが出来ませんでした。
聞こえを残すために手間をかけて手術をしていたのですが
本当に聴力が残るとは主治医も考えていなかったそうです。

有難いことに、当時最新の手術と治療を受けて
私の耳は取りあえす、聞こえを失いませんでした。
高額であった(小さな家が一軒建つほどの)医療費は
父の会社の厚生と父の実家の援助でどうにかなりました。
小学6年のうち8ヶ月を入院で費やしました。
留年ということであれば、このまま盛岡の学校に通いなさいと
言って下さるお医者様もありました。

私はたまたま、小学校5,6年の担任を憎悪していて
あの方に何も教わりたくないという痛烈な反発を抱いていて
5年生のうちから一人で教科書や参考書を使って
五教科をおさらいしていました。6年生に上がる前の春休みには
6年生の学科のほとんど終わらせていました。
それが担任を喜ばせるとは皮肉なことなのですが、
担任が病院に持ち込んでくる山のようなワークブックやテストを
適当に書き込んで返しておくことで
普通に小学校を卒業することが出来ました。

私は病気と孤独に苛まれていました。
自宅に戻ってからは鬱に襲われていました。
反抗期として片付けられていましたが
後年になって精神科の先生に診断して頂きました。
病気だったと喜んでいる場合ではないのですが
鬱ですって、鬱。

胸の中ががらんどうのようで
大きな穴が開いていて
冷たい風が吹き抜けていました。
痛いほど冷たくて、何もかもがむなしいのです。

あんなにも大騒ぎをして治した耳に聞こえてくるのは
詩でも音楽でもなく
ゴシップまみれの汚らしい言葉ばかり...

長い入院の間、本に飢えていたので
手当たり次第に本を読み始めました。

誰かに慰めてもらいたかった
私にわかる言葉で教えて欲しかった
美しいもの、純粋なものが見たかった
人は何故生きるのか
死んだ後に何が残るのか
生きていくという意味を知りたかった
安らかな気持ちで休みたかった
それを逃避といって欲しくなかった

いつもガンガン頭が痛くて
よく眠れなくて
いつもお腹が痛くて
日中汗を掻いた日の夜は必ず激しい下痢をして
タオルケットにくるまって
二時間も脂汗を流している
体育を休みたいと申し出たら変なはなしにこじれていく
週に一度通院する日は
授業を抜けていくのだけれど
時間割は決まっているから穴の開く授業が出てきて問題になる
子供らしくない本を読むといわれて
父に干渉される
一緒に遊んで欲しがる弟に執拗にちょっかいを出される

鬱でなくても気が変になりそうな日々でありました。
悲惨な12歳であったかも知れないし
ある意味では非常に幸運な12歳であったかも知れません。

いつか明石さんまさんが云っていたよ。
人は裸で生まれてくるんやから
生きてるだけで丸儲けやって...


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