いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2013年03月11日(月) あれから2年が経ちました

 悪夢のような東日本大震災から2年が経過した。15000名以上の方々がお亡くなりになり、未だ行方不明の方が3000名近くもいらっっしゃる大惨事だった。時悪くして、無能な民主党政権のさらに無能な菅総理という最悪な司令官のもと、直後から政府の対応は場当たり的で、事後処理を遅らせる原因にもなった。

 私は、震災の1週間後にいわき市に、その数日後に三春町に支援物資を輸送した。いずれの地域も、他の東北各地に比べると被災状況は目を覆うほどのものではなかった。ただ、いわき市は、放射能の30キロ圏に近いということもあって、街はゴーストタウンのようだった。

 さらに、5月から1週間、気仙沼市、陸前高田市に滞在し、東京都医療救護班の一員(唯一人のボランテイア)として医師、看護師の避難所巡りの運転手兼雑用係を経験した。

 この1週間の光景は、生涯私の脳裏から消えることはないだろうと思うほど、壮絶という言葉では表せない悲惨で、生きる希望すら奪うほどのものだった。

 そのような、言葉を失うほどの街で、被災者の方々は明るく、助け合って暮らしていた。「わざわざ、東京から来てくれた」と、初めて昼食に入った気仙沼の食堂では、食べきれない舟盛りを店主が出して下さった。

 被災地から東京に戻って感じたことは「当たり前なことに対する感謝」だった。家に帰ると電気が使えること、家族一緒に食事が出来ること、街には商品があふれているお店があること等。普段の生活では「当たり前」のことが、実はとてもありがたいことであることに気付かされたのだ。

 日本中が被災地のために「絆」という言葉で一つになった。ところが、いつのまにか、また我儘な日本に戻りつつあるのは残念なことだ。

 石原前都知事が「被災地のガレキ受け入れ」を表明すると、すぐさま反対運動が始まった。永年、原発の電気の恩恵に預かってきた左翼活動家たちは、活動のシンボルが出来たとばかり狂喜して「反原発」運動を展開した。

 あの日から二年たった今日。今一度、あの悲惨な光景を想い出し、未だ避難生活を余儀なくされている31万人の方々のために、一人ひとりが出来ることをしようではないか。

 行方不明の方々が早くご家族のもとに帰れるよう、避難生活の方々の生活が早く再建されるよう心からご祈念申し上げる。


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