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| 2010年08月20日(金) 巨像恐怖症。 |
| 以前から巨大な石像や鉄塔、風車など必要以上に大きい物に対して何ともいえない恐怖を感じていたのだが、こういう感覚を巨像恐怖というらしい。 幻覚や妄想と同様、その人特殊な感覚をリアルに第三者に伝えることは専門家である我々であっても難しい。よって巨像がどのように怖いか伝えることも至難の業であるが、私にとって巨大な物はなぜか「暴力」を感じてしまうのである。 知らない地域の山道を車で走っていたりすると、突然森から石像の頭だけ見えてきて、近付くにつれて巨大石像が露になってああ怖い。足が竦む。陰嚢が縮む。なんであんなにでかいんだ。こんなにでかくする必要がどこにあるんだ。何でもでかけりゃいいってものじゃないが、これを造ろうと思った人はでかけりゃいいと思って造ったに違いない。 こういう「でかけりゃいい」という部分が暴力という感覚に繋がっているような気がする。なんでもない田舎の風景に不自然に大きい石像。このアンバランスさに恐怖するのだ。 私はおそらくバランスを非常に大切にするタイプの人間なんだと思う。上手い具合に周囲と均衡を保ちながら、またバランスが崩れそうな者に手を差し延べながら生きている。調和調整兼ね合い釣り合い。私の職場での人物概念を表すとこうなるであろう。 よって修正不可能なほど秩序が崩れたものが怖い。理解を超えたアンバランスが怖い。平穏無事に日々を過ごすことを希求している私の人生にこの石像はなぜ私の前に立ちはだかる。秩序を乱してまでの巨像を造る思いに何の意味がある。でかけりゃいいってもんじゃないのに、堂々とでかけりゃいいと宣言するたびに自己が否定される。 秩序を乱してまで押し通す自我。そしてほぼ永久的に発せられる一方的なメッセージ。目を逸らしても視界に入る大きさ。逃れられないエゴ。他人を弾劾しているようで自らを糾明しているようでもある。そして私はそのような責められる感覚を暴力と捉え、恐怖と認識しているのである。 時々、タイヤが車1台分ぐらいの大きさの巨大トラックに遭遇するが、ああいうのが横を通ると余裕で卒倒失禁する。 |
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