言葉を語らせるには、その粗質を焙出する為のもので、時に筋の異なる様相でさえ、その端でしか曝されてはいないからである。つまり、生は死となり死は生となる、肉体と精神での逆説が、こんな日常にも溢れんばかりなのだから、求められるべきことは、時に応じて臨むとする。今はまだ不充故に、敢えて語らせよう。そして、その後の禍を見知らぬままに過ぎさせよう。これが私の覚えた思念としよう。だから、枝を観て幹に触れるものを求めよう。