パラダイムチェンジ

2005年11月24日(木) トランス エルダーバージョン

「私がお話しを始めるのは、たぶん、偶然で、でもそれを人は運命と呼ぶ
のかもしれません。事実は存在しない。ただ、解釈だけが存在するという
古い歌がありました。私は、今、何からお話すればいいのか戸惑っていま
す。あの、順番に、私達の再会から始めてもいいでしょうか。そうするこ
とが、私の真実をわかっていただく一番の近道だと思うのです。私は何が
正常で何が異常かを分類することはできます。ですが、何が妄想で何が
真実かを分ける方法を知らないのです」


24日の金曜日、舞台「トランス」を見に行ってきた。
作・演出、鴻上尚史、出演は松たか子のお姉さんの松本紀保、みのすけ、
猪野学。

トランスは93年に初演された舞台であり、私にとっては再び劇場に足を
運ぶようになった、思い出のある舞台である。
また、おそらくはこの舞台を見たことで、人の心理とか関係性という事に
素人ながら興味を持つようになったきっかけの作品でもある。

物語の概要は、高校時代の親友3人が、ひょんなことで再会をする。
一人は精神科医、一人はその患者、そしてもう一人はオカマとして。
やがて、患者のフリーライターは統合失調性の妄想により、自分が天皇で
ある、妄想の世界を生きるようになってしまい・・・という話。

患者役のみのすけは、とても優しさを兼ね備えた男性役を演じていたし、
またオカマ役の猪野学は、本当に2丁目のショーパブにいそうなオカマ
役を好演しており。
そして精神科医の女医役である松本紀保は、ギャグの部分や身体のキレは
さすがにちょっとつらいものの、その分、女医役の精神的な深みという
ものを上手く演じていると思った。

今回の舞台には、20代の役者が演じるユースバージョンと、30代の役者に
よるエルダーバージョンの2パターンの舞台を交互に演じるためか、エル
ダーバージョンの方は、初演に比べてもよりシリアスな舞台になっていた
ようだけど、その分この舞台の物語に深く入り込めたという感じかもしれ
ない。

この作品には、実は一つの仕掛けがある。
それは、同級生の患者を治療しているはずの精神科医の女医が、実は患者
で、実は自分が精神科医である、という妄想を生きているのだ、という
全く逆の立場にある瞬間入れ替わる、という演劇的な仕掛けである。

それが、この作品をちょっとわかりにくくしている部分ではあるんだけど
今回はその入れ替わりの部分がよりわかりやすい演出になっていたと思う。
そして、松本紀保とみのすけのコンビは、その関係の危うさを上手く演じ
ていたと思うし、猪野学演じるオカマは、いくら相手の事を好きになって
も振り向いてはもらえない切なさが、こっちによく伝わってきたと思う。
だから今回、ある場面では思わず泣いてしまった。


また今回、改めてこの舞台を見て気がついたのは、ああ、この作品って
関係性を題材にしていたんだなあ、と思ったのである。
女医の紅谷先生とオカマの参蔵はそれぞれ、自分の愛する人との関係に
悩み、患者役の雅人は、自分との関係性に悩んでいる。

この作品が初演された当時位から、「自分探し」ということが流行った。
でも、「自分探し」で本当の自分が見つけられた人はいいけれど、この
患者役の雅人のように、「自分探し」を続けたあげくに、「本当の自分」
なんてどこにもいないことに気がつき、自分が何者でもないことに
耐えられなくなってしまったり、また、紅谷先生のように新興宗教に
取り込まれてしまう人たちも多かったのかもしれない。

この作品の中で語られる、治療者と患者の関係というのは、今から見る
とカウンセリングとしてはやってはいけないことを多々やってしまって
いるように見える。
(逆説的だが、それが紅谷先生が本当の医者ではない、というもう一つの
可能性についての裏づけにもなっているように見える)


だからこの作品の中では、患者役である雅人が治るきっかけになるのは、
治療者ー患者の関係を超えた(トランスした)、個人的な関係性によって
治っていった様に見える。

そして、実は「関係性こそが人を治す肝なのだ」というのは、臨床心理学者
の河合隼雄の持論でもあり。
ただ、この劇中での関係性による解決方法は、治療者としては、やはり
間違っているのかもしれないけれど。


でも、鴻上尚史の戯曲には、同じくカウンセリングを扱った作品として
「ハルシオン・デイズ」という作品があり、こちらも面白く、またカウンセ
リングの方法としては、より現実に近そうな内容になっているんだけど、
観た後の感想としては、実はこちらの「トランス」の方が、より心に響いて
来るような気がする。

それはこの作品のほうが、物語としては少し破綻していても、登場人物
同士の距離が近いように感じるからかもしれない。

この「トランス」は鴻上尚史によれば、発表以来、1000回以上、様々な人
たちによって上演をされてきたらしい。
それは、登場人物が3人で済むことや、特別なセットがいらない事も理由
の一つなんだと思うけど、この作品の持つ距離感といったものが、それだ
け多くの人に選ばれた理由のような気もするのである。


この戯曲は、鴻上尚史の作品の中では、ウェルメイドというか、物語性が
高い作品である、という評価が下されることが多いと思う。
そして、鴻上尚史自身は、「物語」というタームを忌避するきらいがある。

でもね、この作品に限らず、鴻上尚史の作品って、ストーリーというより
も、彼と劇団員・出演者との距離感や、観客との距離感を物語として提出
しているんじゃないのかな、と思ったのである。

すなわちこの作品は、ある意味で鴻上尚史自身の物語、ともいえるんじゃ
ないのかな。
だからこそ、「完成した物語など犬に食われろ」→自分自身が完成すること
なんてない、と言っているのかもしれないし。

でも、逆に言うと、彼と出演者、そして観客との距離感が、そのまんま
その舞台の出来不出来に直結しているともいえるような気がするのだ。


'93年以降、第三舞台や彼の舞台を続けて見てきて、今感じるのは2001年
に劇団が活動を休止するまでの間に、彼と劇団員である俳優や観客との
距離感の変化である。

なんというか、時代を追っていくと、段々とその距離が開いていったんだ
なあ、というのがわかってしまうのだ。

このトランスの初演当時は、1年間の活動休止の後、10年間つきあってきた
役者、長野里美、小須田康人が出ているからかもしれないけれど、演出家
と役者の距離も近かった気がするし、また観客である私たちもそういう
演出家と出演者の、そして観客との距離を楽しんでいたような気がする。

そして、それは彼らが立ち上げ以来、気の遠くなるような時間を練習に
あて、様々なエチュードを繰り返し行なってきた、という関係性の濃さ
から来る、一つの劇団の関係性を観るのも、第三舞台の観劇の楽しみの
一つだったように思うのだ。

で、あるならば、表現者・鴻上尚史に必要なのは、また一緒に気が遠く
なるほどの時間を一緒に過ごす、劇団員なんじゃないのかな、という
気がする。

それは旧第三舞台のキャストたちが集まって行なう、というよりは
また新たに若い人たちもしくは同い年位の無名の人たちと組んで、汗水
たらしてやっていくことのような気がするのだ。

ただし、彼が元々持っていた、例えば学生運動に対する憧れなんていう
ものは、今はもう若い観客に共感を得ることは難しいと思うけど。
それは、ただ単に、わかりやすい演劇を観客が求めている、という鴻上
自身のタームでは、本質を隠してしまうもののような気がする。

個人的には、何年たってもいいから、鴻上尚史×筧利夫主演の、師弟の
舞台、なんていうのを一番見たいな、と思ったりするんだけど。


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