Spilt Pieces
2003年07月04日(金)  性
成人向けの日記。
以前気まぐれに読んで以来、時折読む。
性描写が過激すぎるものは苦手だし読めない。
ただ、感情を表現する上で必要というものなら読める。
伝わってくるのは、隠し事のない真っ直ぐな感情。
仮に刹那の想いであっても、その瞬間は永遠なのだと思う。
思いのままに大切な人のことを描いているのを見ていると、忘れかけていたことを思い出す。


最近事情が変わってきたとはいえ、この国では性に関する話は未だにタブー。
「彼氏いるの?」
そんな一言が、時と場合によっては「セクハラ」と称される。
仲間内ならともかくとして、社会的な場でプライベートに関わるような発言をすることが許されていないからだろうと思う。
それは大人として、世の中をうまく回転させていくための、暗黙の了解。
抑圧は、必然であるかにみえる。
多くの人が、言葉を濁す。
隠せば隠すほどに、何かが曇る。


性的な話がおもしろおかしく扱われるのは好きじゃない。
押し殺されるがゆえに、独立したものとして切り離されてしまうのだろう、と勝手な推測をする。
人間関係の直線上にあるはずのものなのに。
歴史を見る限り、性を商売道具にすることは今に始まったことじゃない。
昔からずっと繰り返されてきたこと。
本能的に、人々が求めているからかもしれない。
需要と供給。
だけど、そう考えてもやはり、性の商品化には賛成できない。
感情のない快楽の追求は、感情や気持ちを大切に考えていたい私には受け入れられない部分が多すぎる。


高校生の頃、性的な話に対する嫌悪感があった。
今このような日記を自分が書いているのも不思議なくらい。
ある日、友人が部室にレディースコミックを持ってきた。
2ページ読まないうちに、気分が悪くなってリタイア。
笑われた。
誰かが赤裸々な話を始めると、いつも顔が赤くなった。
私の中では、「切り離された世界」だった。
きっと周りの人たちが感情面を省略して、行為のみについて話していたからだろうと思う。


男性が苦手だった。
何を考えているのか分からない。
腕力でも勝てない。
普段いいかげんなのに、肝心なときには力を発揮する。
劣等感や恐怖感を含んでいたのか。
大学へ入って、きちんと話ができるようになって、色んな人の色んな個性を知るにつれ、それまでの自分を恥じた。
傷つけた人たちに、弁解する余地さえない。


好きな人ができて、誰かの傍にいたいという感情を初めて持った。
それは昔周りから聞いたような行為とは全く別種のもののようでいて、同じ線上にあるものなのだと思った。
切り離す必要などなかった、と知る。
きっと、自分が好きな人の傍にいたいと思うのと元は同じ感情。
自然なこと。
だけど、行為として性が商品化されているのを見ると、せっかく得たこの気持ちを失ってしまう。
また、嫌悪感が戻ってきてしまう。
そう思うから、性がおもしろおかしく取り扱われるのは嫌い。
自然なことが不自然に変わるのは、いつだって人間が「部分」を「個」として独立させたとき。
繋がりも何もかも、消して欲しくない。
全て切り離されたところから根本にある感情を推測できるほど、私は頭がよくない。


成人向けの日記には、性描写が当然のようにある。
だけど、大切な人を想っている人の言葉というのはきちんと伝わってくる。
優しい感情、誰かをいとおしく想っていること。
誰もが隠してしまいそうなこと、もしくはただおもしろそうに書いていること、とは異なる連続的な感情。
日記だから、メディアと違って利益を追求しているわけではない。
自分の想いのままに相手への愛情を綴る言葉には、不思議といやらしさがない。
素直で、真っ直ぐ。
私には書けない表現。


昔は、自分がそういう文章を読むようになるだなんて思わなかった。
だけど、今はそういった垣根を設けること自体、「切り離している」ことなのではないかと思うようになった。
誰かを想うというのは、優しさの感情を伴う。
それを表現したいと思ったときにたまたま性行為へと話が及んでも、それはそれで構わないのだろうと思う。
不倫の人が書いている日記があった。
そのこと自体は社会的に許されないし、私も周りの友人が不倫へと走ったならその子の将来を考えてきっと止める。
だけど、その感情までを否定するのはおかしいし、不倫であるというだけで人格を疑うことなどできない。
結局のところ私は、誰かを想う人の言葉というのが好きなのだろう。
優しくて、あったかい感情。
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