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| 2002年10月27日(日) ラチチュードについて。 |
| 物事に寛容になれるのは、その物事に対してどうでもいいと思っているから。 ある事象が発生したと同時にある選択を迫られる。 僕にとってはどうでもいいこと。しかし感情表現の選択肢は「怒る」か「受容する」か。 僕は迷わず後者を選ぶ。何故か? 怒ったってしょうがないし、それ以前に僕にとってどうでもいいことだから。 要は、相手に対する影響よりも、僕自身に降り掛かる損得の問題。 怒りを表現して相手に不快な影響を与えるよりも、 少し自分が不快な感じがするだけで表面的な受容を表現する方が得だと思う。 今後いろいろと。長い目で見て、寛容であることは得だと思う。 どうでもいいことは結構重要なことだと思う。 無責任は美徳だと思う。 だから僕は、この世にはびこるありとあらゆる不平や不満を、 僕が生きている世界にだって、社会にだって、職場にだってはびこっているありとあらゆる不平や不満を ただヘラヘラ笑ってなんでもない振りを装うようにしている。 その装いは客観的に見て「寛容」だと理解される。 あいつは「寛容」だと。何に対しても挫けないし、愚痴を言わない。 得だと思う。こういうことって得だと思う。 僕は1人でやらなければならない仕事が多い。 人に相談するなんて協力してもらうなんて「寛容」という錦の御旗の元に許される行為ではない。 だから何でも1人で片付ける。 職場の立場としては僕はある意味――経済的な――社会の歯車。 僕に何でも仕事と苦労と責任を押し付ける。 僕はヘラヘラ笑ってそれを片付ける。苦労の色なんて見せないから、それは便乗されて、悪循環となる。 だから僕は1人でやらなければならない仕事が多い。多すぎる。 そんなに文句を言うのならてめぇ1人でやってみろよ。と言いたくなる。 だけど言わない。僕は寛容だから。客観的に寛容だから。 客観的に寛容だけど、主観的な八方美人。 すごく惨めだ。 |
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