| 2005年12月02日(金) |
大人になるっていうことは |
少し前のほぼ日刊イトイ新聞の「おとなの小論文教室」に次のような 内容が載っていた。「おとな」というシステム
その中で、特に共感した部分を、備忘録的に引用しておく。
子どもはおとなから愛を与えられ、 おとなは、自分で愛の循環をつくり出す。 そう仮定したら、やっぱり、そのしくみが入れ替わる、 思春期は、精神的にきついなあ。
いま表参道で暮らしていると、 ここは恋人たちの街なのか、いやでも 手をつないだカップルに、次々でくわす。
以前は、あつくるしいと思っていたカップルを、 いまは、「うまくいけよ」と祈るような目で見ている。
カップルは、愛の製造機。
一組の好きあった男女が一緒にいるというのは、 つくづくよくできたシステムだな、と思う。 愛し、愛され、そこでは、愛が製造され、循環する。 恋人たちが幸せになってもらわないと困る。
いっぱい幸せになって、いっぱい愛を製造して 周囲におすそわけしていってほしい。
そうか、おすそわけする分を、 生まれた子どもに注ぐのだな、 そう考えたら、結婚というのも、 すごくよくできたシステムだ。
父さん、母さんで愛をつくり、 つくり出した分を、 自分ではまだ食っていけない子どもに与える。
結婚という形をとっても、この、 愛の循環がつくれなかったら、 おとなになりきれず。
結婚ではなく、 友情とか、ご近所とか、その他の人間関係や、 仕事でも、愛し、愛され、つむぎだした愛を 必要な人に注ぐ、という循環がつくれたら、 おとな、ということになる。
『大人というものはどんなに苦労が多くても、 自分のほうから 人を愛していける人間になることなんだ と思います。』
私は、ここへ来て、重要なことに気づいた。
おとなになったら、「愛する対象がいる」ということだ。 それは、男女の愛には限らないのだけど。
愛されたくても愛を与えてもらえない子供と、 愛したくとも、愛を注ぐ対称がないおとなと、 どっちが苦しいのだろう?
すきっ腹もカリカリするが、 出るものが出せない、というのも、閉塞感がある。
「愛されるよりは愛したい」という人が、 出しどころをまちがうと、 一人っ子を溺愛しすぎる、というような、 過剰になったり、いびつになったりする。
「おとな」になるっていうことは、 自分に必要な愛は、自分でとってきつつ、 ちゃんと自分から愛を注ぐ対象を見つけ、 そこに必要な愛を注いで、 細々とでも、それを、 循環して続けていけるっていうことだ。
おとなになるって、やっぱりすごいことなんだ。
うん、そうなんだろうと思うんだよね。
「おとなになったら、『愛する対象がいる』ということだ」というのは、 まさしくその通りだと思うのだ。 そしてその「愛する対象」との距離感というのが一番重要なことでもあり。 それが近すぎても、また遠すぎてもいけなくて。
無関心にも溺愛にもならず、適度な距離感を保ち、そして見返りを相手に 求めないような愛し方ができるのが、「いい大人」なのかもしれないし、 できればそんな大人になりたいな、と私も思うのである。
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