小学校高学年のころのお話。 理科で、卵の孵化について勉強する授業があった。
担任の先生が養鶏場から取り寄せた「有精卵」を、ふ卵器の中でひよこに孵るまでの過程を調べる授業だった。
用意された30個ほどの卵は、お店で売っている卵とは違い、ひよこが生まれる卵ということで、小学生の私たちは、卵の殻を割って、お祭りで売っているような雛が出てくるのかと、毎日わくわくしながら大切に見守っていたものだった。
ふ卵器に入れてしばらくしてから、1個の卵を取り出し、中身がどう変化しているか見てみた。赤い血管が生じ、卵から命が芽生えたことがわかった。
もうしばらくしてから、また1つの卵を取り出し、調べてみた。 前回よりも更に血管が増え、明らかに命が形作られている。 私たちは、やがてはひよこになっていく命の過程を目の当たりにした。
その次の解剖の授業くらいで、私は突然、怖くなった。
理科の実験とはいえ、毎回、ひよこになりかけの卵を解剖して、ひよこの命を殺している。このまま解剖をせず残り全部をふ卵器に入れておけば、私たちが楽しみにしているように、ひよこがたくさん孵るかもしれないのだ。私たちは今、とても残酷なことをしているのではないか・・・と。
授業中、卵の中身をのぞきこんでいるみんなの傍らで、私は突然、しくしく泣き出してしまった。担任の先生が私の様子に気づき、すぐに解剖を中断した。
私は泣きじゃくりながら、 「これじゃぁ、殺されるひよこがあまりにもかわいそうだ・・・」 と先生に訴えた。
するとまわりの女の子たちも次々と連鎖反応のように泣き出し、教室のみんながわんわん大泣きするという事態になってしまった。 その日は、そうこうするうちそのまま授業は終ってしまった。
次の理科の時間。 担任の先生がいった。
「先日からふ卵器に入れていた卵を特殊な方法で見てみたら、残りのほとんどが「無精卵」ということがわかりました。だからこれ以上、卵をふ卵器に入れていても意味が無いので、この解剖の実験はこれで中断します。残りの卵は養鶏場にかえすことにします」
確かに、今まで解剖した卵には、何の変化もない「無精卵」もあり、「有精卵」を探し当てるまで、次々割っていったこともあった。残りが無精卵だったといわれれば、単純な子供たちは信じるだろう。
わたしは、教室でひよこが生まれないのは残念だったけど、あれ以上、ひよこの雛を残酷に殺さなくてもよくなったから、あぁ、よかった・・・と思ったものだった。 そして、それ以降は別の実験の授業が始まったので、私は卵のことなどすっかり忘れ去ってしまった。
残りは全て無精卵だったというのは、子供だましの嘘だったに違いない。
担任の先生は、私をはじめ多感な子供たちの涙を前に、いろいろ考えるところがあったのだろう。授業とはいえ、殺生をしているのだ。卵の命、命の卵といえどもあなどれない。 私のほうは、授業の教材にもかかわらず、ひよこかわいさだけの過剰な感情移入で取り乱してしまった。でも今思えば、担任の先生は、多感な私の感受性を真正面で受け止めて、ちゃんと理解してくれていたのだろう。
今でも多感な私があるのはあの先生のお蔭。 私を認めてくれた担任の先生には今でも感謝している。
「卵の命」。今でも忘れられない小学校時代の小さなエピソードなのです。
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