パラダイムチェンジ

2007年02月06日(火) 映画「愛の流刑地」

今回は映画ネタ。観てきたのは「愛の流刑地」
知り合いの人から、タダ券を頂いたので見に行くことに。
いや、別に寺島しのぶのヌードがどうしても見たかったとか、そういう
ことではなく(この辺、躍起になると余計怪しくなるのでさらっと流す
ことにして)。
女性だと、豊川悦司の裸と絡みに萌えるとかあるのかもしれない。

多分、ビデオのレンタルにしてもお金を払ってまでは見ないだろうと
思ったので、興味半分で見に行くことにしたのである。
(客層とかも気になるじゃないですか)
という事で今回、割と辛口かもしれません。

という事で肝心の?客層は単独熟年男性、もしくは若い女性グループ、
それに熟年男女カップルって感じで。
(この辺は実際夫婦なのか、それともそっち系なのか、などと勝手な
事を思いつつ)

で、実際に映画を観た私の感想を書くと、
「で?」の一言である。

この映画は、不倫経験者とそうでない人では感想が別れると思うし、
また男性と女性でも印象は違うんじゃないかな、と思う。
多分、この映画を一番楽しめるのって、似たような経験をしたことの
ある女性なんじゃないかな、と思うのだ。

映画の中の一シーンで、主人公のトヨエツと不倫をしている寺島しのぶ
演じる主婦が、子どもたちへの晩ご飯の支度を済ませたあと、トヨエツ
に会いに行くために、いそいそと綺麗に化粧をする場面がある。

おそらくは、同じような立場にある女性にとっては、このシーンの
子どもたちに対する後ろめたさと、にも関わらず好きな相手にこれから
会うので浮き立つ気持ちに引き裂かれる自分、というシーンが一番響く
んじゃないかな。

それはもしかすると、不倫経験はないけれど、最近夫に対してマンネリ
感を感じている専業主婦の人たちにとっても、妄想的に萌えるポイント
なのかもしれない。

多分、そういうのって、不倫中の人たちにとっては、わかるわかるって
感じのリアルな描写なんだと思うけれど、不幸にも?不倫経験の全く
なく、しかも男性である私には、そんなに身につまされる訳でもなく。

で、そういう女性側の描写に対して、この作品の中での男性側は、
単に「寝取った男」と、「寝取られた男」が出てくるだけ、って感じなんだ
よね。

で、寝取った男の論理として、寝取られた男(だけど、この人は最愛の
妻を寝取った男に殺された被害者でもあるのだが)は、どこか馬鹿にして
いる様な感じがして、ちょっと居心地が悪いのだ。

でね、個人的にこの映画で一番引いたのは、その寝取った男であるトヨ
エツが、バーのママに対して、「子供を3人生んだ主婦でも、抱かれる事
でそれまで知らないエクスタシーを知ることってあるのかな?」と聞い
た後、「男にも2種類ある。女をエクスタシーに導ける男と、そうでない
男の2種類だ」と、得意満面になって悦に入っているシーン。

あのう、このシーン、格好悪いと思うんですけど。

いや別にね、不倫が悪いとか、いいたい訳じゃないっすよ。
別に結婚してようがしてなかろうが、男と女の二人が出会っちゃって、
そこで関係が始まったのなら、その関係が二人にとってどれだけ大切
なのかっていうのは、よくわかる。

それに、逢瀬を重ねるごとに、二人の中で、どんどん相手の深みを知っ
ていったり、(下世話な話でいえば)開発されて、今まで経験しなかった
世界に導く(かれる)ことだって、自分の経験でもあるし。

だけど、個人的には、そういうのを得意気に自慢するのって何だか
不粋で格好悪い気がするのだ。
っていうか、そういうのって、二人だけの秘密か、もしくは本当に
気心の知れた仲間内だけで話してほしい感じがして、あんまり映画で
見て気分のいいもんじゃないような気がして。

この主人公や、原作者である渡辺淳一センセイの底が見えてしまう気が
するんだよね。
大体主人公もその年になるまで、一見貞淑に見える人妻が、相手に
よっては乱れることもあるって事を知らないってどういう事よ。

だからこの作品を見ていると、逡巡しながら瀬戸際を進んでいる女性に
対して、相手を開発したかどうかで悦に入っている男性の方の覚悟が
足りない気がして。

だからこの映画の中で起こる悲劇っていうのは、その女と男の見ている
視線の、すれ違いなのかもしれないな、と思うのだ。


この映画でのテーマって、「不倫の果てに行き着いた、究極の純愛は、
果たして法廷で裁くことができるのだろうか(いや、ない)」だと思う。
だけど、それでいうなら「そんな究極の純愛を、映画で描ききる事が
できるのだろうか(いや、無理)」の方が近いんじゃないかな、と思う。

法廷内で、セックスって言葉が飛び交う裁判っていうのが、なんていう
か、不思議な感じで。
(もしかすると実際の法廷でもありえるのかもしれないけれど)
しかも非公開とはいえ、判事、検事、弁護士のいる前で、セックスして
いる最中を録音した、あえぎ声のテープの再現つき。

なんかね、本人たちが真面目にやろうとすればするほど、微妙な空気が
流れるのが面白い感じだったのだ。
特に、その前に「それでも僕はやってない」を見ちゃったせいで、あっち
は痴漢で、こっちは殺人なのに、警察も検察も随分と親切だなあ、と
思っちゃったせいもあるのかもしれないけれど。

個人的には、二人の関係がどうであったのか、っていうのは、二人の
秘め事、秘すれば花にしておけばいい事だと思うし、それとは別に
被告は実際に被害者を手にかけて死に至らしめたのであるから、その
事実認定しか、法廷では争えないと思う。

あとは被告に殺意があったのか、なかったのかが争点になるべきであっ
て、もし、実際にあんな裁判があったら、被害者の女性とその遺族は
可哀相だなあと思うし。

で、同じことはこの映画にも言えることだと思うんだよね。
さっきも書いたように、不倫であれ何であれ、その二人にとっては、
相手を愛していれば愛しているほど、それは「究極の純愛」なんだと思う
し、その事を部外者が、いちいち評価する物でもないと思う。

でも逆にいえば、その二人の関係っていうのは、普遍性のあるものでは
なく、「世界でたった一つの花」みたいな一回性の貴重さがあるんだから
二人の間の秘め事にしておく方がいいんじゃないかな、と思うのだ。

それは二人の間の秘密であるからこそ、かけがえのないものだろうと
思うし、それが白日の下に晒されてしまえば、それは本人たちの意図と
は別に一人歩きしてしまうのかもしれないし。
ついでに言えば、その関係を貴重に思うんだったら、相手は殺しちゃ
ダメだと思うし。

要は個人的には、「勝手にやって下さい」という感じがして、「で?」と
いう感想になった訳である。

この映画の中で、作家であるトヨエツが、自分が作り上げた作品を、
不倫相手の寺島しのぶのイニシャルをとって「この作品をFに捧げる」と
書くよ、と言っているシーンがあるんだけど、おそらくは似たような
事を原作者の渡辺淳一も、どこぞの誰かにこの作品を捧げるという
プレイをしているんだろうな、という辺りも「どうぞご勝手に」という
感じがして。

最後に映画の出来について書くならば、
検事役で長谷川京子が出ているんだけど、あんなに蛇のような目で
見つめて、しかも被告の前でノースリーブ、ミニスカートになる検事は
いないって。
っていうか、あのテンション変。ホラー映画じゃないんだから。

この映画に余貴美子が出ているんだから、余貴美子が検事役の方が
よかったんじゃないのかな。ついでにその上司役も、佐藤浩市がスライ
ドした方が、もっと大人の関係って感じで、淫靡さが引き立ち、制作者
側、俳優側の両方においしい感じになったんじゃないでしょうか。

ついでに、別に裸の絡みのシーンを作らなくたって、主人公二人の
関係をもっと濃密に、淫靡に描けた気もするんだけど、この辺は
サービスというか、営業上の売りだから仕方がないんだろうなあ。

余談ながら、もしも実際に人妻との入水心中を繰り返した、作家の
太宰治が、裁判にかけられたらこんな感じになったのかな。
もっとも、そう考えている私の頭の中での太宰治って、昔なつかしい
相原コージの漫画「コージ苑」の太宰治なんだけど。


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