薔薇園コアラの秘密日記

2005年01月04日(火) イタリア旅行記その5

 バチカン美術館のラファエロの4つの間の手前に、ポーランドの偉大な歴史画家、ヤン・マテイコの大作が展示してあった。

 「1683年 カーレンベルグの合戦」ヤン・マテイコ作
 第二次ウィーン包囲の様子を表わした画。
 
 私達家族4人は、
「おぉ〜、こんなところにヤン・マテイコの画がある〜、おぅ〜、ヤン・ソビエスキーが描かれてる〜」
 といって、立ち止まってまじまじと見入ってしまった。

 ニッポン人ガイドのオバはんは、この画の前をあっけなくスルー。
 とっとと先に行ってしまいました。

 おいおい、ニッポン人はこんな画、興味ないかもしれないけどねぇ、欧州人にとってはねぇ、この画は、歴史的、宗教的に有意義な合戦なのであるぞ。わかっちょるかにぃ〜?

 「ウィーン包囲」とオスマン帝国の衰退。
 昔、学校の歴史の時間でちょろっと習ったはずだけど、記憶があいまいかな。

 16世紀から17世紀。
 第10代君主スレイマン1世の時代に隆盛を極めたオスマン帝国。

 次第に領土を拡大していったオスマン帝国は、中央ヨーロッパから北アフリカまでイスラムの支配下に入れ、いつしかヨーロッパ諸国を脅かすようになった。

 オスマン帝国にしてみれば、ハプスブルグ家の都ウィーンを陥とせば、イスラム世界をヨーロッパ全土に展開できるのは必至である。そうとなれば、喉から手が出るほど手に入れたい要都・ウィーン。

 そこで、オスマントルコ軍は、1529年、1683年と2回にわたり、ハプスブルグ家の都・ウィーンを包囲した。いわゆる、これが「ウィーン包囲」である。
 この包囲の第1回目は1ヶ月間、第2回目は3ヶ月間にも及んだそうだ。

 そこで、あの画に描かれていた「カーレンベルグの合戦」。
 ポーランド軍を率いたポーランド国王ヤン・ソビエスキー�契い蓮⊃誓札蹇璽濤陳襪離魯廛好屮襯芦箸鮗蕕襪戮�、ウィーン近郊のカーレンベルグの丘にて、オスマントルコ軍をついに撃退した。

 以降、オスマン帝国は、中央ヨーロッパにまで拡大していた領土を次々返上し、急速に帝国の勢力が衰退していくことになる。

 つまり、以上の話を単純明快に言ってしまえば、これは、イスラム教対キリスト教の戦いなのであった。

 もし、あの時、あそこの合戦で、キリスト教軍団最前線のポーランド軍が、イスラム教軍団オスマン軍にあっけなく負けていたらどうなっていただろうか? 当然、神聖ローマ皇帝のハプスブルグ家は、オスマン帝国の支配下にはいることになっただろう。そして、今ごろは、ヨーロッパ全土にモスクが乱立し、人々はコーランを唱えていたことであろう。

 つまり、キリスト教滅亡の危機を、ヤン・ソビエスキー�契い�死守したということである。よって、このヤン・ソビエスキー�契い蓮�後にその偉業をキリスト教の総本山であるバチカンでローマ皇帝から称えられたのだった。

 だからねぇ、日本では超マイナーかもしれないけどさ、ヨーロッパのキリスト教圏では、ポーランドのヤン・ソビエスキー�契い箸い┐弌�第2次ウィーン包囲の際に偉業を遂げた王様として、今でもとても有名なんだよ。なんたって、バチカン美術館にその合戦の画が展示されるほどなんだから。


 バチカン美術館ではさ、ミケランジェロやラファエロなど高名画家の有名な画がたくさんあって本当に素晴らしいとおもったけど、こうして、ほかにも所蔵されている作品一つ一つに重要な意義があって、それぞれに由緒と価値があるんだろうなぁ。あまりにも作品の量が膨大すぎて、一つ一つじっくり鑑賞する体力と気力なんて全くなかったけど。。。

 参考 エンカルタ百科事典 及び、昔のポーランド語の先生のお話より。

 


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祐子 [MAIL]

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