パラダイムチェンジ

2003年05月27日(火) ナイーブな人(9)

さて、今回も前回の続き。
インターネット上のコミュニケーションの一種の限界について。

この一連のシリーズ、とりあえず自分の思いつくままに書いているんだけど、まさかインターネット上で、ネット上のコミュニケーションについて書くとは書いている本人も思わなかった。

ここでは、ネットコミュニケーションには一種の限界があるかもしれない、という事を書いていくけれど、それは何も、インターネット上でのコミュニケーションを否定するつもりではないという事をあらかじめ断っておく。

私自身の立場で言えば、ネット上のコミュニケーションに対して、過剰な期待も抱いていないし、かといって絶望をしているわけではない。

さてそれでは、ネット上のコミュニケーションの限界とは、一体どこにあるんだろうか。

私が考えるのは、「共通の土俵がなければ成立しにくい」ところにあると
思うのだ。


さて、ここで質問をしてみる。
あなたにとってインターネットとは、悪意の固まりですか?癒しの場所ですか?それともそのどちらでもない場所ですか?

これは、私が考えた質問ではなく、実は今年の1月に見に行った演劇「ピルグリム」のパンフレットの中の、鴻上尚史と宮台真司の対談の中にある言葉である。


宮台 名付けられない場所といえば、インターネットも、匿名的存在になって自由を得るために使われる側面が確かにあります。だから初期はそれが強調されたけど、今は逆の側面も出てきました。会社がいつ潰れ、自分の肩書がいつ消えるか分からない流動的な現実世界になると、コテハン(固定のハンドルネーム)でコミュニケーションするネット世界のほうが、むしろ流動性が低く、共同体的になりやすいからです。

鴻上 分かります一去年上演した『ファントム・ペイン』のアンケートに「インターネットは人間の悪意を形にするものだと鴻上さんは、言うけれど、インターネットにハマるいちばんの問題点は傷ついた私を慰めてくれる人が必ず待っているということ。簡単に慰められるということだと思います」というのがあって、なるほどと思ってね。



さて、インターネット上には、2ちゃんねる、ヤフー掲示板をはじめとして、日本語のサイトでも星の数ほどの掲示板が存在している。
おそらく多くの個人サイトには、一つくらいはBBSがついているはずだし。
すなわち、今この瞬間も、どこかのサイトでは書き込みが行なわれているわけだ。

かつてインターネットが流行りだした頃、そうした世界はバラ色の世界のように思われていたような気がする。
だって、今まで会った事もない見ず知らずの人と、共通の話題で盛り上がることができるんだから。

それが例えば自分の周囲の人とは盛り上がりにくいものでも、ネット上だったら、共通の話題で盛り上がれる人たちが存在する。
これは自分のネットワークが広がるという、何よりの利点だろう。

そんな風に、無限の可能性があるように思われたネットコミュニケーションだけど、今度はある問題に直面するようになる。

それが「荒らし」の問題である。

すなわちどこからか盛り上がっている掲示板に入り込み、共通の話題、共通の認識とは別の考え方を主張し、そこに普段出入りしている人たちを、
ちょっとイヤーな気分にさせてしまう人たちのこと。

「荒らし」はもちろん荒らすことだけが目的の人たちも沢山いるとは思うけれど、その一方で「その場の空気の読めない人たち」「共通の土俵がわからない(と思われる)人たち」が、荒らし扱いされてしまう事も往々に
してあるように気もする。

その結果、何が起こるようになってきたか。

これはなんかの本でも、宮台真司が言っていたらしいけれど、共通の土俵
に乗れない人は排斥して、内側だけでコミュニケーションを楽しもう、という流れが生まれてきた。

それは例えば、2ちゃんねるなどの巨大掲示板でも変わらない。
一つの話題に対して、賛成するスレッドと反対するスレッドが立ち、反対側の人間が書き込みをすると排斥されたりする世界になる。

また、2ちゃんのローカルルールというか、不文律の共通のルールに乗れない人は排斥されたり無視されたりする。

だから、その場の空気が読めて共通の話題に乗れる人は歓迎されるし、その一方でその場の雰囲気を壊す人はどんなにいい意見であっても、共通の土俵から外れていたら、荒らしにされてしまう可能性もある。


でも、ここでちょっと考えてみてほしい。
この状況って、果たして本当に自由なコミュニケーションといえるんだろうか?

ネットコミュニケーションの元々の可能性って、見ず知らずの人の、様々な物の見方を知ることも、コミュニケーションの可能性としてはあったんじゃないのかな?
いや、もちろんそんな活発なコミュニケーションの交わされる掲示板も沢山あると思うけど。

内側の意識だけで固まることは、むしろコミュニケーションの不自由さを
感じさせることもあるんじゃないか、とも思うのだ。


これのどこが、ネット上のコミュニケーションの限界を現しているかといえば、一つには、異物を取り込む力の無さを現しているんじゃないかなと思う。

いや待って、それはネットを通さない、オフラインでのコミュニケーションでも一緒なんじゃないの?という意見もあるかもしれない。

うん、でもあくまで個人的な感触でいえば、ネットだけのコミュニケーションと、顔と顔を合わせたコミュニケーションでは、取り交わされる情報量も違うし、また、荒らしのような問題も起きにくいように思う。

だから、ネット上だけのコミュニケーションは、やはりどこかつながりという
意味では脆弱な部分があるんじゃないかな、という気がするのだ。


そしてもう一つの問題は、「共通の土俵」さえあれば、それこそ無条件に相手を信用してしまうというまさしく「ナイーブさ」を現しているんじゃないかな、と思うのだ。

そして、これは過去2〜3年に渡って起きた「出会い系」のトラブルそのもの、といえるわけで。
すなわち、インターネット上の例えば、「17歳、女子高生、さみしいです」という言葉を信じて会ってみたら全然違っていたりだとか。

だから、ネット上で口説くのは、実はそんなに難しくはないのかもしれない。嘘をついてでも、相手の理想の相手、という共通の土俵に乗っかってしまえばいいわけだから。

一時期は、そんなネット系出会いのギャップが面白さとしてTVバラエティに組み込まれたりもしたんだけど、今度はそのギャップがオフラインで出会うことによりトラブルになり、殺人事件まで起こるようになってしまった。

最近、そんな事件を聞かなくなってきたのは、皆が少なくともネット上の出会い系に対しては、無条件に信用せず、ある一定の距離を持って接するようになり、ある意味賢く付き合えるようになったからかもしれない。

ただし、そうした問題が聞かれなくなって、それではネットコミュニケーションの問題が解決したかというとそんなことは無く、今度は「ネット集団自殺」の問題が起きるようになってしまった。

これは、たった一つの「共通の土俵」という脆弱さが引き起こしている連鎖反応のような気がするのだ。
という事で次回。


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