パラダイムチェンジ

2003年01月29日(水) オアシス

【例えば、ピーターパンと共に、子供達がベッド・ルームの大空に
舞い上がる姿を見たとき、幸福の涙ではなく失ってしまったものへの
涙があふれ出てきたとしたら、例えば電話のベルに心ときめく時代が
あったことを忘れたとしたら。『オアシス』への道は開かれる。】

(鴻上尚史著「ピルグリム」 白水社刊)

戯曲「ピルグリム」は、オアシスを求める旅に出るという物語である。
作品中、黒マントと呼ばれる正体不明の人物が時々現れ、こう質問する。
「さて、問題です。オアシスはどこでしょう?」

この作品が書かれた時代、世の中はバブルの真っ最中だった。
人々が時代に踊っている時代、私が初めてこの戯曲を読んだとき
「オアシス」という言葉は、おそらくいつか手に入る夢の楽園のような
響きで感じていたのかもしれない。
もしかしたら、金を出せばいつかは手に入るかもしれないもの。

お金を稼げば手に入らないものはないんじゃないかと思っていた時代。
まさにバブルという名の熱狂した時代だったのかもしれない。

今回の上演にあたり作者である鴻上尚史は、オリジナルの戯曲に若干の
手直しを入れているんだけど、その中で心に突き刺さる言葉があった。
(ちょっとネタばれかも?これから観る関西方面の人ゴメンナサイ)

オアシスと呼ばれる街を守る者、テンクチャーに対して黒マントが
こう言い放つのだ。
「違う。ここはユートピアであって、オアシスじゃない。」

同じ言葉は、今回のパンフレットの中の鴻上尚史と宮台真治の対談にも
載っている。


宮台 そういうメッセージを鴻上さんが出していらっしゃるんじゃないかな
   と思ったんです。お前は何をしに演劇を観にきているんだ。祝祭的な
   ユートピアが劇場にあると思って来ているとすれば、困ったもんだ。
   ここにはユートピアはなく、単なるオアシスにすぎないぞ。とっとと
   現実に戻って、現実に働きかけろと。(笑)

鴻上 確かに八九年当時、オウムや9・11を経験する前のユートピアや
   共同体という言葉と、経験したあとのその言葉の意味はずいぶんと
   違うと思いますけどね。

宮台 癒しの場というのは、実はシステムの補完物なんですよね(以下略)



鴻上尚史は、数々の作品を読めばわかるんだけど、もともとユートピア
という幻想から遠い人である。
実際にはありもしないユートピアを信じ、それにすがる強さを増してしまう
よりも、現実にはユートピアなんてないんだから踊ろうよ、という
メッセージを、作品中に織り交ぜてきた。

『ピルグリム』の中の「オアシス」とは、彼にとってはその「ユートピア」
に変わりうる物として、様々な試行錯誤の後でたどり着いた場所だった
のかもしれない。

ちなみにこのユートピアに変わりうるもの、は次作「ビーヒアナウ」で
鴻上尚史としては一つの回答を得たんだと思うのだが、それはまた別の話。


黒マント 君達の国にも、オアシスという言葉はあるだろう。

六本木  え、ああ。砂漠の中にある水が飲める…

黒マント そこには、誰か住んでいるかい?

六本木  えっ?

黒マント 水を飲みながら、旅人は何かを得たり、何かを捨てたりする
     交通の場所なんじゃないのかい。

六本木  あ、ああ。

黒マント まだわからないのかい。(略)



あなたにとって、そして私にとって、何が一体オアシスなんだろう。
日常を旅していながら、時々のどの渇きを癒す場所。そして情報を
交換する場所。

日常の外にありながら、いつでも行ける便利な場所。
例えば、インターネットはそんな場所かもしれない。

でもそこはあくまでオアシスであって、ユートピアとして居続ける場所
ではない。そこをユートピアとして、共同体の中に入れてしまうと、
そこでは様々ないさかいが起きてしまうかもしれない場所。

インターネットに限らず、人々がユートピアにしたいという誘惑に
駈られる場所が、現代には満ち溢れている。

オアシスは、オアシスであって初めて機能をする。
日常を旅することに疲れたら、いつでもオアシスによればいい。
そしてそこで元気になったら、また旅を始めればいい。

今回14年前に書かれた戯曲を読み直して、鴻上尚史にそんなことを
言われているような、そんな気がした。
それが今回の再演に、この作品を選んだ理由なのかもしれない。


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