朝イチから父の手術。とりあえず成功。
妹も朝から付き添ってくれた。 私はというと、午後でいいよと言われてそれを鵜呑みに。 仕事しまくっていたら、客先から緊急呼び出しくらって 結局17時まで客先会議で、その後ようやく病院へ。
麻酔が完全に抜けて酸素マスクもはずれるところまで見届け、 妹とごはんを食べてから帰宅。
今日の忙しさはあらかじめ予見されていたため 昨夜は早めに仕事を切りあげて見舞った。 母は帰宅後だったので、2人きりでみっちり40分程度話した。 こんなに話したのは久しぶりかも。
今回の手術はまぁ大丈夫だろうと思ってたけど 人生何があるかわからないし 母は「手術中に余震が来て、先生の手が滑って神経切ったらどうしよう」 とかそんなことを心配していた。
近いんだから行っておかないと後悔するかも、という、 まぁ利己的な理由でのお見舞いだ。
人の命は何より大切、と、まぁ一般論としてはそうなっていますね。 そこに異議を唱えるつもりはさらさらないですが。
でも、こうやって手術中に心配して待ってくれる人、 生きることを望んでくれる人、 死ぬと悲しむ人、が、いるのといないのとで 実は価値が違うんじゃないかとふと思った。
またまた過激な意見ではありますが。
今のところ私は、両親より先に死ぬわけにはいかないから まぁ無価値ではなく。
でも両親がいなくなったあとだと 救い甲斐がないというか、 無理して救命することもないんじゃないかな。
本人が生きたいと強く思っていれば別だけど そうじゃなければ余りシャカリキになんなくてもいいのではないか。
老人に過度な延命措置をするのって意味ないじゃん。 意味があるとすると、それは遺される人への心情的な意味であり。
だとすると、遺される人がいないなら、 延命医療は不要ということになるよね?
何が言いたいかというと、 私はダメっぽかったら大して措置せず臨終させてもらって構わないってこと。
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