パラダイムチェンジ

2003年06月12日(木) 「バカの壁」(2)y=ax

今回も前回の続きで養老孟司著「バカの壁」 を取り上げてみる。

さて、前回取り上げた引用文の末尾にもあるように、
「話せばわかるは大嘘」である、というのが、「バカの壁」の
白眉であると思う。

これについて、養老孟司はこの本の冒頭でこんな例をあげている。


「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。
イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを
詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた
時のことです。(略)

 ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい
発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子
は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばか
りだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違
いが出てきたのです。

 これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですか
ら、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差はない。だとしたら、ど
こからこの違いが生じるのか。

 その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。
要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちた
くない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、
むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。

 つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断して
しまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」
です。(略)

 女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、
真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこで
登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。
従って、様々なディテールにも興味が湧きます。一方で男たちは「そん
なの知らんよ」という態度です。彼らにとっては、目の前の映像は、こ
れまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、
情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。

 本当はわかっていないはずなのに「わかっている」と思い込んで言う
あたりが、怖いところです。(略)



さて、ここでこの箇所を引用したのは、やっぱり男子学生はダメだなあ、
って事を言いたいわけでも、「授業中の教材はやはり真剣に見なきゃダメ
だな」なんて事を言いたいわけでもない。

自分が知りたくない事について自主的に情報を遮断してしまう「壁」は、
おそらく誰の心にもあると思うのだ。

すんごい極端な話をすれば、私は別に死体の映像のようなグロテスクな
映像は見たくもないし、人が人をののしっている様は見ていてつらいなあ
と思い、自然と目をそむけてしまう。

でも、人によっては、インターネットでこの前のイラク戦争での残虐な
映像を集めようとしている人もいるだろうし、ある種のフェティッシュ
な趣味を持つ人にとっては、人の排泄する姿すら、見たいと思うものに
なる。
ましてや人のいさかいや噂話だったら、三度の飯より好きな人は沢山いる
だろう。
このように人によって「バカの壁」はそれぞれ異なっている。

どうしてこういうことが起こるのか、養老孟司は「脳の中の係数」という
章で、こう語る。


 では、五感から入力して運動系から出力する間、脳は何をしているか。
入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。

 この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式の
モデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数を
かけて出てきた結果、反応がyというモデルです。

 このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも
呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っ
ている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何か反応する。つまりyが存在するのだから、aもゼロではない、となります。



ただし、時としてこのaがゼロになる。この場合は何を入力されても、出力はなく、何の反応や行動も起きない。

養老孟司は、例えば先程の男子学生の例では係数aはゼロであり、現実感のない話だったと想像する。
そして、またオヤジの説教を全然聞かない子供の場合も、同様であり、
その時だけは子供はウンウンと相槌を打つけれど、実は何も聞いていない
から、次の日も同じように悪いことをする、と指摘する。

また、養老孟司は、a=ゼロの逆、係数aが無限大になった場合を原理主義
であると定義づける。この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対
のものになる。例えば、尊師が言ったこと、アラーの神の言葉、聖書に
書いてあることが全てを支配し、その人にとっての絶対的な現実になる、
と指摘する。

また、aがプラスに働けば好きな感情が生まれるし、マイナスに働けば
嫌いな感情が生まれる。aが値が社会的に適切な値であれば、社会生活
にうまく適応できるし、不適切であれば、その環境には合わないという
事を示す、などなど。

このくだりは面白いんでよかったら本屋で手にとってみてほしい。

その上で、養老孟司はこう述べる。
このa=ゼロとa=無限大というのは現実問題として、始末に悪い。テロは
無限大の悪い形の表れであるし、社会的にコミュニケーションの取れない
人、というのは、係数aがゼロになっている場合がある。


全てのものに対して反応しなければならない訳ではないと思う。
例えば、私はこの先、グロテスクなものや、人の悪意といったものに
対しては、今後も限りなく係数をゼロにしていくと思う。
ついでに言えば、やはり自分を含めた人のナイーブな行動に対しても、
あまり反応はしたくはない。

その一方で、自分の周りにいて、関わりあいを持ちたいと思う人たちや
関わりあいを持つ必要のある人たちに対しては、出来るだけ係数aを持ち
たいと思う。それは、まだ見ぬ自分と関わりあいを持つかもしれない人
に対しても同様である。

こんな風に、一体何に対して係数aの値を持つかという事が重要なんだと
思うのだ。

この本を読みおわった後、自分の興味のあるものに対して、もしくは
自分が嫌悪しているものに対して、一体自分の係数aがどんな風に働いて
いるか、考えてみると面白かった。

そして、係数=無限大になってしまうことの弊害についても。

そんな風に周囲のものに対して擬似的に数値化してみるのも、
たまには面白いかもしれない。
ただし、くれぐれもそれを「絶対化」しない方がいいと思うけど。


そしてもう一つだけ、書いておきたいのは、冒頭の引用文中にある、
「本当はわかってないのに、わかった気になる」という問題である。

すなわち、私たちはある情報を手に入れると、その情報を、今までの
自分の経験に基づいて、つい「想像して」わかった気になってしまう。

でも、その自分の「想像した」ものと実際の現象は、必ずしも同一では
なかったりするので、そこでしばしば誤解が生じることもある。
そして極端に思い込みが激しい場合は、自分の想像の方が正しいと思い
事実を事実として認められなくなってしまう。

養老孟司は、次のように言う。


 何でも簡単に「説明」したからってわかることばかりじゃない、という
のが今の若い人にはわからない。「ビデオを見たからわかる」「一生懸命
サッカーを見たからサッカーがどういうものかがわかる」……。わかる
というのはそういうものではない、ということがわかっていない。

 ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、
日本人は、"常識"を"雑学"のことだと思っているんじゃないですかね」
と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と
思わず声をあげたものです。



個人的に思うには、だからこそ、情報を手に入れただけで、「わかった
気になる」んだと思うのだ。

すなわち、普段の私たちは、情報を手に入れることだけが重要になって、
その情報が私たちにとって本当に重要なものであるのか、どの情報が
本当は知りたいことなのか、という情報の「重みづけ」が出来ていない
のかもしれない。

そしてだからこそ、白装束集団の動向なんかに躍起になって振り回され
ているのかもしれない。

でね、この「想像してわかった気になる」というのは、自分自身にも
実は思いっきり、当てはまるのだ。
だから、本当に自分が知りたいこと、興味のあることに対しては、
想像力だけの陥穽にはまらないように、やはり反証?して見る必要が
あるのかもしれない。

そして、もう一つ言えるのは、やはり自分の観念を「絶対視」はしない
って事かも。
そしてもう一つはやっぱり、様々な情報を実感できるだけの許容量を持つ
って事なのかもしれない。


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