パラダイムチェンジ

2003年09月21日(日) 「座頭市」

今回のネタは「座頭市」。

監督の北野武がベネチア映画祭で監督賞をとったことでも有名なこの
映画。一言で言うなら「監督北野武としては直球勝負の憧れのヒーロ
ー映画」だと思う。

この映画、様々なところで波紋を広げているらしい。
曰く、金髪の座頭市はおかしいとか、ラストのタップが唐突だったとか、
外国人や若者に媚びたつくりだから賞がとれたんだ、とか、
だからこんなの時代劇じゃないとか。

でも逆に言えば、監督北野武としては、だからこそこういう形で時代劇を
とりたかったんじゃないのかな、とも思うのだ。

座頭市としては偉大なる先人、勝新太郎のイメージがどうしても大きいと
思う。もしも座頭市を演じてくださいと言われたら、ほとんどの役者が、
勝新太郎のモノマネから入るような気がするのだ。

でも例えば、芸人ビートたけしが、勝新そっくりの座頭市を演じたとしたら
どうだろう。おそらくは上手に真似れば真似るほど、それはコントにしか
見えなくなるんじゃないだろうか。
そして、監督北野武としては、それを一番おそれていたんじゃないかな、
とも思うのだ。

金髪云々に関しては、もう一つ、所詮チョンマゲつけたって、羽二重つけた
フィクションと言う意味では同じじゃねえか、という思いもあるのかも。


そしてもうひとつ、この映画で感じるのは、北野武の「座頭市」という
キャラクターに対しての憧れ、愛情である。

勝新演じる「座頭市」は結構ダーティというか、ヨゴレ役の部分もあった
と思うが、北野版「座頭市」では、ヨゴレ役の部分は身を潜め、ひたすら
ストイックなヒーローを演じていると思うのだ。

すなわち座頭市は北野武にとっての仮面ライダーのような、憧れのヒーロー
だったんじゃないのかな。

そして、座頭市をヒーローとして描くからこそ、この映画は座頭市の物語で
はなく、彼をとりまく人たち、浅野忠信や大家由祐子、橘大五郎姉弟の物語
を中心に描かれているような気がする。

だからこそ、時代劇としては異例とも思える、彼らがアウトローになった
理由をまるで劇画のようなカットバック?で見せていく。

多分ね、普通の時代劇だったら橋田壽賀子のドラマじゃないけれど、
その辺は、セリフ一つで済ませてしまうと思うんだよね。
でも、逆に言えばその辺が、従来の時代劇が、わかりにくい理由にもなって
いると思うわけで。

そこにスポットを当てたあたりに、監督としてのこだわりがあるというか、
他の北野作品にも共通する、負け組やアウトローに落ちてしまった人に対
しての愛情が感じられるような気がするのだ。


そして、愛情と言う意味では彼を生んだバックグラウンドである、浅草、
そして(江戸)下町文化に対してのリスペクトの思いも見逃せないと思う
のだ。
だからこそ、今大衆演劇で一番客を呼べると言われる女形、橘大五郎が
出演したり、ラストにタップダンスの大団円を持ってきたんじゃない
だろうか。

そしてまた、今はもう消え去りつつある文化であるたいこもち(幇間)など
のお座敷芸を入れたのも、そんな自身を育てた文化に対しての愛情の
表れ、なのかもしれない。

これが例えばよくある時代劇だったなら、ただ単に芸者が踊って終わり
だったと思うんだよね。

で、この映画を見て思うのは、監督北野武の「まだまだ日本の大衆文化も
捨てたもんじゃねえぞ」というメッセージだったんじゃないかな、と思うの
だ。
少なくともこの映画を見た後に残るある種の豊かさは、型にはまっただけの
京都の時代劇では味わえないものなのかもしれない。

時代劇ファンとしては、そういう意味では北野時代劇の続編も見てみたい
気がする。

以下ネタばれの雑感につき、読みたい人だけ要ドラッグ。
でも、この映画に出てくる美人局に遭う男たちが揃いも揃って、大家由祐子
扮する姉ではなく、橘大五郎扮する弟に行くのはどうなんだろう。
個人的な好みで言えば、小股の切れ上がったいい女である姉の方が
いいじゃんって思うんだけど。
やっぱり男は若い方がいいんですかね?


 < 過去  INDEX  未来 >


harry [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加