■ 豆文 ■
 2006年04月07日(金) 【 中毒奇譚:4 】

【注意書き】

 初見の方はまずこちらをご覧下さい(『はじめに』のページです)

【店主の経営メモ:本日のお客様──脆い花のような人】

 ふらり、と男性は休憩していた壁から離れた。
 ふらり。ふらりふらり。何かを求めるように歩く。

 けれど人を見付ければそれを避け、細い路地に入った。
 にゃあと鳴く野良猫を見付ければ、路地から出た。

 求めるように歩く。
 出会うものを拒絶するように歩く。

 男性は歩く。

 全てを避け続け、やがて辿り着いたのは──


「いらっしゃいませ」
 優雅さを感じさせるリズムで発せられた声は、男性に対してかけられていた。男性はその時初めて、避ける事をせずに止まる。
 いつの間にか自分の手が開いていた漆黒色の扉、その先にいたのは、若い男。いらっしゃいませという言葉からして店なのだろうか。男性は考える事すら拒絶していた筈の頭の隅で、小さく思う。
「……どうされました? 宜しければお掛けになって下さい、お茶をご用意致しましょう」
 虚ろな目をした男性に、男は変わらぬ微笑みを湛えたままそう言った。男性は無意識で、静かに漆黒色の扉を閉めて、側にあった椅子に座る。
 おかしい、おかしいな、拒絶をしていた筈なのに。逃げたかった筈なのに。男性は再び考える。目の前に手際よく差し出された琥珀色のお茶を、男性はぼんやりと眺めていた。
「……すみません、僕は──なんとなく、この扉を開けてしまって」
「左様ですか、それはきっとご縁というものではなかろうかと。ここは店なのですよ、僕が店主です。僕の趣味で様々な──本当に様々なものを取り揃えておりますから、何かご用命があればなんなりと」
 男、店主は冗談めかしたように、男性が店に来た事を『縁』だと告げた。男性はゆっくりとカップに手を伸ばし、湯気の立つ琥珀色のお茶を口に含む。
 おかしいな。男性は思う。
 おかしい、ここにいると、自分がいていいものだと思えてしまう。
 いや、いても特に気にならない、と思ってしまう。
 消えてしまえばいい存在なのに、おかしいな。男性はお茶を美味しいと思い、温まる身体を感じて更に思う。おかしいな、美味しいと思うなんて、温かいなんて、まるで人間のよう。
「欲しいもの……は、無いというよりは、僕はこれ以上、何かを求めるべきではないと、思うから……このお茶ですら、本来なら美味しいと思っちゃいけなくて」
「おや、自慢の一品ですのに、けなされるのですか?」
 くすくすと笑いながら店主は言った。男性は反射的に『ごめんなさい』と返してしまう。
「失礼、冗談ですよ。ですが誰にでも、お茶を美味しいと思う権利くらいはあるのでは、と。お客様の事情は存じませんし、僕からの詮索はする事は無いですけれど、お店に来て頂いたお客様には美味しいと思えるお茶を出す。これは僕のポリシーの1つですので、どうぞ気にせずにお付き合いを頂ければ」
 気にせずに。
「……僕が、どんなものでも構わない、と」
「ええ、お客様が外で何をどうされていようが、この店の中にいる間はただのお客様です」
 変わった店だな、と、男性は虚ろだった視界が少しだけ鮮明になったような感覚を覚えた。そうか、自分は今はただの客なのか。
「でも欲しいものがない。冷やかしでもいいの」
「ただお茶を飲みに来るだけの友人も割といるのですよ。そうですね、ですがお客様には、何かをお買い上げ頂ければ良いでしょうか、とは思います」
 男性は気付かない。店主はさりげなく、男性に気を使っていた。確固たるポリシーを持ち、詮索をしないとは言っているが、店主は自称『ただの普通の一般人』。人間なのだ。
「お茶を貰ってしまったしね、僕もそうしたいけれど──」
 僕には求める権利なんてなくて。その言葉を男性は飲み込んだ。それを言ったら店主に対して失礼にあたるような気がしたからだ。
 人間である資格もなくて、と言いたかったが、店主は人間ではなくお客様としか言わないので、言えなかった。
 どうしよう、と男性は考える。欲しがったらいけないのに。
「……僕は今、何を手にするべき……?」
 結局出た言葉がそれだった。店主は少しだけ、目を大きく開いてから──微笑んだ。
「……そうですね、お客様は──失礼ですが、少々お疲れのように見えます。身体ではなく、気持ちが」
「……」
「本など読まれてみては如何でしょう? 文学はお好きで?」
 どうだったか。それすら男性は忘れかけていた。聞かれ、お茶を再び口に含み、封じていた思考の蓋を静かに開ける。溢れてきたのは自身が過去に綴った言葉の波。
「好き、だった。自分でも、よく書いてた」
「それは素敵ですね。今は?」
「書くとどうしても、汚いものになって……自分が嫌になるし、生み出された人が可哀相だから」
 書いていない。そうだったな、と男性は思った。自分は物語を書く事が好きだったけれど、全てが壊れてしまってからはそれすらも、自分に許していなかった。
 こんな自分が生み出す話の人物が可哀相だ。
 ──こんな自分の……子供なんて、不幸でしかない。
 黙り込んだ男性に、店主は間を空け口を開く。
「……完全に僕の趣味で宜しければ、お勧めしたい本があるのですが……如何ですか?」
「ん……何でも読むよ」
 その言葉は、店主への申し訳なさからだった。初見の男がふらりと目的もなくやってきたというのに、店主はお茶を出し、本を勧めてくれている。これ以上──もう堕ちるところまで堕ちてしまっているけれど──嫌な奴にはなりたくない。そんな気持ちから出た言葉ではあったが、けれど、過去の自分は確かに、そうだった。
 物語が好きで、読むだけでは飽き足らない、そんな人間だった。男性はそれを思い出し、思わず自嘲する。
「では是非。少々お待ち下さいね」
 店主はにこりと微笑むと、立ち上がって後ろにあった扉を開けた。中に入り、それから暫く。
「こちらになります」
 戻ってきた店主は座り直しながら、一冊の本をテーブルの上に差し出した。シンプルだが儚く美しい装丁のハードカバー。店主はそれを、どこか愛おしそうに指で撫ぜた。
「とても良い話を書く方なのですよ。はまってしまうと、新刊が出る度に本屋へと出向いてしまうような、そんな方です。これは僕がのめり込む切欠になったデビュー作ですね」
 お客様の好みに合えば宜しいのですが、と、撫ぜていた指に少し力を入れて、男性の方へと押した。男性はその表紙を暫く眺め、やがてそっと伸ばした手でそれに触れる。
「……ありがとう、読んでみる」
「店ですので、お代は頂きますけれどね、少々勉強させて頂きますよ」
「大丈夫、払うものは払うよ……綺麗な表紙だね。……作者は」
 店主に尋ねると、店主はよくぞ聞いてくれました、と言いたそうに、けれどそんなはしゃいだ感情を隠すように、微笑んだ。

「作者はフィーナ・エアルという方で。彼女の書く話はそうですね──……例えるならば」

 言葉を探し、やがて見付けたそれに満足したように頷きながら、

「光を求める花を照らす、淡く優しい月明かりのよう」

 店主はそう、表現してみせた。


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