パラダイムチェンジ

2002年12月20日(金) まとまらない言葉

さて、実際問題として、しばらく日記を休んでしまった。
自分が三日坊主なのは、今に始まった話ではないのだけれど、
これには、一応理由がある。

それは、自分の持つ文体が自分を縛ってしまうのだ。
別の言い方で、偉そうな言い方をしてしまえば、自分の表現の
カベにぶち当たってしまうのである。

この日記では、いや自分が関わる表現に関しては、できるだけ
自分の思いに忠実に書いていきたいと思っているのだけれど、
自分の思いを言葉にのせてみると、なかなかうまくまとまら
なかったりする。

自分の思いの丈が表現の能力を超えてしまうのだ。

もちろん、適当な形でまとめることはできるけれど、きれいに
まとめようと思えば、思うほど、そこにあった本当に伝えたかった
気持ちはこぼれ落ちてしまう。

もしもきれいにまとめることだけを目的とした表現をしていると
それはいつしか、TVのワイドショーのコメンテーターのように
自分が外さないことを目的としただけの、中身のない言葉にしか
ならなくなってしまうと思う。

つまりは、自分の表現が、やせ細っていってしまうような気が
するのだ。
そして、政治家をはじめとして、今の時代は空虚な言葉の
オンパレードになっているような気がする。

ほぼ日刊イトイ新聞の中で、自分がよく読むページにこんな話

が載っていた。

今の高校生に小論文を書かせると、紋切り型のコメントの
オンパレードになってしまう子が非常に多いらしい。
それこそまるで、ワイドショーのコメントのようであるらしい。
怖いのはカンニングしたわけでもないのに、全く同じ内容を
書いてくる高校生が全国で非常に多いということだ。

これは、それほどまでに私たちがワイドショー的な意見に毒されて
いるという事よりも、今まで自分で考えるという事を教えて
こなかった教育にこそ問題があるのではないかと、作者のズーニー
さんは指摘している。

何が本当に問題であるのかは別としても、空虚な表現しか通用
しない世の中なんて、つまらないと思う。

百人いれば百通りの意見が出てくる時代の方が、面白いし
時代も盛り上がっていくような気がする。


ここで唐突に個人的な事情にもどってしまうが、
自分が伝えられなかった気持ちをそのままにしておくのは
なんかやるせなかったりするのだ。

それが、今まで日記が留まってしまった理由で、そして
それこそが今ここに文章を重ねている理由でもある。

なので、個人的な路線変更をしてみようと思っている。
すなわち、例え言葉にまとまりがなかったとしても、
それをそのまま書いてしまえ、って事である。

ただし、これは個人的には、とても怖いことでもある。
自分の生の意見を、表現法という手練手管を、場合によっては
使わずに人の目にさらすという事でもあるわけだから。

その事によって自分が傷付く場合はもちろんあるわけだ。
特にこのインターネットという世界では。
でも、その怖さも充分に考えた上で、それでも、あえて意見が
まとまらなくても、言葉をつづってみようと思う。

おそらくは、そうやってしか、更なる表現をしたいという自分の
願望を埋め合わせることはできないと思うので。


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