Spilt Pieces
2004年02月14日(土)  意味
世の中にいる人を単純に二分する。
他人と、自分。
何十億という数字は、言葉として知ってはいても、どれだけのものなのか実感がない。
ただ、遠い地・見知らぬ地に住む人全てを合わせた数なのだと思うと、途方もない。
そして、普段自分にとって大切な人から一生存在さえ知らないであろう人まで、全て、他人である。
どんなにたくさんの人がいても、自分はたったの一人。
当たり前のことなのに、気づくとはっとする。
いつも。


例えば格言のように、周りにはたくさんの言葉があって、時折それらは矛盾する。
たった一人の自分を大切にしろと言う人がいる。
たくさんいる他人を蔑ろにして生きていけるわけなどないと言う人がいる。
個性的であれと誰かが言う。
他と協調して生きろと誰かが言う。
そういえば、私も「個性を大切に」と主張する教育学の講義に頷きながらも、ある程度の枠を外れた個性など、結局は認められないらしいという意見に賛同していたりする。


自分と他人の、曖昧で明確な境界線。
思春期の私は、他人の価値観に合わせられない自分を、生きにくい人間だと思っていた。
青年期の私は、他人の価値観を鵜呑みにしてばかりの自分を、つまらない人間だと思っている。
他人と出会い、言葉と出会うとき、小さく音を立てながらゆっくりと動く脳コンピューターは、新しいものを受け入れるための準備を始めて慌しくなる。
どうやってスペースを作ろうか。
空けた場所が、昔からあった何かを押しのける。
そして矛盾が生まれる。
それがいいのか、悪いのか。
他を受け入れる度、いつか自分は他人になってしまうのではないかと、半ば本気で思っていた時期があった。
だけど、自分など最初から、「他」の集合の組み合わせの結果なのだろうと考えるようになったら楽になった。
他を鵜呑みにすることを肯定しすぎるのが、現在の私の悪い癖。


開き直ってしまえば、この場所で、一人で立っていることも怖くなくなる。
未だに狭いところで落ち着く自分はいるけれど、人生に手すりは必ずしも必要ではないのだと思う。
手を、広げる。
大きく、広げる。
ぞくぞくする。


以前どこかで聞いた言葉。
「最後に死んだ人間が勝ち」
議論の根拠に、過去の文献が用いられることはよくある。
現在が過去になるとき、例えばAについて語れる最後の人間が自分だとしたなら、真実を歪めることだって容易。
Aがひどい人間だったと私が書き、他の人が書いた優しいAという人間に関する証拠を全て消して死ねば、後世の人は皆私の書いたものを証拠としてAを悪人だと認知するだろう。
死人に口なしとはよく言ったもの。


私は、大切な人が誰もいない世界で生きていたいとは思わない。
だから、最後に死ぬという悲しみを負ってまで「勝ち」を望むはずもない。
たとえ私とひどく気の合わない人が、「あいつは嫌な奴だった」と私の死後に言いふらすとしても。
結局、私は名誉とか尊厳というやつに執着できない。
むしろ、自由に動いて生きて死ぬためには、邪魔なもの。


他人のことを考えながら生きていくことは必要だと思う。
むしろ、自分一人で生きていこうと思ってもできやしない。
文明の中で、人と人が支えて生きていくことが見えないけれど事実となっている現代。
野生にかえる、など、今さら。


自分のことを考えながら生きていくことは必要だと思う。
何十億もいる人のうち、自分以上に自分のことを考えてくれる人などいやしない。
ミツバチのように生きているわけでもないのだ。
個、を、自覚しながら生きる方法を、いつの間にか学びながら育ってしまった。
例えば見知らぬ誰かのために死ぬ、など、今さら。


じゃあ、生きていく意味って何だろう、と思った。
多分、今日の私は寝ぼけているのだ。


完全に他人のために生きているわけでもなければ、(無意識的にはどうか分からないけれど)人間という種族のために生きているわけでもない。
自分という個を全うするため?
もしそうだとしたら、どうすればいいのだろう。
誰かと結婚して、子どもを産むためか。
でも、最近「負け犬」という言葉が流行っているようだけれど、子どもを産まないことが負けだとは、私は思わない。
他との関係の中で、何かを見いだすためか。
社会の中で認められるよう、自己実現を目指しながら役割を果たしていくことは、確かに魅力的だけれど、それが全てだとも思えない。
評価など、事実同様後からいくらだって変更可能なのだから。
それこそ、最後に死んだ者が勝つ、の理論で。


他を意識することは大切だけど、そればかりでもいけないのだろうと思う。
自己満足、という言葉はしばしば悪いニュアンスで用いられる。
でも、それが社会におけるやや窮屈な枠の中に収まっている分には、最も生きやすいのではないか。


枠を好まない私にしては、自分でもよく分からないことを書いている気がする。
生きやすさを求めているわけでもないし、社会的評価や比較によって本質を誤魔化した喜びを得たいわけでもない。
意味を、探している最中。
模索を続けながら動きを止められない私を、誰かは落ち着きがないねと言った。
自分でもそう思う。
けれど、旅は、常に始まったばかりだ。
笑ってしまうようなクサイ言葉でも、だって、それだけは事実なのだから。
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